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がしゃあん、と盛大な音を立て、皿の破片が四方八方に飛び散った。
ラーメンのどんぶりが三枚同時に割れたのだから、盛大な音になるのも無理はないなと遠いところで思う。店長に謝らなくちゃ、と考えながらも口先では脊髄反射で「失礼しましたー」と言っていた。お客様の目の前ではなかったが、洗い場へ入る一歩手前なので、見えるといえば見える位置だ。
「大丈夫か!?」
すっ飛んできたのは、店長ではなく先輩だった。今日は偶然にも、皿洗いをしていたらしい。濡れた手にはほうきとちりとりがあって、それがなんでか頼もしく見えた。
「指、血が出てるぞ」
「大丈夫です」
「絆創膏貼っとけ。後は俺がやるから」
先輩は私の服を指さした。
「替えはあるか?」
――スープまみれになった制服に目を落として、私はようやく頷いた。
一時間後、休憩室の机に突っ伏している私の耳元で、ことんと硬い音が鳴った。顔を上げると、買った覚えのないミルクティーの缶がそこにあった。
「お前、今日はもう帰ったほうがいいんじゃね?」
私の横に置かれたのと同じミルクティーを飲みながら、先輩が向かいに座る。私の失態について迷惑がっている様子はなかった。
「だってお前、やばいくらいに顔色悪いじゃん。土気色すら通り越してるぞ。人間の顔色じゃないってそれ」
「……隠せてないですか」
「隠してるつもりだったのか。サングラスかけながら化粧したのか?」
わざと軽い口調でそう言って、先輩は缶をテーブルに置く。私は、先輩がおごってくれたらしいミルクティーの缶を両手で包み込んだ。少しずつ手の平が冷えて、その分だけ缶がぬるくなっていくのが分かる。
「普通、学生ならテスト中にそういう顔になるんだけどな。テスト明けはもっと晴れやかな顔してるもんだぞ」
「そう、ですね」
「ちゃんと寝てんのかよ」
ちら、と視線をあげて先輩を見る。好奇心ではなく心配してくれているようだった。
「……あまり眠れてなくて」
「だろうな。悩みでもあんのか?」
「――……物音」
「え?」
「物音がするんです。隣の、部屋から」
私はぽつぽつと、先輩に事情を説明した。
少しの間止んでいた物音が、また聞こえるようになった。聞こえるようになったのは、二階の廊下で津賀さんを見かけてからだ。
壁を叩く音、何かがこすれるような音。物音のする時間はまちまちで、早朝だったり昼間だったり、真夜中だったりする。下手をすればほぼ一日中、続く時もある。
物音だけではなく、男性の呻き声がする時もあった。
「……中で誰か倒れてんじゃないのか」
私の話を深刻な顔で聞いていた先輩は、さも気味が悪そうに言った。私は首を振る。
「それが時々、扉を開閉する音も聞こえるんですよ。声の主が動いているか、同居人がいるかだと思います。物音について、他の住人たちが指摘することもありませんし」
以前、壁に耳をあてたら女性の声が聞こえたことは伏せた。
先輩は腕を組み、しばらく考えてから、
「すっげー嫌なこと言っていいか」
「……聞きたくありませんし想像はつきますけど、どうぞ」
「その物音は実はお前にしか聞こえてなくて、男の声っていうのは夜逃げした工場長の怨霊なんじゃないか」
「やっぱりそうなるんですね」
女の声が聞こえたと教えれば、同じく行方不明になっている母子の幽霊だとでも言い始めるのだろう。あらゆることが科学で立証されている現代、その考えはさすがに馬鹿らしい。私は息を吐いた。
「せめて、夜通し鳴ってる音が止まってくれればいいんですけど」
「普通の騒音として、苦情は言ってないのか?」
「普通の騒音っておかしな日本語ですね。……二日前、管理会社に連絡しました」
「んで?」
「それで効果があったなら、一枚の皿も割ってませんよ」
だろうなあ、と先輩は苦笑した。
「管理会社に電話して話が通じたってことは、隣の部屋に住人はいるんだな」
「そうだと思います。……先輩、残念そうですね」
「いや。幽霊ってさ、問題の部屋じゃなく、その隣にいやがらせする時もあるらしいぞ」
――ほうきとちりとりで武装したこの人が頼もしく見えたのは、気のせいとか気の迷いとかいう類のものだったのだろう、そうに違いない。胡散臭そうな顔をする私に先輩は「悪い悪い」と謝り、今度こそ真面目な顔をした。
「ま、なんかあったら俺にでも言えよ。こう見えて顔広いからさ、ある程度の情報は集められると思うし」
「……頼りにしてます」
「棒読みで言われてもなあ。――もうすぐ休憩終わるけど、お前どうする? 帰っても大丈夫だと思うぞ。店長も心配してたから」
私は時計を確認して、力なく笑った。
「あと四時間くらいは平気だと思います。朝番だから、夕方には帰れますし」
「そうか? 無理すんなよ。指は?」
「もう出血してないんで大丈夫です。私、血が止まるの早いんですよね」
先輩が不安そうな顔をする中、ミルクティーを開けてエナジードリンクのごとく一気飲みする。
甘ったるいそれは室温と私の体温で、幾分ぬるくなっていた。
十九時、なんとかその日のバイトを終えてハイツに戻ると、花壇の前に蹲っているしゅうくんを見つけた。なんとなく嫌な空気を感じとる。無視してしまおうかと思った矢先、しゅうくんがこちらを見た。
「おねえちゃん」
呼ばれてしまっては、無視できない。私は緩く手を振り、しゅうくんに近づいた。
「ここで何してるの?」
「…………」
「おうち、帰らないの?」
「……かえりたくない」
小さな声だった。意志が弱いというよりも、誰かに聞こえないようにしているような声色。私はハイツを見る。一〇二号室。それか、しゅうくんの家である一〇三号室。
「どうして帰りたくないの? もう少し、お外で遊びたい?」
しゃがみこみ、私も声を小さくする。しゅうくんはしばらく、口を尖らせたまま話さなかった。帰宅を拒む理由は話したくないのだろうか。
「しゅうくん、晩御飯はもう食べた?」
「……まだ」
「じゃ、お腹すいたでしょ。おうちで晩御飯食べた方がいいよ。そうだ、しゅうくんが好きな食べ物はなに?」
非常にどうでもいい情報ではあるが、会話の糸口になるのはこの手の話題だと思う。子供でも答えやすい質問に、しゅうくんは明るい表情を見せた。
「かんてん!」
「……寒天」
予想の斜め上を行くその回答を、思わず復唱してしまった。寒天。寒天て。悪いとは言わない。しかしこのくらいの子供なら、せめてゼリーと言わないだろうか。
「……おいしいよね。私は、コーヒー味のが好きだよ」
「こーひー……」
「流石に渋すぎるか。しゅうくんは何味の寒天が好きなの?」
「いちごっ」
なるほど、そこは子供なのか。
年相応のあどけない顔をしていたしゅうくんは、ふと顔を曇らせた。
「おねえちゃん、あしたもおしごと?」
「え? どうして?」
「さっき、おねえちゃんいないとき、かいじゅうがでてきたの」
怪獣という非現実な単語とは裏腹に、しゅうくんの声は切羽詰っていた。
「おねえちゃん、かいじゅうをやっつけるひとなんでしょ」
「怪獣をやっつける? 私が?」
「だって、おねえちゃんがいるとき、かいじゅうあんまりでてこないもん」
しゅうくんはそう言って、ハイツを指さした。十九時を過ぎているせいで薄暗く、一層不気味に見える古い建物。
「このおうちに、かいじゅうがいるの。かいじゅうがでてきたら、このおうち、かいじゅうでいっぱいになる。……こわいよう」
ついに泣き出したしゅうくんは、私の手をきゅっと掴んだ。ふにゃりとした、熱い手の平。
「おねえちゃんは、ずっとここにいる?」
それとも、としゃくりあげながらもしゅうくんは続ける。
「おばちゃんやおじちゃんみたいに、いなくなっちゃう?」
――おばちゃんや、おじちゃんみたいに。
その言葉がひっかかって、恐ろしくて、『失踪』という単語を振り払うように私はしゅうくんを抱きしめた。
「……大丈夫だよ。お姉ちゃん、勝手にいなくなったりしないから」
空がオレンジ色を失くした頃、私はようやくしゅうくんを一〇三号室に送り、自分の部屋に戻った。
隣室と繋がる壁を見る。
音は、聞こえなくなっていた。