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関西の実家から送られてきた段ボール箱の前で、私は放心していた。
トマト、きゅうり、なす、ピーマン、とうもろこし、枝豆。これら夏野菜が、一人暮らしの我が家にやってきたのだ。それも大量に。
いい親御さんじゃない、娘のことを心配してるのよ、と言われればそうだと思う。しかし、『家で作った野菜が大量すぎて食べきれないから、とりあえず娘にでも送りつけておこう』という魂胆が、鮮やかな野菜の間からチラチラと見え隠れしていた。あの人達はどうして毎年、どうしようもないくらいに大量の野菜を育ててしまうのか。ご近所に渡せるくらいのコミュニケーション能力もコネもないというのに。
改めて、段ボール箱の中身を確認する。一人暮らしではまず消費できない、それどころか少食の私にとっては拷問のような量だった。中古の冷蔵庫は現在調子が悪く、製氷皿の水はいつまで経っても変化しない。冷凍保存は考えない方がよさそうだ。
結局私はビニール袋を数枚用意し、それぞれに野菜を詰め、ハイツを回った。
「え、いいのかいこんなに。ありがたいなあ」
一〇一号室、同道さんは爽やかな笑顔で受け取ってくれた。袋の中身を確認して、「枝豆!」と声を上げる。
「大好きなんだ。早速茹でよう」
「私が言うのもなんですけど、味はいいと思います」
「家で作った野菜を送ってくれるなんて、素敵なご両親だなあ。仲がいいんだね」
「……普通だと思います」
そんな素敵なご両親と気が合わなくて、単身こっちに越してきたんですとは言えなかった。
「そういえば星井さんは、正しい枝豆の茹で方って知ってる? まずは」
その時、同道さんの家の奥から声がした。女性、だろうか。同道さんが背後を見る。
「はいはい、今行くよー」
「……あ」
「うん、今のが奥さん。すっかり尻に敷かれててね」
同道さんは情けなさそうに、それでも幸せそうに笑った。仲のいいご夫婦だろうなと安易に予想がつく。同道さんは優しいし、楽しい人だし。
「おかえしに渡せるものはないかなあ」と言いながらビニール袋をぷらぷらとさせていた同道さんは、「そうだ!」と声を出した。
「プラセンタ、あげるねって言ったままだ。野菜のおかえしに今度こそ持っていくね。……今は切らしてて、いつ入荷するか分かんないんだけど。本当に効果あるからさ」
「同道さん、相変わらず綺麗な肌してますもんね」
「化粧品会社に勤めてるからね、肌が荒れてると怒られるんだ」
なるほど、化粧品会社か。同道さんならしっくりくる。
再び部屋の中から奥さんの声がしたので、同道さんとはそこで別れた。そのまま一〇二号室へと向かい――素通りする。同じハイツにいるとはいえ面識がないで、野菜を渡すのもはばかられた。先日、私の顔を見て逃げていったくらいだし。
一〇三号室。チャイムを押してみたものの反応はなかった。津賀さんは留守か。買い物にでも行っているのかもしれない。早ければそろそろ、惣菜に値引きシールの貼られる時刻だ。ブランド物を身に纏った津賀さんが、スーパーで値引きされた惣菜を買っているとは想像できないけれど。
一方、二〇一号室の戸坂さんはすぐに出てきた。室内から、しょうゆの匂いが漂ってくる。煮物だろうか。
「まあ、おいしそうなお野菜! ありがとうねアキラちゃん」
喜色満面でそう言った戸坂さんは、夏野菜を使った料理名を次々とあげた。七十は過ぎているはずなのに、ラタトゥイユやカッペリーニなんてよく知っているなと思う。本当は三十歳なのよ、と言われても驚かないラインナップだ。
野菜のおかえしにと素麺をもらい、自分の部屋に戻る。一〇二号室と同様に、二〇二号室もあえて訪ねなかった。理由はふたつある。
ひとつは、面識が全くないから。
もうひとつは、最近、留守にしているようだから。
「どこ行ってるんだろ」
意味もなくひとりごちる。ここ三日ほど、物音はぴたりと止んでいた。壁を叩く音はもちろん、足音すら聞こえない。明らかに家をあけているようだ。戸坂さんの言い方からして、外出はしない人だとばかり思っていたのに。
「……素麺でも茹でようかなあ」
意味のない独り言を続けて口にし、玄関で靴を脱いでいると、扉を開閉する音が聞こえてきた。その瞬間、私の顔には奇妙な表情が貼り付いていたと思う。
――今開いたの、二〇二号室の扉だ。
続けて、鍵穴に鍵をさす音が聞こえてきた。室内から外に出て、施錠する音。てっきり誰もいないと思っていたのに、いたらしい。
私はほんの一瞬ためらってから、靴を履きなおした。
二〇二号室に住んでいる人がどんな人間なのか、見てみたかったのだ。
扉に近づき、そうっと開けてみる。
廊下にいたのは、白いワンピースの女性だった。髪が長くて、横から見ればホラー映画に出てくる怨霊に見えなくもない。隣の住人は女性だったのか。一〇二号室のパーカー男が印象的だったせいか、二〇二号室も中年男性かと思いこんでいた。ワンピースはシンプルだけど少し飾りがついていて、若い女性だと推測できた。
「…………」
女性はそのまま廊下を歩いていくかと思いきや、すうっとこちらに顔を向けた。まるで、私の部屋を確認するような動作で。
「――……あ」
どちらともなく、声を出す。
ワンピース姿の女性――津賀さんは瞬時に笑顔を作った。
「こんばんは、星井さん。今日はお仕事じゃなかったの? 土曜日だけど」
「あ、シフトが変更になって」
周囲が薄暗かったせいか、津賀さんだとすぐに気づけなかった。いや、それよりも。
どうして津賀さんが、ここにいるんだ?
「……津賀さんが二階にいるなんて、珍しいですね」
遠回しとはいえ、詮索するような言い方になってしまった。後悔する私に気づいているのかいないのか、津賀さんはそうねえと笑う。
「この部屋の人に、少し用があったの」
「えっ……。お知り合いなんですか? ていうか、いらっしゃいました?」
矢継ぎ早に質問すると、津賀さんは目を細めた。
「知り合いもなにも、同じハイツの住人じゃない。――……中にいたわよ?」
とてつもなく、綺麗な笑顔だった。背筋が凍るくらいに。
半歩引く私に向かって、津賀さんは猫のように小首を傾げた。
「星井さんは? どうしてそこにいるの?」
「え、えーと。……あっ」
私は、置きっぱなしにしていたビニール袋をひっつかんだ。
「さっき津賀さんのお部屋に行った時、いらっしゃらなかったんでもう一度お伺いしようかと思って。あのこれ、実家から送られてきた野菜です。よかったら」
「あら、わざわざありがとう」
津賀さんは笑顔を崩さず、ビニール袋に手を伸ばしてきた。渡す瞬間、ほんの少し指先が当たる。
――信じられないくらいに、冷たかった。
「あら、おいしそうなきゅうり。家に帰ったら丸かじりしちゃおうかしら」
津賀さんはいたずらっ子のように笑う。私も、笑顔を作った。
「……なんというか、津賀さんには似合わないですね。きゅうり」
「そうかしら」
「津賀さんは果物とか、食べ物じゃないけど花束のイメージです。……正直、このハイツにいらっしゃるのも不思議ですもん」
私の言葉に、津賀さんは肩をすくめた。
「パート先の人たちにも言われるの、高級マンションに住んでそうだって。――はっきり言って最初は私も、あまりここには住みたくなかったんだけどね。今では逆に、ここから動きたくないくらいよ。というか、動かないつもり」
「えっ、そうなんですか」
てっきり、しゅうくんが大きくなったら引っ越すつもりなのだと思っていたのに。だって、1LDKは三人家族だと狭い。部屋数も足りないだろう。
私がよほど間抜けな顔をしていたのだろう。津賀さんはくすくすと笑った。
「案外居心地がいいのよ、ここ。修人にもあってるみたいだし」
「しゅうくん?」
津賀さんが頷く。
「あの子ね。昔は手が付けられないくらいにやんちゃだったの。暴れん坊って言ってもいいくらい」
「えっ」
「イヤイヤ期のピークが一年前でね。その頃ここに越してきたんだけど、あっという間に大人しくなったの。やっと反抗期が過ぎたかなって安心しているのよ。このハイツ、修人のしつけと教育にはぴったりみたい」
ただ、今でもたまにイタズラはするんだけどね。津賀さんは笑った。
「そうね……。星井さんも近いうちに気づくんじゃないかしら」
ビニール袋を持っていない左手を、津賀さんはゆっくりと胸の高さまで上げる。
……何か、握りしめている?
「裏野ハイツはね、魅力的なの。――――とても」
津賀さんが、そっと手を開く。
手の平で転がったのは、ソフトビニールでできた赤い首だった。