2
東向きの裏野ハイツは、とてつもなく暑い。
窓を開けはなしてみても、生ぬるい風がカーテンを揺らすだけ。朝から暑いくせに、夕方は薄暗くなってしまう。風鈴は気休めにもならないどころか夜はうるさいだけで、つけて三日後には取り外した。
梅雨が明けた頃からなんとなく予想はしていたし覚悟もしていたが、それでもやっぱり暑いものは暑い。七月でこの調子なら、八月はどうなってしまうのだろう。
湿気たプリントをテーブルの上に置いて嘆息する。テストが近いけれど、この家で勉強できるだろうか。節約のために、クーラーは使いたくない。大学の図書館にこもるか何かした方がよさそうだ。
――ごっ。
変な音もするし。
誰かに相談するか、事情を聞いた方がいいような気がしてきた。けれど、このハイツの住人に訊くのはまずい気がする。勘だけど。たとえ外部の人間に相談するのだとしても、私が『それ』について相談したことを、ハイツの住人に知られることすら許されないのではないか。
話を逸らそうとする同道さん。こちらを見上げていた津賀さん。なんでもないと主張する戸坂さん。一〇二号室の、パーカーの男。
……ここの住人はきっと、何か隠してる。
再び壁がごつりと音を立て、私は『うるさいですよ』という意味を込めて壁を軽くノックした。ところが次の瞬間、
――どごっ!
今までより大きな音が鳴った。『うるさい黙れ』と逆ギレされた気分だ。私はもう一度大きなため息をついて、テーブルに放置していたプリントを鞄に突っ込んだ。ファミレスかファストフードにでも行こう。ドリンク一杯で何時間か粘ればいい。
玄関から外に出て、錆びた階段をおりる。駐輪場とゴミ捨て場の間にはレンガで囲われた半畳程度の小さな花壇があって、そこに戸坂さんがいた。私を見て、自慢げに花壇を指さす。正確には、そこに咲き誇っている小さな向日葵を。
「綺麗でしょう。この花壇ね、お花が育てやすいの。日当たりがいいから」
「そうですね」
日当たりが良すぎて暑いくらいです、と内心で付け加えた。
「アキラちゃん、これからお仕事?」
「いえ、ちょっと出かけようかと。家だとテスト勉強がはかどらないですし」
「ああ、学生さんはテストが近いのね。アキラちゃん、働いてるしお勉強もしてるし、えらいわあ」
「いえ……」
そうだわ、と戸坂さんは手を叩いた。
「今日ね、夕食にカレーを作ろうかと思ってるんだけど。よかったらどう?」
「あ……。すみません、多分帰ってくるの遅くなると思うんで」
「そう? 残念」
戸坂さんは肩を落とし、けれどもすぐさま立ち直った。向日葵と一緒にこれを植えようかと思うのよと、オレンジ色のマリーゴールドとピンク色の日々草を私に向けた。
「あっという間に八月だしね、花壇も綺麗にしておこうかと思って」
「八月?」
戸坂さんは、嬉しそうに笑った。
「孫が会いに来てくれるのよ。滅多と会えないから、八月が待ち遠しくてねえ」
「ああ、それは楽しみですね」
なるほど、それなら花壇も手入れしたくなるだろう。戸坂さんの部屋、普段は来訪客がいないようだし。
「……孤独な老人だと思われてたかしら」
「えっ、いえそんな」
「いいの、もうすぐ孫が来てくれるから。こう見えて一人じゃないのよ、わたし」
戸坂さんは黄ばんだ歯を見せるようにして笑う。卑下も自虐も見えない、屈託のない笑顔だった。
駅近くのファストフードには、独特の匂いが漂っていた。パンや肉やポテトの混ざった、生温かく湿った空気。
小麦の死骸、牛の死骸、じゃがいもの死骸。
――死が調理される匂い。
そう思うと、飲食店は途端に気味の悪い場所になる。この空気は苦手だけれど、他に行くあてもなかった。図書館は五時に閉館されるし、カラオケ店は割高、この近くに住んでいる友達もいない。
とりあえずミルクティーを注文して、カウンター席に腰かけた。誰かがポテトかナゲットでも落としたのか、テーブルに妙な光沢がある。台拭きで綺麗に拭った。
昼食にしては遅く、夕食にしては早すぎる中途半端な時間帯のせいか、店内は空いていた。隣の席に置いた鞄からプリントを取り出そうかと身体をひねると、遠くの席に座っていたおじさんと目が合った。おじさんはすぐさま私から目を逸らし、ナゲットを口に放り込む。
――噛み砕かれる命。
高校生らしき男の子たちが、気分の悪くなるような笑い声をあげながら近くにやってくる。トレイの上の、さまざまなセットメニュー。
そのセットのために、どれだけの命が奪われたのだろう。
……食べ物について、何故ここまで深く考えるようになったのか。気づけば考えるようになっていた。そして、食事が苦手になった。
食事という当たり前の行為が、怖くなっていた。
イヤホンをさしてしばらくプリントとにらめっこしていると、スマホが震えた。――先輩からのラインだ。
『お前の部屋、二階だったっけ』
何の質問だろうと思いつつ、『そうですけど』と答える。先輩もすぐに返事を送ってきた。
『二階の、真ん中の部屋?』
――ぞっとした。二階中央といえば二〇二号室、つまりは不審な物音のする隣室だ。
『違いますよ』
『なんだ』
『なんの質問ですか、これ』
『いや』
一瞬、ラインが途切れた。
『夜逃げした工場長が住んでたの、二階の真ん中だってさ』
今度は私が、なんだと思う番だった。
『夜逃げなら怖くないですって。借金って理由がはっきりしてますもん』
『そりゃ、それだけならな』
……なんで不安をあおるような書き方をするかな、この人。
『他にも何か?』
『そのハイツ、母親と子供も失踪したって話したじゃん』
『はい』
『その親子も、真ん中の部屋に住んでたって』
高校生の男子たちがどっと笑い、私は肩を震わせた。
『……でも、離婚というか夫婦の不仲が原因ですよね?』
『それがよく分かんないんだ。古すぎて、友達も詳しく覚えてないって言うし』
『問題のハイツに住んでる私を怖がらせるような真似、やめてくださいよ』
『いやでも、知っといた方がいいかと思って。あとさ』
――そこ、ちょっと変な人いる?
思わず、画面を見たまま三分ほど考え込んだ。
ちょっと変な人。そう言われて真っ先に思い浮かぶのは一〇二号室、あるいは二〇二号室だろう。どちらも一切外出していないし挙動が不審だ。一〇二号室は深夜の一件があるし、二〇二号室は物音が気になる。
けれどもしも、「変な人」が他の住人を指しているのだとしたら?
『……変って、どういう意味ですか』
一〇二とも二〇二とも言えず、探るような返事をした。
『なんつーか、頭やばそーな人。変なクスリきめてそうな』
『うちのハイツ、麻薬の取引現場にでもなってるんですか?』
『それは違うと思うけど。「変な人が住んでるんだけど、近所の人は見て見ぬふりしてる」って噂もあったから。ほんとかなーと思って』
……普通に考えるなら、夜中に騒いでも他の住人から何も言われていない一〇二号室だろう。しかし、クスリをやっているのかどうかは知る由もない。あのパーカーの男が、外出しているかどうかも分からないのに。
『あ、あと』
『まだあるんですか』
『失踪した子供の幽霊が出るって聞いた。三歳くらいの男の子』
夜中に階段に座ってるんだってさ、などとは言わないでほしい。
『前も言いましたけど。私、そういうの見えませんし信じてませんから』
怒ったクマのスタンプを一緒に送りつける。悪い悪い、と字面ではまったく悪びれていないような返信がきた。
『まあ、もっとヤバそうな話があったらまた教えるよ』
『先輩もしつこいですね。――ヤバそうな話って?』
『殺人とか自殺とか、麻薬とか暴力団とか。現実味があって、巻き込まれたら怖い話』
『……先輩から二度とラインがこないよう祈っときます』
あの人は、そのハイツの住人である私をなんだと思っているのか。
悶々としながらも、スマホからプリントへと視線を戻す。
テーブルの油がまだ残っていたのか、プリントには暗い染みがじんわりと広がっていた。
二十三時過ぎになって、私はようやくハイツへと戻ってきた。今日は、しゅうくんの姿は見当たらない。さすがにあの子が幽霊だとは考えにくいが、どこかで安心している自分がいた。
花壇には、マリーゴールドと日々草が新たに植えられていた。向日葵とマリーゴールドの輪郭がはっきりしているせいか、日々草がどことなく儚げに見える。三種類でも充分かわいいけれど、もう一種くらいあってもいいかもしれない。しかし、夏に咲く花と言えばあとは朝顔とハイビスカスくらいしか思いつかなかった。どちらも大きな花なので、ますます日々草の影が薄くなりそうだ。
部屋に戻ろうかと顔をあげた私は、一〇二号室の前に置かれた段ボール箱に気づいた。
――カップ麺だ。
高校時代、スーパーで品出ししていたからすぐに分かった。あの段ボールには確か、カップ麺が二十個入っていたはずだ。それが三箱、積み上げられている。
身体に悪そうだと思っていたら、一〇二号室の扉がゆっくりと開いた。
ぬるりとした動作で出てきたのは、やはりというかパーカーの男だった。グレーの長袖パーカーに、安物らしいロングパンツ。この前と全く同じ服装だった。
男はかがみ、緩慢な動作でカップ麺の段ボール箱に手を伸ばした。目深に被ったフードの端から、髪の毛がだらりとはみ出る。女かロックバンドかと思える程度に長い髪。……うねっているが、パーマをあてた訳ではなさそうだ。その蓬髪のおかげで、遠目からでも清潔でないことがよく分かった。
男は、大して重くない段ボール箱を仰々しく持ち上げ、その拍子に私の姿を確認したようだった。フードと前髪で隠された目が見開かれる。
「……あ」
がすっ、と音を立て、段ボール箱が地面に落ちた。男はそれに目もくれず、フードを力任せにひっぱり自分の顔を隠すと、すさまじい勢いで部屋に戻っていった。
――何かに怯え、逃げるように。