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ラップ現象というものがあるのは知っている。
誰もいない空間から音が鳴るとか、その音の原因は幽霊だとかいう話だ。
しかし、それはこんなにも大きな音を立てるものなのだろうか。
深夜二時。妙な時間に中途覚醒してしまった原因を、私はすぐに突き止めた。というよりも、勝手に知ってしまった。
――ごとん、がつっ。
二〇二号室から聞こえる音のせいだ。壁に物が当たるような、あるいは壁を叩くような音は、いつも以上に荒々しい。
音の大きさはいつもまちまちで、故意に叩いているのではないかと思える日もあれば、力なく壁を引っ掻いているような時もあった。しかし、今日のそれは一段と酷い。もしも隣に住んでいるのが二人以上なら、喧嘩でもしているのではないかと思えるくらいに。
この環境で眠れるほど、私の神経は図太くなかった。
先ほどはラップ音を思い浮かべたけれど、住人がいるという話からして心霊現象ではないのだろう。けれどそれなら、この音はなんなのか。もう一度、時計を確認する。深夜二時五分。暴れるような時間ではないはずだ。
――がこんっ!
「……喧嘩だったら流血ものじゃないの、これ」
悪いとは思いつつ、壁に耳をくっつけてみる。人様の家の音を盗み聞くのはいけないことだと思いつつ、好奇心が勝っていた。それから、若干の不安。DVとか、幼児虐待だったらどうしよう。
私が耳をそばだてているのを察知したかのように、物音はぴたりと止まった。……終わった、のだろうか。
その時、私の耳に変な声が届いた。
「――うぅ、…………ん」
女の人の声だ、とすぐに分かった。呻いているような、泣いているような。
そこで私は現在の時刻を思い出し、ばっと壁から離れた。もしかしたら、聞いてはいけないものを聞いてしまったのではないか。例えば隣室にいるのが男女なら、それってつまり、呻いているのではなく、夜の、…………。
急激な後悔と羞恥心で、頭がおかしくなりそうだった。壁に耳をあてるなんて最低だ。もう二度とやらない。
水でも飲んで、ベッドに戻ろう。そう思い、キッチンへと向かった矢先だった。
「あ、あ、あぁああぁあああああぁあぁああぁぁ!!」
――床から、あるいは外から男性の叫び声が聞こえた。続いて、何かを壊すような物音。
近所……いや、ハイツの一階か? 何かあったのだろうか。まさか火事?
私は慌ててサンダルをつっかけ、外に出た。ほぼ同時に、戸坂さんが出てくる。首元のよれたTシャツは、明らかに寝間着だった。私の姿を認めて、ふるふると首を振る。
「なんでもないと思うわ、安心して」
……なんでもない割に、戸坂さんも外に出てきているではないか。突っ込みたかったけれど、やめた。相変わらず下方から叫び声が聞こえているので、廊下の手すりから下を覗きこむ。ハイツ前の、狭い駐輪場。そこにぼんやりと浮かぶ灰色の人影が見えた。
「あ、ああぁ、あぁああぁあぁああ!」
パーカーのフードを被った男が叫びながら、どこかに向かおうとしている。誰だろう。この季節なのにパーカーは長袖で、下はジャージパンツ。肌の露出がほとんどないその服装でも、男がとんでもなく痩せていることは分かった。
彼の行く手を阻むように、同道さんが立っていた。というか、もみ合っている。一瞬、パーカーの男に襲われているのかと思ったけれど、どうも違うようだ。津賀さんの部屋から旦那さんも出てきて、二人でパーカーの男をおさえ始めた。同道さんがふとこちらを見て、困ったように笑う。そして『大丈夫だから』と顔で訴えてきた。
パーカーの男はしばらく暴れていたが、やがて糸が切れたかのように地面に突っ伏した。動かなくなったその男を、同道さんと津賀さんが引きずるようにして連れていく。扉の開く音、閉まる音。
……一〇二号室だ。いつも、カーテンで閉ざされている部屋。
フードを目深にかぶっていたこともあり、男の表情はうかがえなかった。ただ、尋常ではない叫び声だった。
いつしか私の隣に来ていた戸坂さんが、男とは対照的な静かな声で言う。
「なんでもないわ。気にしないでちょうだいね」
「でも……」
「部屋に戻りましょ。アキラちゃん、明日も学校でしょ?」
戸坂さんは優しい顔でそう言って、二〇一号室へと戻っていった。
一〇二号室の人の事情を、みんなは恐らく知っているのだろう。事情どころか名前も知らないのは、新参者の私くらい。一度、きちんと訊いてみた方がいいかもしれない。
自分の部屋に戻り、水を飲む。
壁の音は、聞こえなくなっていた。
翌朝。一限が休講になったため、のんびりとゴミ出ししている私に声をかけてきたのは同道さんだった。今日は遅出なんだと笑う同道さんの右手にも、ゴミ袋が握られている。ゴミ捨て場は、季節のせいもあり異臭が漂っていた。
「昨夜はごめんね、驚いただろう」
「ああ……。あの、何があったんですか」
ゴミ捨て場と一〇二号室は近いため、声を潜める。にもかかわらず、同道さんはけらけらと笑った。
「それがねえ、ゴキブリが出たっていうんだ」
「え……」
「一〇二号室の彼だけど、大の虫嫌いでね。この季節はよく騒ぐんだ。うるさいと思うけど、辛抱してやってくれないかな。部屋のあちこちにホウ酸団子を置いているから滅多と出ないしさ」
拍子抜けした。けれどその後、疑心を抱いた。
いくらゴキブリが苦手だからって、あんな騒動になるだろうか。
私の顔色に気づいたのか、「実は僕も」と同道さんは声を小さくした。
「あの黒光りする生き物がとてつもなく苦手でね。彼の気持ちはよく分かるんだ。本当、あの生物だけは絶滅すればいいと思うよ。殺虫剤をかけて殺しても、死骸の形はそのままだから直視したくもないし。スプレーを噴射するだけで、ゴキブリの姿かたちが消滅する道具でもあればいいんだけど」
顔をしかめる同道さんに、私は苦笑した。
「そんな魔法の道具、ありますかね」
「現実的に考えるなら、酸で溶かすとかかな」
「それだと、家も大変なことになるんじゃ」
「……ほんとだ。うん、やっぱりゴキブリは絶滅すべきだね。心の底からそう思うよ」
二人で笑いながらも、どこかで違和感を覚えた。
――ゴキブリの話をすることで、一〇二号室から話題を逸らそうとしている?
「あの……」
「あ、ごめん。会社に遅れそうだからそろそろ行くよ」
腕時計を確認した同道さんはそう言ってから、車のキーを取り出しこちらを見た。
「星井さんも気を付けてね。言いたくないけどこのハイツ、結構出るから」
「えっ……」
「ゴキブリ。一室で発見されると他の部屋でも出るんだ」
じゃあね、と同道さんは指先でキーを回しながら月極駐車場の方へと歩いて行った。煙に巻かれた感じだ。しっくりこないというか、納得できないというか。中年男性がゴキブリを見て叫ぶのはおかしくないけれど、あの騒ぎ方は異様だった。長袖と、目深にかぶったフードも。
得体のしれない気持ち悪さを感じながらも踵を返した私は、その場で小さな悲鳴をあげた。しゅうくんが、私の真後ろに立っていたからだ。いつの間にそこにいたのだろう。蹴るかと思ったし、焦点の定まっていないその目が若干恐ろしかった。まさか、寝ぼけているのか?
しゅうくんはぼんやりとした目のまま、口を開いた。
「……よる、『かいじゅう』がでてきた?」
「怪獣? ゴキブリのこと?」
私の質問に、しゅうくんは答えない。虚ろな目のままハイツを見上げた。
「このおうち、かいじゅうがでてきたら、かいじゅうでいっぱいになるの」
ひとつの部屋にゴキブリがいたら、他の部屋でもゴキブリが出るという話だろうか。
――でも、どうしてだろう。何か違う気がする。
「ね、その怪獣ってどんなの?」
私の問いかけに、何故かしゅうくんはおびえたような目をした。ふっくらとした短い人差し指を立て、自分の口元にあてる。
「……ひみつ」
その表情は、感情が読めなかった。
話してはいけないことを途中まで話してしまったという悔恨か、小さな秘密を作り出すことに対する喜びか、話したいけれど誰かに口止めされているための不自由さか。
――助けて、の合図か。
「えーっ、ちょっとだけお姉ちゃんに教えてよ。誰にも言わないから」
わざと軽い口調で言うと、しゅうくんは身体をもぞもぞとさせた。……明らかに話したがっている。あえて、私の前で「怪獣」という単語を使ったくらいなのだから。
この調子なら聞きだせるかもしれないと思っていたら、しゅうくんのオーバーオールから何かが落ちた。赤いビニール人形だ。頭は見つかったのだろうかと拾い上げて、私は絶句した。
頭はおろか、両腕もなくなっていた。
「……腕、なくしたの?」
私の質問に、しゅうくんは首を振った。
「たべちゃった」
「……ママが?」
「ううん」
しゅうくんはあどけない顔で、付け加えた。
「パパとかいじゅう」
かたん、と小さな音がした。私は顔を上げる。この音を立てるのは、六戸のうち二戸。
一〇二号室、あるいは、二〇二号室。
「――しゅうくん! ママの言う事は聞きなさいって言ってるでしょう!? ちょっと目を離すとすぐにいなくなるんだから」
一〇三号室の扉の前で、津賀さんが責めるように叫ぶ。しゅうくんはびくりと肩を震わせ、そのまま口をつぐんでしまった。甘い香りにはふさわしくない荒々しさでやってきた津賀さんが、しゅうくんの手を取る。
「ごめんなさいね星井さん。修人、人見知りなのに懐いたらしつこいの」
「いえ。私は楽しいですし、気にしないでください」
人形のことを言うべきか、怪獣のことを言うべきか。
しゅうくんを見ると、不安気に私を仰ぎながら、空いている手の人差し指を立てていた。そのままそっと、口元にあてる。
――ひみつ。
「……またね」
私がそう言うと、しゅうくんは安心したように手を振った。
――がつっ。
何か言いたげな物音が響く。
その音と共に一〇二号室のカーテンが揺れた気がして、そこに誰かが立っていたような気がして、私は足早にその場を離れた。
階段をのぼりながら、ふと下を見る。
無表情でこちらを見上げている津賀さんと目が合った。
私は笑うことすらできず、声も出せず、逃げるように自分の部屋へと転がり込んだ。




