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隣の部屋から奇妙な物音がするといえば、先輩は大袈裟に反応するに違いない。
私は自室の壁を見た。正確には、壁の向こう側にあるだろう部屋を想像した。
私の部屋、二〇三号室の隣――二〇二号室は少し変わっている。
人は住んでいるはずなのに、住人らしき人物を見たことがない。三か月前、引っ越しの挨拶に伺った時も無人だった。ところが、物音はするのだ。特に、壁に何かが当たる音は頻繁に聞こえる。物音がするのだから、人がいるのも確実だろう。
だというのに二〇二号室は電気すらついたことがない。早朝でも夕方でも夜でも、室内から光が漏れることはない。カーテンを閉め切っているというよりかは、電気そのものをつけていないようだ。
それでも、物音はする。
引っ越しの挨拶も済んでいないしどうしようかと、越してきて三日が経った頃、二〇一号室の戸坂さんに相談した。戸坂さんに訊ねたのは単純に、住んでいる階が同じだったのと、今年七十一歳だという彼女が話しやすくていい人だったからだ。
「二〇二号室ねえ。あんまり外に出ようとしない人なの。ほら、最近そういうのが問題になってるでしょう」
引きこもりか、と私は内心で思った。同時に、このハイツは引きこもり率が高くないか? とも。
全六戸の小さなこのハイツには、『引きこもり』らしき人が二人いる。一人は二〇二号室、もう一人はその下の一〇二号室だ。
一〇二号室の人も、私は会ったことがない。ただ、引っ越しの挨拶の時「よろしく」とだけ言われた。覇気のない声で、扉の向こうから。すなわち、声と性別は分かったけれどそれ以外は謎だ。表札がないため名前も分からない。
後々、一〇一号室の同道さんに「あそこには四十過ぎたおっさんがいるだけだよー」と教えてもらった。一〇二号室とは対照的に、一〇一号室の同道さんは明るくてよく喋る、気さくな男性だ。五十二歳ということなので私の父より年上だけれど、十は若く見える。そう言うと、同道さんは嬉しそうに笑った。
「プラセンタのおかげかな。ちょっと前に流行ってただろう、美容にいいって。今度、君にもあげようか」
ダンディな五十二歳は、私よりも乙女なのだと知った。
――どん。
壁を叩いたような音がして、私はそちらを見る。壁の向こうは二〇二号室の洋室だ。
隣室に、いるのかいないのかも分からない住人がいて、度々物音がする。
先輩が喜びそうな話だけれど、残念ながら心霊現象ではないと思う。というのも今現在、太陽の光がさんさんと降り注ぎ、それと同じくらいの熱量を持ったセミの鳴き声が世界に響いているからだ。
午前十一時。この時刻に物音がしても、それはただの生活音だろう。
――だんっ。
ただ、壁が薄いせいか少しうるさいなあとは思う。子供がいるのかもしれない。しゅうくんのように、物静かな子供の方が珍しいのだろう。あの子は本当に静かだ。あの年齢で、静謐という単語を体現している。先日は「ママがお人形を食べた」などと言っていたが、そこはまあ三歳だし仕方がない。
隣にはどういう人が住んでいるのだろうかと、少し想像する。「外に出ようとしない人なの」という言い方からして、戸坂さんは面識があるらしい。もしや、戸坂さんと同じ年代の人が住んでいるのだろうか。なら、性別はどっちだろう。男? 女?
――がががっ。
壁を引っ掻くような音がした。いや、こすれる音? 何をしているのだろう。
そう思っていたら、私の部屋のインターホンが鳴った。
「暁ちゃん、今日はお仕事お休みよね? お昼ご飯はもう食べたかしら?」
戸坂さんだった。彼女は背が低いうえに腰も曲がっているため、対峙すると白髪しかない頭頂部がよく見える。私は首を振った。
「まだです」
「よかった。ね、これ食べないかしら? 作りすぎちゃって」
戸坂さんは、持っていたタッパーを私に差し出した。半透明で、中身が透けている。
「肉じゃがですか」
「嫌いだったかしら」
「いえ。戸坂さんのお料理はいつもおいしくて本当に助かってます。むしろ、いつも貰ってばかりですみません」
助かっているのは事実だった。食費が浮くというケチな一面もあるが、おいしいからというのが一番の理由だ。戸坂さんは料理が好きらしく、一人暮らしなのに手の込んだものを作る。しかし一人暮らしゆえに食べきれず、住人におすそわけしていることが多かった。最近は、私にくれる頻度が高い。
「だってアキラちゃん、ちゃんと食べてるか不安になるんだもの」
戸坂さんは皺だらけの手で、私の二の腕を掴んだ。その指が乾燥しているのが分かる。
「こんなに細いし。わたしのお肉を分けてあげたいくらいだわ」
戸坂さんは笑いながら、自分のお腹を叩いた。小花柄の服と共に脂肪が揺れる。
確かに、戸坂さんは痩せているとは言えない。医者に行けば「痩せろ」と言われる程度の体型だろう。私は曖昧に笑った。
「昔ね、孫に言われたのよ。『ばあばのお腹溶けてる』。――三段腹がね、溶けたアイスそっくりなんですって。子供って面白いわねえ」
「お孫さん、いらっしゃるんですか」
正直意外だった。戸坂さんの部屋に誰かが来ている様子はない。てっきり、孤独な老人なのかと思っていたのに。
戸坂さんは一瞬、――ほんの一瞬なんとも言えない顔をしてから、そうなのよと笑った。
「わたしにはあまり似てない子なんだけどね。写真見る?」
そう言って、戸坂さんはズボンのポケットから何やら引っ張り出してきた。――黄ばんだ古い写真。ラミネートされているのかと思いきや違っていた。どうも、A4のクリアファイルを写真の大きさに切り取り、セロテープで四辺をとめたらしい。
「似てないでしょ、息子にも似てないのよ」
どことなく深刻な顔で、戸坂さん。私は写真を覗き込む。二、三歳の……女の子だろうか。黄色の服なので、性別が分かりにくい。
似ているか似ていないかと訊かれれば、あまり似ていないかもしれない。けれど、
「優しいお顔ですね。きっと、戸坂さんそっくりの優しい子なんだと思います」
そうねえ、と戸坂さんは頷く。それから唐突に、「何か食べたいものあるかしら」と私に問うた。……もしかしたら私は、戸坂さんの孫がわりになっているのかもしれない。写真の古さと戸坂さんの年齢を考えれば、私とお孫さんが同年代でもおかしくはないだろう。
――夏だし、冷たいものでもいいかもしれないわねえ。カレーもいいし。
戸坂さんは歌うようにそう言って、自分の部屋に戻っていった。
ごん、と壁が鈍く鳴る。戸坂さんに相談しようと思ったまま忘れていたなと、私は溜息をついた。
食事が苦手なうえ少食でもある私は基本、貰った料理は二食に分けて食べている。一食分だけ皿に移し、残りはタッパーごと冷蔵庫に入れた。電子レンジで温めて、じゃがいもを頬張る。
――相変わらずおいしい。私の母とはえらい違いだ。
恐らく、材料からして違うのだろう。戸坂さんは『食べ物は身体にいいものを』と常日頃言っている。野菜は無農薬で、お肉にいたっては高級品だろう。だって、適度に脂がのっていて甘くて柔らかい。安物の肉ばかり食べてきた私は、残念ながら高級な肉の味を知らなかった。ここに来るまでは。
ちなみに戸坂さんは豚肉が好きなようで、どの料理にも大抵豚肉が使われている。以前それについて訊ねると、私の出身地では豚肉料理が多くてね、と笑っていた。出身地がどこなのかは教えてくれなかったけれど。
「……どうも、お金持ちっぽいよなあ」
戸坂さんは、実はものすごいお嬢様だったのではなかろうか。豪邸に住んでいて、毎日おいしいものを食べていたのだと思う。じゃないと、こんな味出せない。貧乏舌では、この料理に使われている調味料すら当てられないだろう。
高価な野菜、お肉、調味料。年金暮らしだと言っていたけれど、本当だろうか。
仮に戸坂さんがお嬢様なら、このハイツのお嬢様率もすごいと思う。六戸中、二戸は引きこもりで、二戸はお嬢様。
だとすると、一〇一号室の同道さんはなんだろう。六戸中の二戸。私とペアになっているのだとすれば、親と不仲とかそこら辺だろうか。あんなにいい人なのになあ。
――がたんっ。
壁が叫ぶ。二〇二号室。知らない人が、鳴らす音。
私はしばらく壁を見ながら、肉じゃがを食べ続けた。