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玄関で小さな物音がして、人の気配が増える。やってきたのは、津賀さん一家だった。ソフトビニール製の人形を持ったしゅうくんもいる。
「すみません、遅れてしまって。修人が嫌がったもので……」
花柄のワンピースに、白のカーディガン。早朝だろうと夜中だろうと、津賀さんは身なりを整えているらしい。旦那さんはと言えば、Tシャツにハーフパンツというラフな格好。しゅうくんにいたってはパジャマだった。
「いやいや、こちらこそ本当にすみません。津賀さんは最初から星井さんのことを忠告してくれていたのに、こんなことになってしまって」
同道さんの言葉に首を振り、津賀さんは私に顔を寄せた。場にそぐわない、甘いフローラルの香りがする。
「修人が酷く懐いていたので、危ないかもしれないとは思っていたんです。子供ってとてもお喋りでしょう? ――ね、星井さん。うちの子、なにか余計なことを話しませんでした?」
しゅうくんを見る。無表情でソフトビニールをいじっているけれど、頬の筋肉が緊張していた。
かいじゅうがいる。――ひみつ。
「しゅうくんか、そこまで気づかなかったなあ。母親、いや、女の勘ってやつですか?」
そうかもしれませんね、と津賀さんは微笑する。穏やかな声と、異常な空気。
「星井さんには、どこまでお話したんですか?」
「ほとんど話しましたよ。ああでも、津賀さんとこのお話はまだ」
「そうですか。じゃあ私から」
津賀さんはそう言って、首を少し傾げた。
「私たちは一年程前にこのハイツに越してきました。当然、ここの事情は知らずに。最初は――私たちの場合は事故みたいな形で知ってしまったんですけど、それはもう驚きましたよ。でもね、人の命が関わるお話って、修人のしつけにはとても効果的だったんです」
しゅうくんが、ぐすりと鼻を鳴らす。
津賀さんは、くすりと笑った。
「家で食べるものって既に加工されているから、どうしても命のありがたみが感じられないんですよね。けれど、この場で『その光景』を見ると、食材への感謝の念が強まります。命の重さもよく分かる。――それに」
ぐずぐずと泣きだすしゅうくんに、津賀さんは目をやった。
「ダメな子がどうなるか、教えることができますし。……ね、修人? ダメな子になっちゃだめよね? この部屋に連れてこられて、おじちゃんに痛い痛いされちゃうもんね?」
しゅうくんの目から溢れた涙が、ぽたぽたと地面に落下する。しゃくりあげながらも、しゅうくんは呟いた。
「……かいじゅう」
「人様に向かってなんてこと言うの? 戸坂のおじちゃんでしょう?」
「ひとをたべちゃう、かいじゅう」
――このおうちに、かいじゅうがいるの。
その言葉の意味をようやく理解する。遅かった、けれど。
津賀さんはしゅうくんの頭を軽く叩き、気を取り直したかのような笑顔をこちらに向けた。
「おかげさまで、一年前とは比べ物にならないくらいに修人は大人しい子になりましたよ。子供のしつけはやっぱり、これくらいやらなくちゃだめなのかしら」
「しゅうくんの年頃なら、少しくらいやんちゃでもいいんじゃない? うちの孫もうるさかったわよー」
「いえ。子供の時からしっかりしつけておかないと」
口を挟んだ戸坂さんは、それもそうかしらねえと笑う。それから、しゅうくんに向かって陽気な声を出した。
「しゅうくん、もうすぐお盆でしょう。お婆ちゃんの孫が『あっちの世界』から遊びに来てくれると思うから、仲良くしてね。しゅうくんの大好きな寒天も用意してあげる」
「……ほんと? いちご?」
「ええ。しゅうくんが大好きないちご味にしましょうね」
会話を聞いていた津賀さんが苦笑した。
「血の色と味を、いまだに『いちご』だと思い込んでるのね。保育園で注意される前に、本当のいちごを覚えさせないと」
――しゅうくんも、しゅうくんにも、人を。
私の視線に気づいた津賀さんが、冷ややかな視線を向けてきた。
「……それで。どうするんですか? コレ」
「できれば殺したくはないんだけどね。彼女の場合、彼氏がこのハイツを疑っているようだから、『失踪』させたら厄介になりそうだ。実家で取れた野菜を送ってくるくらいに仲のいい両親もいるみたいだし、誰にどこまで話したかにもよるかな」
「……この部屋について、気づかれないのが一番よかったんですけどね。だからこそ、『やる』時は星井さんが不在の時間帯を狙っていたのに」
「学生の夏休みのスケジュールは難しいよ。バイトも、遅番で固定されてるわけじゃなかったし」
――だって、おねえちゃんがいるとき、かいじゅうあんまりでてこないもん。
「まあ、殺してしまってもいいんだけどね。若いから肉も柔らかいだろう」
「同道さんは、若い女性がお好きなようで」
「おいおい、含みのある言い方はやめてほしいな。津賀さんだってまだまだ若いしおいしそうだよ。――旦那さんの手前、大きな声では言えないけどね」
何が面白いのか、全員でくすくすと笑う。しゅうくんがおもむろにしゃがみこみ、ビニールの人形をいじり始めた。左手で胴体を、右手で頭を掴み、強く引っ張る。ぽん、と小気味のいい音を立てて、頭がはずれた。
「ただやっぱり、女性の方が脂がのっていていいよ。なにより子宮は美味だ。コリコリしていてね。……星井さんが妊娠していたらパーフェクトなんだけどなあ。胎盤はお肌にいいからね」
「それじゃあいつも通り、私は頭部を頂こうかしら」
「津賀さんは頭が好きだね。食べられる部分が少なくないか?」
「頬肉は削げ落してシチューに入れるとおいしいですし、眼球は食感が面白くて癖になります。耳介は硬くなりやすいので、トロトロに煮込んで。唇は柔らかいですから、半生で頂くのもいいですね。脳だけで一キロは超えているので、三人家族でも充分間に合いますよ」
――かいじゅうがでてきたら、このおうち、かいじゅうでいっぱいになる。
しゅうくんは何も言わない。ただ、人形をバラバラに解体していく。
頭をなくした赤い人形。
――たべちゃった、ママが。
「そんなことしてたら、またこの部屋に頭を忘れちゃうわよ」
津賀さんに注意されても、しゅうくんは人形の分解をやめない。取り外した頭と腕を、床に並べる。
――うでは、パパとかいじゅうが。ひだりあしとおなかのなかみは、どうどうのおじちゃんが。
しゅうくんは、人形の右脚を、齧った。
「……アキラちゃんの返事も聞いた方がいいんじゃないかしら」
同道さんと津賀さんの会話に口を挟んだ戸坂さんは、ふいっとこちらを見た。
「アキラちゃんがわたしたちの『お友達』になってくれるなら、食べる必要はないんじゃない? 津賀さんみたいに理解してくれるかもしれないわ」
「理解してもらえなければ?」
「いつも通り。三日間は水だけで過ごしてもらって、腸の中を綺麗にしましょう。今すぐ始末すると、お肉が臭くなっちゃうわ。せっかくここ数か月、美味しい物を食べさせて健康的にしてきたのに。……いつ『食材』になっても大丈夫なように」
毎日のように持ってきてくれていた料理。痩せているから心配だと言っていた、その意味。
――いつも通り、三日間は。
ここに連れてこられた人達は腸の中を空にするため、数日間ここで過ごしていた。
じゃあ、鳴ったり鳴らなかったりを繰り返していたこの壁は。
あの物音は、
「……ん? ああ、安心してね。オムツは履かせるし、取りかえもするよ。水も飲ませなきゃならないから、それなりに様子は見に来るし」
私の異変に気付いた同道さんが、柔らかい声で言う。
「念のために言っておくけれど、この場を凌いで警察へ行こうなんて考えない方がいいよ。……昔いたんだ。僕を止めようと、警察へ出向いた人がね。その人がどうなったか、知りたいかい?」
同道さんが、私の頬に手を置く。
「警察へ向かう途中、『酷い事故』に巻き込まれてね。顔に傷が残ってしまったんだ。……その事故がよほどショックだったんだろう。ほとんど話さなくなったし、外に出ようともしなくなったよ。というより、僕が外に出さないようにしてるんだけど。――だから星井さんも見たことがないだろう? 『僕の妻』は」
同道さんが肩を揺らして笑う。そうして、「君も罪な人だよね」と続けた。
「以前、僕の部屋に野菜を持ってきてくれた時があったね。あの時、部屋の中で声を出したのは間違いなく妻だった。けれどあれは僕を呼んでいたんじゃない。君を呼んでいたんだ」
バレるかと思ってひやひやしたよ、と同道さんが微笑む。
「あれはね、『助けて』って言ってたんだ。君のようにベッドに縛られた状態で、助けてと叫んでいた」
同道さんが、ふいに壁をノックした。
「この音も聞こえていたよね? 政次くんの『スイッチを入れる』のに必要な物音だけど、この音を出していた張本人は、そんなこと考えていなかったんじゃないかなあ。きっとね、隣の部屋にいる『誰かさん』に向かって音を出していたんだよ」
時間帯など関係なく鳴り続けていた音。時に激しく、時に小さく。
――あの物音は、助けてと叫ぶ声だった。
隣にいるだろう、私に向かって。
「なのに、無視されるどころか鬱陶しがられてね、可哀想に」
同道さんは笑う。しゅうくんが悲しそうに、こちらを見た。
――おばちゃんやおじちゃんみたいに、いなくなっちゃう?
それはてっきり、失踪した母子や工場長のことだと思っていた。けれど違う。そもそもしゅうくんは、そのふたつの事件を知らないはずだ。
おばちゃんやおじちゃん。
ここに連れてこられては目の前で解体される人間たちのように。
「……アキラちゃんなら分かってくれると思うのよ」
私の様子を見ていた戸坂さんが唸るように言った。私も含めた全員が、戸坂さんの方を見る。私以外の全員が、楽しそうな顔で。
「だってアキラちゃん、おいしいって言ってくれてたじゃない」
戸坂さんが言った。唸るように考えるように苦悩するように、けれども、嬉しそうに。
「おいしいって言ってくれてたじゃない。わたしのあげたお料理」
――材料からして違うのだと思っていた。高級品の肉。適度に脂がのっていて甘くて柔らかい、『食べたこともないような豚肉』。
どうやったらこんな味を出せるのだろうかと、いつも不思議だった。使われている調味料すら当てられない、と。
あれが『食べたこともない豚肉』ではなく、『食べたこともない肉』だったなら。
捨ててしまった餃子と生姜焼き。タッパー。口にした肉じゃが。カレー。
埋められたタッパー。
――――肉団子。
「お料理、おいしかったでしょう?」
戸坂さんの乾いた指が、私の腕をなぞった。
「アキラちゃんは『初めて』だから、食べやすい二の腕を選んでいたもの――」
声は出なかった。
手も動かなかった。
失神すらできなかった。
ただ、目を開いたままでも思い出せる光景があった。
「……選んでくれるかな、星井さん」
どうしてそれは、父の顔じゃないんだろう。
母の顔でもない。
先輩の笑顔ですら、なくて。
「このまま僕たちと『仲良く』やるか、これから僕たちの『食材』になるか。……選んでくれるかな」
どうして私は、残飯入れに捨てられた食べ物ばかりを思い出したのだろう。




