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 見覚えのある天井に、『自分の部屋に帰ってきたのだ』と脳が錯覚した。けれど、幸せな夢は長続きしない。自由に動かせない両手足に気づき、混乱のあまり叫ぼうとして、今度は口が開かないことに気づいた。ガムテープか何かで固定されているらしい口は、叫び声をあげることすら叶わない。

 状況を知るためにあたりを見回す。水色のカーテンで閉ざされた部屋は薄暗い。私の部屋と同じつくりの、けれども別の空間。LDKではなく洋室だ。壁にぴったりとつけられたベッドに、私は両腕をあげた妙なポーズで横たわっている。ベッドは医療用のものなのか、頭上と足元に鉄製の柵があり、その柵の両端に手足が固定されていた。

 重く、冷たい手錠で。

 命の危険を察知するのは、こういう状況に置かれた時なのだろう。「死ぬ」ではなく「殺される」と瞬時に思った。ろくに動きもしない手足で必死にもがく。手錠のせいで動きが制限された拳は小さな弧を描き、


 ――どん。


 壁に当たった。背筋が凍る、懐かしい音。

 私は最近までこの音を聞いていた。自分の、部屋で。

 ――……うそ。

 拳を壁につけたまま、出来る範囲で腕を上下に移動させる。手錠が壁に当たり、音が鳴った。


 ――がががっ。


 引っ掻くような音だと確かに思っていた。自分の部屋で聞いた、その時は。


 ――どん、どん。


 ノックするようなリズムで、隣の部屋に合図する。

 分かっている。誰も助けには来てくれない。

 だって今、『隣の部屋』には誰もいないのだから。


「……やっぱりうるさいよねえ」


 私のSOSが届いたかのようなタイミングでやってきた人間は、低く唸った。


「隣の君は、さぞかし迷惑してただろう。部屋の中央にベッドを設置するか、手錠の位置を変えるかしたいよね。まあ、それができるならとっくにやってるんだけど」


 私の顔をちらりと一瞥した同道さんは、あははと笑った。


「口のガムテープを取ってあげようかと思ってたんだけど、叫び出しそうだからやめておこう。――酷い顔してるけど、今は泣かない方がいいよ。鼻水が詰まって窒息死なんて、花の女子大生がそんなの嫌だろう?」


 同道さんはベッド近くの壁にもたれかかり、こちらを見下ろした。人懐こい笑みに、弾むような声。その仕草がいつも通りだからこそ、恐ろしかった。


「少しは状況が分かってきたかな。ここは二〇二号室、――君の部屋の隣だね。本当は、この部屋には誰も住んじゃいない。強いていうなら、君以外の住人『全員』がここの所有者だ。名義は僕の妻。家賃は今のところ、僕と津賀さんで折半している」


 同道さんは、ポケットから取り出した鍵を顔の横で揺らした。


「この通り、合鍵も持ってる。望むのであれば、君にも同じものを渡そう。僕たちの話を君がきちんと理解して、この部屋を正しく使用してくれるのならね。もしも、それができないのなら――」


 同道さんはそこで言葉を切り、手の甲で私の頬を拭った。


「……泣かない方がいいって言ったのに。意外と泣き虫なんだね。怖い話はまだしてないだろ?」


 手の甲についた涙を舐めて、同道さんは笑う。


「涙は最高のスパイスだと思うけれど、こればかりは女性より男性のもののほうがいい。何故か分かるかい?」

「…………」

「女性の涙は化粧品の味がするから。ウォータープルーフでも、溶けるものは溶けるんだよね。自分の使ってるファンデーションやアイライナーを舐めたことはあるかい? 気になるならやってみるといい。おすすめはしないけど」


 話が逸れてしまったね、と同道さんは腕を組んだ。


「このハイツについて、どこまで調べたのかな? まあ、失踪事件についてはすぐに分かっただろう。――花壇を覗き込んでたね。もしかして、人の骨が埋まっているとでも思ったのかな? ……ああごめん、今話せないんだっけ。首を振って答えてくれるかな。骨が埋まってるとでも思った?」


 私は首を縦に振った。同道さんが満足そうに頷く。


「うん、そんなところだろうと思ってたよ。残念ながら、その推理は半分はずれてる。……確かに昔は、あそこに『親子の骨』が埋まっていた。けれど今はもうない。移動させたからね、僕が」


 ――移動させた? 同道さんが?

 でも、母子が失踪した時、同道さんは


「納得いかないって顔だね。うん、僕はその親子と面識ないよ。僕がここにきたのは、この部屋の前の主が『夜逃げ』する直前だったからね」


 同道さんは夜逃げを強調し、私の顔を見つめた。


「――二〇二号室の前の住人がどこにいるのか、予想はしている?」


 反応に困る私に、同道さんは質問を変えた。


「前の住人は、まだ生きていると思うかい?」


 ――私は首を振った。同道さんは嬉しそうに、私の頭を撫でる。


「星井さんは素直でいい子だなあ。……その推理も半分当たっているよ。あの人は確かに死んでしまったけれど、まだ『ここにいる』」


 同道さんは私の頭を撫でるのをやめ、自分の胸に手を当てた。優しい声で、泣いている子供に言い聞かすように。


「僕と、戸坂さんと、『彼』の中にいる」


 ――彼。それはやっぱり、一〇二号室の――。

 がちゃん、と玄関から音がした。同道さんはそれに焦ることもなく、私を見て不敵に微笑んだままだ。その様子を見る限り、助けが来たとは微塵も思えなかった。

 ペタリペタリと、足がフローリングに吸い付いては離れる音がする。ゆったりとしていて、少し重い音。


「……アキラちゃん」


 足音の主――戸坂さんは、寂しそうな顔をしていた。


「泣いてるの? 可哀想に。ねえ同道くん、ガムテープは取ってあげてもいいんじゃないかしら。息が詰まって死んじゃうかも」

「大声を出すかもしれませんし、まだ信用できませんから。……そうだ、星井さん」


 同道さんはベッドの横に転がっていた私の鞄から、スマホを取り出した。


「後で、これのパスを教えてもらえるかな。焼肉屋で一緒にいた彼が心配してたよ? このハイツまでわざわざ来たから。優しい彼だねえ、大丈夫って連絡してあげなくちゃ」

「あら。アキラちゃん、彼氏がいたの?」

「厳密には彼氏じゃないんだっけ? ……向こうは君のことを好いてると思うけどなあ。泣きそうな顔して君の部屋の前にいるもんだからさ、『実家に帰った』って嘘ついちゃったよ。優しいだろ? でも、あんまり長続きしない嘘かな」


 スマホの電源をいれようとした同道さんは、「充電切れだったね」と苦笑した。


「最近は、メールやラインがあるから便利だね。――顔も見えない相手からの文章なのに、『その携帯の持ち主から』だと思いこめるから」


 スマホを鞄に放り込み、同道さんは私の耳元で囁く。


「優しい彼だけど、君からこのハイツについて色々と聞いてるんだろう? これ以上首を突っ込むのなら、消えてもらうしかないね。残念だけど」

「――――っ!」


 首を振り、壁を叩く私を同道さんが抑えつけた。戸坂さんがこちらに近寄ってくる。


「アキラちゃん、長生きしたいならこの部屋であんまり物音をたてないでね。『あの子』が起きちゃうわ」


 ……あの子?

 怪訝な顔をする私を見た戸坂さんが、同道さんへと目をやる。


「言ってないの?」

「僕はまだ何も。うすうす気づいているかと思ったんですがね」

「そう。それなら説明してあげなくちゃ。アキラちゃんなら、話せばきっと分かってくれるわよ。同道くん、手を離してあげて」


 同道さんが音もたてずに私から離れる。かわりに戸坂さんがベッドの端、私の足元に腰をおろした。


「アキラちゃんは、『一〇二号室』についてどこまで知っているのかしら。……その部屋にいた母子が行方不明になっているのは知っている?」


 私は頷く。


「残された父親がまだ、あの部屋に住んでいるのは?」


 私は頷く。


「失踪した母子が既に死んでいるのは?」

「それはさっき僕が教えました。花壇に埋まっていたことも」

「ああそう。それなら、」


 戸坂さんはいつものように目を細めた。



「一〇二号室にいる子が、わたしの息子だってことは?」



 ――……え?


「……知らなかったって顔ね。じゃあ、そこから教えてあげないと。一〇二号室に住んでいる子の名前はね、戸坂政次まさつぐ


 戸坂さんは微笑んだまま、首を傾げた。


「一〇二号室に住んでいたのは、わたしの息子夫婦なの」


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