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「近いうちにいったん、そっち帰ろうと思ってんやけど。うん。……え? お盆違うって、もっと前。――……はあ? なんや、帰ってきてほしくないん?」
実家に電話すると、どうしてこうも喧嘩腰になるのだろう。サウナのように蒸し暑い部屋が、不愉快さを助長しているのかもしれない。私は眉間に皺を寄せたまま、指先でとんとんとテーブルを叩いた。
「実家帰るのになんで理由が要るんよ。ええやろ別に、なんでも。……あと、ちょっと相談したいことあるんやけど。ん? んー……家のこと。え? そっちの家ちゃうよ、こっち。うん。――……え、今?」
私は壁を見た。
「今は言われへん。うん。……オカン、メールしてもすぐめんどい言うやん。返事くるのいつもおっそいし。次会った時にちゃんと話すから。それか、また電話するし。……電話めんどい? 最近めんどいばっかやな、年ちゃう?」
娘は面倒どころではないというのに。いつだって大事な用件がある時しか連絡しないのに、それでも面倒だと言うのだから、本当にうちの親とは仲良くできないと思う。
「そっち帰る前にまた電話するから。うん、じゃあ」
電話を切り、溜息をつく。ハイツを退去して実家に戻ると言えば、大喧嘩になるだろう。大学のこともある。けれど、このハイツに居続けるのも考えにくかった。新しい家を探さないと――。
「アキラちゃーん」
外から名前が呼ばれるのと、チャイムが鳴るのは同時だった。戸坂さんだ、と思うだけで気が滅入る。居留守を使ってやろうかと思ったけれど、さっきゴミ出しの時に出会ったばかりだ。私は深呼吸をして扉を開けた。
「ごめんなさいね、お邪魔だったかしら」
何の邪魔だろう。私は中途半端な笑みを浮かべながら、視線を下にやった。案の定、昨日返したばかりのタッパーを持っている。
「……戸坂さん、あの。私、最近ちょっと体調崩してて、お料理を頂いてもあんまり食べられないんです」
遠回しにでも断ろうかと、あえて力のない声を出す。ところが私の言葉に、戸坂さんは過度に反応した。
「まあ大変! それなら尚更たくさん食べて体力をつけなくちゃだめよ!」
ここぞとばかりにタッパーを押し付けてくる戸坂さん。タッパーの中で暴れる、豚の生姜焼き。体調がすぐれない時にすすめられる食事ほど苦しいものはない。
「生姜焼きって夏バテに良いって言うから。しっかり食べてちょうだいね」
「――……ありがとうございます。でも本当に、私のことは気にしないでください」
この後、タッパーの中身を捨てるのだと考えるだけで疲弊する。そんな私の声を聞いているのかいないのか、戸坂さんは「ふふっ」と笑った。
「もうすぐ、孫がこっちに来るの。アキラちゃんにも会ってほしいわ」
「はあ……」
「でもアキラちゃん、もうすぐ実家に帰っちゃうのかしら?」
戸坂さんの言葉に、今度は私が反応する番だった。
近いうちに実家に帰るだなんて、戸坂さんには一言も言っていない。
――聞かれていたんだ、さっきの電話の内容を。
「孫が帰ってくるときはいつも、ごちそうを沢山用意するのよ。お寿司をとったり、天ぷらを揚げたり。焼肉もしようかと思ってるし。ステーキでもいいわねえ。柔らかいお肉なら、年寄りのわたしでも食べられるから」
「――すみません、そろそろバイトの時間なんで」
「アキラちゃん、お盆はこっちにいるのかしら」
戸坂さんは口角を持ち上げ、目を糸のように細くして笑う。
どん、と隣の壁が鳴った気がした。
「……さあ。まだ分かりません」
「こっちにいればいいわねえ」
私を、焼肉パーティーに呼ぶつもりなのだろうか。戸坂さんは私ではなく、どこか遠い所を見ている。私の背後。いや、横。
――……壁?
「こっちにいればいいわねえ、少しでも長く」
戸坂さんが笑う。壁は鳴らない。
わずかに、錆びた鉄のようなにおいがした。
その日、バイト先に先輩はいなかった。人手不足だと言われ、厨房に回る。食器洗浄機に並ぶ白と、残飯入れに積み重ねる命。
満腹でやむをえず残したのか、口に合わなかったのか、デザートを食べるためか。
回鍋肉の豚肉を捨てた直後、残飯となったチャーシューに出会う。先ほどの回鍋肉に使用されていた豚肉と、このチャーシューは、同じ豚から作られたものだろうか。多分違う。だとすれば、この残 飯入れにいるのは二頭の豚。ふたつの命、ふたつの死体――。
大量に残された命をゴミに捨てる。それを数時間続けて、今日の仕事は終わった。
重い足と長く伸びた影を引きずるようにしてハイツに戻ると、私の部屋の前にしゅうくんがいた。近頃は、しゅうくんが外にいることに慣れてしまっている。それが、今日のような夕方でも、深夜であっても。
「まだ遊んでるの?」
私が声をかけると、しゅうくんは首を振った。
「はんせいしてるの」
「反省?」
「わるいことしたら、おうちのなか入れてくれないの」
耳を疑った。てっきり一人で遊んでいるのだと思っていたけれど、家を追い出されていたらしい。私が遅番の日、日付けが変わりそうな時刻でも外にいたしゅうくんを思い出す。――まさか、夜中も?
「……いつもそうなの?」
「うん。でも、おうちに入れてくれないだけだよ。まだ『ダメなこ』じゃないの」
「駄目な子? 駄目な子になったらどうなるの」
しゅうくんは答えなかった。私から目を逸らし、上を見る。
――二〇二号室。
「おねえちゃんも、いいこにしてなきゃダメだよ」
私の顔を見ず、しゅうくんは言った。
「ママとパパがいってた。おねえちゃんは『ダメなこ』かもしれないって」
「……津賀さんが?」
しゅうくんがこちらを向く。身体をひねった拍子に、赤い人形がぽとりと地面に落ちた。ソフトビニールでできたレンジャーは、頭と腕を取り戻している。
かわりに、左脚を失っていた。
「――たべちゃった。おなかのなかみも」
私の視線に気づいたしゅうくんが言う。私は無意識のうちに、ごくりと喉を鳴らしていた。
「…………誰が」
しゅうくんは、戸坂さんのように笑わなかった。人懐こい声も出さなかった。
無表情で、感情のこもっていない声で、ただ言い切った。
「どうどうのおじちゃん」
しゅうくんが言い終わるのと同時に、ブブブ、と鞄の中で小さな音が鳴った。私はしゅうくんに謝りながら、自分の部屋に入る。スマホを取り出してみれば、先輩からの着信だった。
「もしもし」
『もしもし星井? 無事か』
「……どういうことですか」
先輩はいつもより早口で、明らかに焦っているようだった。
『そのハイツについて色々聞いたんだけど。お前、今日は俺の家こいよ』
「――何かあるんですか、ここ」
しゅうくんに聞かれている可能性を考え、玄関から離れる。緊急事態を察知した脳が指令を下し、機械的な動作で貴重品を集め始めた。鏡台に隠してあった現金をポケットに突っ込む。
どうせいつかお前の耳にも入るだろうから、と先輩は前置きした。
『失踪事件があったって言ったろ。親子と、工場長』
「ええ。……二〇二号室ですよね」
隣に繋がっている壁を見ながら、声を潜める。この話は後で聞くことにして、今はこの場を離れた方がいいかもしれない。虫の知らせだとか勘だとか、普段は当たりもしないものが全力でそう言っていた。
『間違えてたんだ、それ』
「え?」
先輩の発言に、足が止まった。
『厳密に言うなら、「工場長が住んでたのは二階の真ん中」って話はあってた。でも、親子は違う』
「じゃあ、その親子は」
『一階の、中央だ』
一〇二号室。一日中カーテンで閉ざされた部屋。
『十九年前に失踪した親子は、一階の真ん中に住んでた。で、それから変わってないんだ』
「変わってないって、何が」
『住人が』
先輩は興奮と焦燥の混ざった声を出した。スマホを持つ手が震え出し、私は右手首を左手で掴んだ。
変わってない? 一〇二号室の住人が?
「でも、母子はいなくなって」
『当時、そこに住んでたのは両親と子供の三人家族だ。そして、母子「だけ」が失踪した。……残ってんだよ、「父親」が』
痩せぎすで、悲鳴をあげる、パーカー姿の、
『父親はまだ、そのハイツの一階に住んでる……!』
――男。
「…………あ」
『失踪事件の後、その男はたびたび変な行動をおこすようになったらしい。でも、近所の人間は見て見ぬふりしてるって話だ。奥さんと子供がいなくなって、気が触れたんだろうって。あと、関わりたくないって意味もある』
深夜、パーカーの男が叫び出した時、近所の住人は誰一人顔を出さなかった。外に出てきていたのは、ハイツの住人だけだ。
『それに、殺したって噂もある』
「ころっ……」
『その男が、奥さんと子供を殺したって噂。で、死体はうまく隠したんじゃないかって。もともと、仲の悪い夫婦だったらしい。気のきつい奥さんでさ、近くに住んでる姑ともうまくいってなくて、旦那はいつも頭を抱えてたみたいだ』
一〇二号室の不審な行動。それを見守るハイツの住人。
「……他の住人はそれ」
『昔からいる人間なら間違いなく知ってる。あとは分かんねえ』
このハイツに二十年いる戸坂さんなら確実に知っているはずだ。
一〇二号室の男が埋めた、戸坂さんのタッパー。
パーカーの男と、戸坂さんの接点。
先輩は続けた。
『もしかしたら工場長も、夜逃げじゃなくて――』
――おねえちゃんは、ずっとここにいる? おばちゃんやおじちゃんみたいに、いなくなっちゃう?
いつかの、しゅうくんの言葉。
母親や工場長みたいに。
――このおうちに、かいじゅうがいるの。
このハイツに、人殺しが、いる。
『とにかくお前、こっちにこいよ。俺が言うのもなんだけど、さっき話した失踪事件はそんなに問題じゃない。ただ、食いもんのお裾分けとか隣の物音で相当参ってるだろ。見てらんねーよ。今はそこにいない方』
不自然なところで電話が切れた。耳からスマホをはなし、画面を確認する。――電池残量がない。充電器を乱暴に鞄に詰め、私は外に出た。しゅうくんはもう、そこにはいない。
先輩の言う通り、失踪事件で残された父親がこの場にいることは問題ではない。
いなくなった工場長が隣室に住んでいたというのも、問題ではない。
殺人事件も、単なる噂だ。
ただ、このハイツの異様な空気が、怖かった。
転がるように外付け階段を降り、小走りでハイツから出ようとする。そこで、花壇に目が留まった。小さな向日葵と、日々草と、マリーゴールド。戸坂さんが世話をしている花々。『掘り起こされないように』と猫避けの薬品を撒く同道さん。パーカーの男も以前、そこにいた。
――埋めなきゃ埋めなきゃ埋めなきゃ埋めなきゃ。
――死体はうまく隠したんじゃないか。
「……まさか」
こんな小さな花壇に? あり得ない。でも、まさか。
花壇に近づき、しゃがみ込む。元気な花々と、撒いたばかりの薬品。誰かが掘り返したあとはない。
けれどここに「何か」を隠しているからこそ、住人全員で花壇を守ろうとして、
「何を探してるんだい?」
思考を遮る明るい声に振り仰ぐ。
笑みを浮かべた同道さんが、何かを振りおろすのが、見えた。