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「おっ、星井さん。おでかけかい?」


 弾んだ声にぎょっとし、階段を踏み外しそうになった。「大丈夫かい」という言葉に愛想笑いを返す。

 一方の同道さんは、満面の笑みだった。


「浮かない顔してるね。夏バテ?」

「ええ……まあ」

「今年は暑いからねえ。熱中症には気をつけなくちゃ」


 同道さんは私に話しかけながらも、オレンジ色の移植ゴテで花壇の土をいじっている。彼の隣に置かれているボトルを見て、私は首を傾げた。

『猫ちゃんさよなら! これ一本で撃退します!』

 園芸用の猫避けグッズを手にした同道さんは私の視線に気づき、ああこれ? と笑った。


「どうも最近、野良猫がうろついてるみたいでね」

「そうなんですか?」


 このあたりで猫なんて見たことがない。

「せっかく戸坂さんが綺麗にしてくれてる花壇だから、荒らされたら勿体ないだろう」と言いながら、同道さんは猫避け薬品をぱらぱらと花壇にまく。


「人様の花壇を荒らすなんて、失礼なやつだよねえ」


 同道さんが、ふとこちらを見た。不自然に口角を持ち上げ、指をさす。

 オレンジ色のマリーゴールド。


「もしかしたら、ここに、何か埋まってると思って掘り返したのかな……?」


 心臓がどこどこと音を立て、手のひらにびっしょりと汗をかいた。逃げろ、と警告する脳。それを見透かしたように、同道さんは哄笑した。


「なーんてね。猫がそんな宝さがしみたいな真似するわけないよねえ。大方、糞をした後に砂をかけようとしたんだろう。習性とはいえやめてほしいね、まったく」


 再び土いじりを再開する同道さんに、じゃあ行ってきますとだけ声をかける。

 同道さんは人懐こくも、形だけにも見える笑顔を貼りつけたまま左手をあげた。



 約束のファストフードに、先輩は既に到着していた。周囲の人間に気を配りながらも、ハイツのことをすべて話す。一〇二号室の奇妙な住人、二〇二号室に住人たちが行き来していること、住人たちが愛用している白い粉、たびたび料理をくれる二〇一号室の老人――。

 先輩はしばらく無言で話を聞いていたが、やがて気遣わしそうな声を出した。


「正直どれもこれも信憑性がないというか、推測の域を出ないな。クスリについては完全にお前の妄想だし、現状警察に相談できるほどの被害があるわけでもない。あるとしたら物音くらいか。でも隣室の音については、管理会社に相談したんだよな?」

「改善はされてませんけど」

「そのハイツそのものか、少なくとも隣の部屋について、他所に連絡は?」

「不動産屋さんに。けど、なんの進展もありませんでした。プライバシーの関係であまり教えてくれませんし。ただ……」

「ただ?」

「二〇二号室の現住人は、工場長が夜逃げした直後に入ってきた人のままだそうです。あと、私の部屋は長い間、空室だったと」


 先輩は口元に手を当てたまま押し黙る。厨房からピロピロと、ポテトの揚がる合図が聞こえてきた。


「……どう思いますか」

「どう思うって?」

「裏野ハイツについて」


 先輩はそこから更に十秒沈黙してから、私の目を見た。


「楽観的な意見と、最悪のケースを想定した場合。どっちがいい」


 楽観的な意見なら、私も大体想像がつく。つまりはすべてが私の『考えすぎ』で、住人は変わった人が多いけれどいい人達、物語の最後にめでたしめでたしがつくパターンだ。本当にそうなら、どれだけいいだろう。


「最悪なのは?」


 あえてそちらを選ぶと、先輩は真顔で言った。


「昔の失踪事件はふたつとも殺人。住人は事件に何らかの形で関わっていて、それを隠している。結果、団結力を強めようとする料理婆さんだとか、抱えているものの重さに耐えきれずに発狂するパーカー男が現れた。二〇二号室は……物音についてはまだなんとも言えないけど、住人達の会議室のようなものになっていて、お前以外の住人全員が合鍵を持ってる……ってところか」


 大体、私と似たような見解だった。ただ、


「クスリについては?」

「はっきり言って、それはお前の考えすぎなんじゃないかと思ってる。確かに味の麓については気持ちわりーけどさ」


 先輩は結露した紙コップを取り、コーラを一口飲んだ。


「まず、行動が色々と大胆すぎる。お前と焼肉屋に行った時、確かに同じハイツの住人が味の麓を使ってた。すんげーおかしな光景だったから覚えてるよ。でも逆に言うと、そんだけ人目に付きやすい行動なんだよな。クスリやってるにしては堂々としすぎ。何年もやってて感覚が麻痺したら、そういう行動するのかもしんねーけど」

「…………」

「あと、お前にクスリを摂取させようとする理由が分からない。料理婆さんがお裾分けにクスリを入れてんじゃないかってのがお前の意見だけど、たっかいクスリを無償で配布する理由は何だ? 少なくとも三か月は料理おすそわけをもらってたんだろ。料理にクスリが入ってたならいくらかかってるんだって話」

「……たしかに」

「んで、最後に。婆さんからもらった味の麓って未開封だったんだろ?」


 ――そうだった。目を見開く私に、先輩は頷く。


「瓶の中身を入れ替えてんなら、当然開封してるよな。違法な薬物の製造ルートってぜんっぜん知らねーから、もしかしたら未開封に見える状態で売ってるのかもしれないけど。それにしたって、そんな大量にクスリを渡すか? タダで? 金もなさそうな学生に?」

「…………」

「考えにくいと思うんだよな。クスリやってる奴がいるかもって最初に言ったのは俺だけど」


 先輩はそう言い切って、冷めてしまったポテトをつまむ。それから、私の顔を覗き込んだ。


「腑に落ちないって顔だな。そっちの意見は?」

「……大体が先輩と同じで、そのうえで更に最悪なパターンを考えるのであれば」


 私は意を決して発言した。


「殺人犯はまだ、あのハイツに住んでる」


 私の発言に、先輩は眉根を寄せた。


「……工場長みたいなこと言うんだな。間違っても夜逃げすんなよ」

「もしも私がいなくなったら、殺されたと思ってください」

「誰に」

「…………」


 ふたつの事件が起こった時、既にハイツに住んでいた戸坂さん。

 入居歴も分からない、カーテンで遮断された部屋に住むパーカー男。

 怪しいのは、このふたり。

 けれど、二〇二号室から出てきた不審な人物は、同道さんと津賀さんだ。同道さんは工場長の失踪とほぼ同時期に入居した人だし、津賀さんに至っては入居歴一年。そんな人が、十何年も前の犯罪に関与しているだろうか。あるいは、関与しようとするだろうか。――考えにくい。


「……新しい家、探せよ」


 先輩がそう言って、私は首を縦に振った。


「最悪、新しい家が見つかるまで俺んちにいてもいいからさ」

「先輩、実家暮らしですよね? 絶対いやですよ」


 私の返事に先輩は笑う。


「だろうな。あてにできる友達は?」

「……いません」


 平日も休日もバイトを優先させていた自分を、この時ばかりは呪った。「いざとなったら実家に帰れ」と繰り返しながら、先輩は誠実な顔で言う。


「とにかく、お前は引っ越す方向で動けよ。俺もできるだけ協力するから」


 たとえそれが口先だけであったとしても、素直に嬉しかった。

 そろそろ出るか、と先輩は時計を確認して言った。彼の前にはしなびたポテトが何本か残っている。そのジャガイモはこの前まで生きていたのだろうなと思うと、ポテトの一本一本が人の死体のように見えた。横たわる死体。

 殺された命をできる限り捨てたくはなくて、私は吐き気をこらえて冷めた死体を頬張った。


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