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「お前、その家おかしくね?」


 バイトの休憩中、ふたつ年上の先輩が深刻な表情でそう言った。


「そうですか?」

「そうだよ。最寄り駅まで徒歩どのくらいだって?」

「十分もかかりませんけど」

「それで間取りが?」

「1LDK。ベランダ、風呂、トイレあり。二階建てで、私は上の階に住んでるんですけど」

「で、家賃が五万切ってるだって? おかしいに決まってるだろ」


 先輩が呆れたような嘆くような声を出す。そんなにおかしいだろうか。


「でも、築三十年で結構ボロくて、六戸しかないから見た目もしょぼいうえ、駐車場もないですし……」

「お前、ここら辺の家賃の相場知らないんだろ。1LDKで駅から徒歩圏内、それで五万切ってるとか絶対ありえないからな」


 田舎から出てきた私からすれば、そこまでおかしな家賃だとは思えない。五万円を切っているところなんていくらでもあった。日当たりが悪いとか、車がないと不便だとか、様々な理由で。

 先輩は自分で作ったチャーハンを咀嚼しながら、レンゲで私を指さした。


「つーか、夜中までバイトしてんのに飯食わないお前もおかしいけどな。腹減らねえの?」

「仕事の前に食べてきてるんで」


 嘘だった。本当は食事そのものが苦手で、普段からあまり食べない。それなのに中華料理屋で働いているのは、学生でも働きやすくて採用されやすくて、時間の融通も効くからだ。それと、この店は大学から近い。

「十九歳だろ、女でも食べ盛りじゃねえのかよ」などと言いながら、先輩は担々麺をすする。食べ終わったチャーハンの皿、その横で待機している餃子と唐揚げ、春雨サラダ。――知ってはいたが大食いだ。四月に知り合ってから三か月、先輩のまかないがこれより少ないのを見たことがない。そのくせ痩せているのはスポーツが趣味だからなのか、毎日のように大きなフライパンを振っているせいなのか。


「お前の家に話戻すけど」


 唐揚げに割り箸を突き刺しながら、先輩は言った。


「それ絶対なんかあるって」

「なんか、というと?」

「自殺したやつがいるとか、殺人事件があったとか」


 そういえば先輩はそういった――オカルト要素のある話が好きだ。都市伝説に詳しいし、映画にうつっている白い影だの、誰かのCDに吹き込まれている謎の音声だのとよく言っている。

 しかし、後輩の住むハイツを幽霊屋敷にしなくてもいいではないか。


「何もないですよ。不動産屋からは聞かされてないですし」

「告知の義務がないとか、隠してるとかかもしれないぞ」

「仮にそうだとしても、気にしませんから私」


 私の返答に、先輩は目を丸くした。


「なんだお前、幽霊信じてないの?」

「信じてないですし、いたとしても私には見えないので実害がありませんし。そんな理由で家賃が安くなるのなら、私としては嬉しい限りです」


 先輩はしばらく呆けていたが、やがて思い出したかのように餃子を口に放り込んだ。


「お前、本当に男前だな。性別違ってたら俺と同じくらいモテてたと思うぞ」

「それってつまりモテないってことですよね」

「うっわ、すげー失礼な後輩!」


 食べ終わった先輩が席を立つ。休憩も終わりだ。

 ホールに戻ると、店長に「厨房に回って皿を洗ってきてくれ」と頼まれた。油でギトギトになった皿やスープの残ったどんぶりが、文字通り山になっている。軽く汚れを落としてから洗浄機に突っ込んだ。

 ――半玉分の麺がスープに沈んだラーメン。数口分だけ茶碗にこびりついている白ごはん。まだ食べられそうなのに、丸めた紙ナプキンをのせられたエビチリ。鶏肉ばかりが残されたバンバンジー。

 食べ残された料理たちを、残飯入れに放り込む。そうこうしている間に、新しい食器が運ばれてくる。次から次へと、残飯をのせて。

 ホールでの接客より、食器洗いの方が私は苦手だ。厳密に言うなら、残飯を捨てる作業が苦痛だ。毎日まいにち残飯入れから溢れるそれは、人間の自己中心的な部分をよく表しているように思う。残飯が一切出ない日があればいいのに、現実はそんなに素敵じゃない。どれだけ暇な日でも、何故だか絶対に『それ』はある。

 意識して残されたチャーシュー、ピーマン、にんじん、鶏肉、穀物。


 残飯入れの中に、どれだけの命が捨てられているのだろう。



 遅番の日は、日付けが変わりそうな時刻に帰宅する。女性が一人で夜道を歩くのは危険だとか、女性の一人暮らしは危ないとか色々と言われたけれど、今のところそのような事態に遭遇したためしはない。

 大通りから逸れ、暗い細道をしばらく進むと家に着く。先輩からすれば事故物件らしい我が家を、下から見上げた。

 裏野ハイツ。

 両親と折り合いが悪く、大学生になったら一人暮らしをするのだと決めていた私が選んだ城である。古くて小さな建物は、夜中に見れば確かに不気味だ。けれど、暗闇で見るものはなんでも不気味に映るだろう。怖がるだけ無駄だ。

 さっさとシャワーを浴びて寝ようと考えながら歩いていた私は、外付け階段の前で悲鳴を上げかけた。腐り落ちるのではないかと不安になる錆びついた階段に、男の子が座っていたからだ。男の子が座っていたことよりも、座っている時間の方が恐ろしかった。今、何時だと思っているのだろう。

 三歳くらいの男の子は、一〇三号室の子だとすぐに分かった。年の割に大人しい子で、いつだって高級な服を着ている。今着ているTシャツも厚めの生地で、少なくとも私愛用のじまむらでは売られていない。靴も有名なスポーツブランドのもので、一万円はする。このハイツではすさまじく浮いている服装だ。


「しゅうくん?」


 私の呼びかけに、しゅうくんが顔をあげる。子供特有の柔らかな髪が、七月の湿気た風になびいた。


「何してるの」


 私の質問に、今度は顔を伏せる。水分の多そうな彼の手に、ソフトビニールの人形が握られていた。確か、今やっている特撮ヒーローだ。赤色なので、主人公だろう。


「その人形がどうか、し……」


 言いかけて、気づく。


 ――首がない。


 ビニールの人形は首から上をなくし、その中身をぽっかりと披露していた。綿すら入っていない、がらんどうの胴体。私は思わず、自分の足をあげて地面を確認した。頭を踏んづけてしまったかもしれないと思ったのだが、それらしきものはなかった。


「頭、どうしたの? なくしちゃったの?」


 だから探しているのだろうか、こんな時間に。そう思っていたら、しゅうくんが緩く首を振った。そして、言った。


「たべちゃった」

「食べた!?」


 深夜にも関わらず大きな声を出してしまい、手で口をふさぐ。けれど、本当なら一大事だ。親御さんに言わなくちゃ。いや、それよりも救急車が先なのだろうか。

「気持ち悪くない? お腹痛くない?」と慌てふためく私に、しゅうくんはぽつりと付け足した。


「たべちゃった、ママが」

「……ママが?」


 ビニール製のおもちゃを、三十歳のママが誤飲するだろうか。――少し、考えにくい。

 怪訝な顔をする私の背後で、透き通るような声がした。


「しゅうくん、そろそろお部屋に戻りなさい」


 振り返る私に、津賀つがさんが軽く会釈してくれる。――パジャマ姿ですら優雅に見える女性だ。ゆるいパーマのかかった髪も、整った顔も、甘くて清涼感のある香りも、やっぱりこのハイツにふさわしくない。そして、どう考えてもビニールの人形を食べるとは思えない。妖怪じゃあるまいし。

 津賀さんは、ふわりとした笑顔をこちらに向けた。


「星井さん、お帰りなさい。ごめんなさいね、うちの修人しゅうとが」

「え? いえ」


 何に謝られたのかはよく分からなかったけれど、とりあえず愛想笑いを返した。この奥さんは礼儀正しく、子供のちょっとしたイタズラでもすぐにたしなめるし周囲に詫びるのだ。


「しゅうくん、ほら、ママが呼んでるよ」


 私が言うと、しゅうくんはようやく立ち上がった。ぴょこん、と大袈裟に一段ジャンプする。転ばないかと心配しながら、私は思い出して津賀さんの方を見た。


「お人形の頭を」


 津賀さんが食べたんですか? とはさすがに言えない。


「しゅうくんが探してるようなんですけど」

「ああ、それならきっと家の中にあるわ。この子、すぐにおもちゃを壊すから」


 食い気味に奥さんが返事をした。そうですか、と私は返す。

 ――じゃあどうしてしゅうくんは、こんな時間にこんな場所にいたんですか? とは何故だか聞けなかった。

 ほら、お姉ちゃんにおやすみなさいは? という津賀さんの声がして、しゅうくんがこちらを向いた。首のない人形を持った手を、私に振る。どこか縋るような顔だった。


「おやすみ、なさい、おねえちゃん」

「……おやすみ」


 私も手を振る。

 彼の顔が真っ黒に塗りつぶされ、穴が開いているように見えたのは、夜のせいだと思うことにして。


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