結
遊斗に言われたとおり、朱李は学校が終わってすぐに駅前の公園へ向かった。
そこはブランコと滑り台があるだけの簡素な公園で、あまり人の出入りはない。電車が見えるという事で、時々小さな子供をつれた大人が散歩ついでに立ち寄るだけだ。
そんな公園のベンチに、彼女は座っていた。
砂ほど細かくはないが、砂利ほど大きくもない鉱物の撒かれた広場を横切って近づくと、彼女――野本しずりは顔を上げた。
しかしすぐに顔を下げたのは、目の前の人物が目的の相手ではなかったからだろう。それでも朱李がいつまでたっても自分の前から動かないとなると、さすがに怪訝そうに再び顔を上げる。
「何?」
「あたしのこと、覚えてないんですか?」
「は? 誰?」
「昨日 橘先輩のところで会った、玖瀬です」
まじまじと見つめられて、朱李もようやくしずりの顔をしっかり見る事ができた。印象はプリクラとまるで変わらないが、雰囲気は思いのほかきつそうだ。実物は右目の下に泣きぼくろがある。
「ああ、入鹿のモデルちゃん。なーに? あたし人と約束してるんだけど」
「ゆーとなら来ませんよ」
朱李の口から遊斗の名前が出た事に、しずりは目を丸くしていた。段々話が読めたとでもいうように、元の厭味な目つきに戻る。
「なんなのあんた。入鹿の後輩じゃなかったわけ? なんで遊斗の名前知ってんのよ」
「あたしだって出来るなら、どちらかとは面識もない他人でいたかったですよ。でも関わっちゃったんだからしょうがないじゃん。――あたしはゆーとの同居人です。あなたと住むはずだったマンションの」
しずりは頷くと、面倒くさそうに立ち上がった。お手上げと言ったように両手を上げる。
「あっそ。それで遊斗に惚れちゃったとか、そういう類? で、二股かけてるあたしには別れてとか言うんでしょ? でも残念ね、遊斗そういうの一番嫌いよ?」
それは間違っていない言葉だ。もしこれが遊斗の言葉でなく朱李の勝手な行動なら、彼は間違いなく嫌がるだろう。
だけど、そこまで遊斗の性格を把握していてなおも浮気を繰り返しているのだと思うと、朱李はなおさら腹が立った。
遊斗のお願いは、自分が来るまで彼女を引き止めておいてほしいということ。そして――、
――朱李がしずりに言ってやりたい事、全部言ってやって。
「あんた……最低……」
「は?」
「ゆーとの性格知ってて、橘先輩の優しいところ知ってて、二人と付き合うなんて最低! ゆーとは本当にあなたのこと好きだったのに、振られても諦められないくらい好きだったのに!」
こんなに人に怒りを露にするのは、実に何年ぶりだろう。でもどうしたって、この怒りは収まってくれなかった。
「あなたとやり直せるってなって初めてのデートの時、ゆーとがどれだけ喜んでたか知ってるの? あなたに振られてあたしと同居する事になったとき、ゆーとがどれだけ寂しかったか分かる!? 」
しずりは眉を寄せた。面倒くさいと瞳が語っている。
「ゆーとを、橘先輩を傷つけるようなことしないでよ……! あたしの大好きな人たちに酷い事しないでよ!」
「あのさあ、なんなのあんた? どこの悲劇のヒロイン気取り? そういうのさあ、おもしろくないわよ。……分かったわよ。どっちが好きなの? 一人譲ってあげるから」
その言葉に、朱李はただ目を瞠った。
何にも分かってない。この人は、何にも分かってない!
「二人ともと別れてください」
「はあ? 何あんた。マジで何様? 意味わかんないし、もう。勝手に言ってれば」
朱李に付き合うのに飽き飽きすれば、しずりはその場を去ろうと背を向けた。
自分の言葉じゃどうにもならない状況が悔しくて、朱李の目から涙が溢れる。
「待って、待ってよ! あんたこそ何様なの! もうやめてよ! ゆーとも、橘先輩も……」
傷つけないでほしかった。しずりを紹介してくれた時の遊斗や、悪い子じゃないと言った時の入鹿の顔を思い出せば、どうかあの二人だけは、傷つけないで欲しかった。
そんな言葉を吐きつける前に、涙を拭うように大きな手が朱李の顔を覆う。
「しずり!」
その手の主は、大きな声でしずりを呼んだ。その声に、朱李自身も手の主が誰かを悟る。
「遊斗……」
そしてその名は心で思うよりも早く、しずりの口から呟かれた。
まるで朱李を守るように立った遊斗が、しずりには気に入らない。
「何よ。もしかしてその子のこと好きなの?」
「……うん。あんたよりは」
きっぱりと遊斗は言う。予想外の展開に、朱李は言葉を失った。
「いまの二人の会話、一部始終聞かしてもらったから。思ってたより性格悪かったんだな、しずりって」
「!」
「ついでに、こいつ泣かさないでよ。ここまでキレてんのも初めて見たけど、こんなバカ正直でいい奴めったにいないんだからさ」
遊斗の手で視界が隠れているから、朱李にはしずりが今どんな顔をしているのか分からなかった。
だけど声だけで考えれば、ここまで優位にたって話している遊斗に、相当怒っているのだろう。
「なんなのよ! マジ意味不明! あんた達がラブラブしたいだけじゃない! もういい、勝手にしなさいよ!」
「しずり」
再び踵を返そうとしたしずりを、遊斗はマイペースに呼び止めた。
「何よ!? 」
「もうあんたいらないから。俺と別れて」
その言葉にしずりは息をのんだ。きっと、こんな言葉をかけられたのは、今回が初めてなのだろう。なにも返す言葉が見つからないのか、逃げるようにそこから去っていった。
「よくがんばったな」
目を塞いでいた遊斗の手が、今は朱李の頭を撫でていた。優しい手にほっとすれば、人肌が恋しくなる。
そんな気持ちを察してくれたのかは分からないが、気付けば朱李の体はすっぽりと遊斗の腕に抱えられていた。
「ゆーと……ずっといたの?」
「大体な。最初朱李の学校行ってたから、時間ピッタリではなかったけど」
「学校?」
なぜ遊斗が朱李の学校に行くのだ。と、誰でも持つ疑問をもちろん朱李も持った。話が突拍子すぎる。
「話しに行ってたんだよ。例のしずりの彼氏と」
「はあ!? 」
「そしたら向こうはそんなにしずりに執着なかったみたいで。あっちも多分別れる事になるんじゃねえの?」
あんぐりと口をあけたまま、朱李は瞬きも忘れて体を固めた。遊斗って人は……。
「ど、どこまで、自己中なの? 普通行かないでしょ? だってライバルなんだよ。遊斗が言ったって単なる告げ口じゃん」
「まあ……いいんじゃん? 丸く収まったんだし。これで全てが問題なし♪」
何が問題なしだ。相手が入鹿じゃなかったら、泥沼になっていたかもしれないというのに。
だけど遊斗のかわいい笑顔を見ていたら、なんだか朱李も、まあいいかと思えるのだから不思議だ。
「しかし、ありがとな朱李。俺のために怒鳴ってくれんの、カッコよかったぜ。やっぱ朱李大好きだ」
そう言ってぎゅっと抱きしめてくれる遊斗につられて笑みを零せば、朱李もその背に腕を回して抱きついた。
「あたしも大好きだよ、ゆーと!」
***
結架が合宿から帰ってきたのを機会に、朱李と遊斗は智久を含めた四人で遊びに行く事にした。まずは朱李たちの家に集まって、お昼ご飯を食べる。
「へえ。そんなことがあったんだ」
朱李はリビングで、結架にしずりと遊斗の話をしていた。遊斗が笑い話で話し始めた割には、昼食を作るとキッチンへ行ってしまったので、朱李が後を引き継ぐ事になったのだ。
「で、結局その先輩とも別れちゃったの?」
「そうみたい」
数日前に再び入鹿のモデルをしたときに、彼が苦笑混じりに話してくれた。もちろん入鹿は、朱李と遊斗が知り合いだということは知らない。
「ふーん。最低女ってやっぱりいるんだね。でもさ」
ぐいっと結架が朱李の腕を引く。小声で話し始めた結架に、手前でテレビを見ていた智久は怪訝そうな顔をしていた。
そんなことにはお構いなしで、結架は興奮したようにそっと耳打ちしてくる。
「遊斗くんて一途なんだね。それに優しい。言ってなかったけど、前に二人で買物行った時もさ、朱李のこと傷つけないって約束してくれたんだよ」
「え」
朱李は感嘆の声を上げた。しかしよくよく考えれば、その約束は前回の停電の際に、既に破られたのではないだろうか。
「う〜ん……でも、基本ゆーとは自己中だからね?」
それを差し置いても、結架に話したしずりを振った際の経緯は、実際よりも断然易しいものだ。朱李ならあんな遊斗を、いいかも、なんて絶対思わない。
「えー? でもさ、本当に自己中な人は一途なんかじゃないよ。あたし、実はあの時から遊斗くん狙っちゃおうかなと思ってたんだよね……」
最後の方は独り言とも取れたので、朱李はあえて答えなかった。正直遊斗はオススメできる相手ではないが、両思いになったなら、全霊で愛してくれないこともないだろう。
自分の彼女が寂しいときも、きっとバイトを優先するような奴なのだろうが。
遊斗が一途なのは気持ちだけで、行動に表れることはおそらくないのだ。
キッチンから、暖かいご飯の匂いが漏れてきた。それにつられて振り返ると、遊斗が炒飯を持って後ろに立っている。
「出来たよ」
そう言って机に置かれた炒飯は湯気を立ててとてもおいしそうだった。遊斗の炒飯は絶品だ。もちろん、鮭入り。
「わーい! いっただっきまーす」
自分の前に置かれた皿に、さっそく朱李は箸をつけた。出来立ての熱さも気にならないくらい、やっぱり絶品。
「おいしい!」
先に感想を述べた結架に、朱李も賛同するようにコクコクと頷いた。智久は食べなれているのか、こんなもんと言った顔だ。
「だろ? 俺は炒飯で店が開ける腕前だからな」
「遊斗くんて器用なんだね。いい旦那さんになりそう」
結架ちゃんったら。初対面のゆーとへの態度を忘れたんじゃないの? そう思うくらい、結架は遊斗を絶賛していた。すでにアタックを開始しているようだ。
「その前に彼女募集中だけどね。そういえば朱李、例の先輩しずりと別れてよかったな」
「そうだね。あんまり落ち込んでる様子もないし、よかったよ」
「じゃなくて! お前が」
きょとんと朱李は首を傾げた。遊斗が何のことを言っているのか、全く理解出来ない。そんな朱李の内心を悟れば、溜息をついて遊斗は再び口を開く。
「好きなんだろ。そいつのこと。これで気兼ねなくアプローチできるじゃん」
「え!? 朱李ってその先輩のこと好きだったの?」
ふっと、智久は顔をしかめた。朱李が好きなのは何だかんだで遊斗だと思っていた彼にとっては、そんな事実はおもしろくない。
いや、ここで遊斗が好きだと言われても、おもしろくにないような気もするが……。
「ちょ、ちょっと待って。……なんであたしが先輩を好きな事になってんの?」
遊斗の言う“好き”の意味を理解すると、瞬きを繰り返しながら朱李は訊ねた。三人とも不思議そうに彼女を見ている。
「だって朱李、だからしずりの二股許せなかったんだろ」
「そりゃ、先輩のことも嫌だったけど。でもあたしは先輩が好きだからそうしたわけじゃなくて、っていや、好きだけど。それは先輩としてっていうか……とにかく!」
朱李の中で、“好き”は多種類あった。人には理解してもらいづらい感情ももちろんある。例えば、遊斗への“好き”だって聞く人が聞けばそれは恋愛だというだろうし、またある人が聞けば親友愛だというだろう。
しかし朱李の中で、遊斗はそのどちらにも当てはまる事はない。それでも、朱李が遊斗に抱く“好き”は、決して曖昧なものではないのだ。
入鹿に対しても同じだった。彼への“好き”は恋愛ではなくそれに一番近い憧れだ。だって確かに、朱李は彼を恋人にしたいと思った時期があった。だけど今は、それよりも強い“好き”を抱く相手がいる。
「あたしが一番好きなのは、智くんだもん。だから先輩のことはそういうんじゃないよ」
「ぶっ!? 」
必死に言う朱李の言葉を受け取れば、智久は口に含んでいた炒飯を無理に飲み込んだようでむせていた。いろんな意味で、顔が紅潮している。
「朱李……、お前智みたいのがタイプだったの?」
朱李と智久を順に見回しながら、遊斗が驚いたように聞いてきた。結架は心なしか楽しそうだ。
「タイプなんて知らないよ。でも、あたしは智くんが大好きなの! だって優しいし、まじめだし。前に停電した時だってさ……」
「もういい、言うな!」
叫んだ智久は、勘弁してくれといいたげだった。きっとこういう事態にはなれていないのだ。
朱李だって、こんなことを口走ったのは初めてだ。それどころか、ここまで好きになった相手すら、智久以外にいなかった。
「じゃあさ、今日はダブルデートみたいのでいいんじゃない? ねえ遊斗くん。朱李と壱原さん二人きりにしてあげようよ」
「そうだな」
本当は結架が遊斗と二人きりになりたいからの提案だろうが、別に不自由もないなと思えば、朱李も「賛成ー!」と手を挙げた。
「おいっ!」
智久の制止は誰にも受け入れられず、朱李は食べた皿を片付け始める。結架は手伝うとキッチンへ同行し、遊斗は赤面の智久を楽しそうにからかっていた。
幸先不安だった上京生活は、今は希望に満ち溢れている。
きっかけは、何てことない掲示板の書き込み。それが朱李の、かけがいのない人たちとの出会いへと繋がった。
大好きな人たちと、夢と希望に囲まれて。
彼女達の青春は、まだ始まったばかり。