承
遊斗との同居生活が始まってからいろいろな行事が重なって、結架に詳しい報告ができたのは、二週間も経ってからだった。
今日は結架の学校の授業開始が午後だということで、買物ついでに朱李の学校の近くまで来た彼女と、カフェで昼食をとっている。
「……」
「だから、ね。報告は遅れちゃったけど、あたし麻木遊斗って人と同居することになったから……」
「それをあたしが、そうなんだ。よかったね、って、笑顔で喜ぶとでも思ってんの?」
「思ってない、です」
朱李は手をもじもじとこすり合わせた。でも遊斗との間に、結架が心配するようなことは何一つない。
「でも、ゆーとは本当にいい人だよ。結架ちゃんが心配する事はないって」
「そーいうこと言ってんじゃないの! 例えばその麻木遊斗? がいい人だとするわ。それも文句のつけようがないくらいね。でも、そいつ彼女と暮らすつもりで部屋借りてたんでしょ? もしその彼女が戻って来たらどうすんのよ、朱李?」
「……どうも、しないけど」
「だーから! 彼女がそこで暮らすって話になるでしょうが!」
核心的な結架の言葉に、朱李は飲んでいたミルクを噴出しそうになった。
彼女があの家で暮らす事に? そしたら必然的にオジャマムシな朱李は家を出る事になる。そうなったらまた、元の状態に逆戻りだ。
黙りこんだ朱李に、結架はほれ見たことかと腕を組んで鼻を鳴らした。
「分かった? 男なんてそんなもんなのよ。彼氏じゃないんだから、きっとすぐ切り捨てられるわよ? 男と女の価値観は全然違うの。男女の友情なんて、これほど当てにならないものはないわ」
朱李は口を尖らせた。遊斗のこと何も知らないのに、ここまで言われたらそろそろ彼がかわいそうだ。
確かに男と女の価値観は違う。朱李の過去の恋愛は、正しく価値観の違いによる自然消滅だった。会わない=別れた。女はそんなつもり全くないのに、男はそう思いがちらしいのだ。でも。
「ゆーとは、そんな人じゃないと思う」
「わっかんないでしょ。あんまり期待とかしないほうがいいと思うけど」
期待とか、そんなものじゃないのだ。もう。
「ゆーとはそんな人じゃないよ」
顔を上げた結架は不服そうだった。正直、朱李に言い切られると結架は逆らえない。
「ゆーとはさ、多分あたしに似てるんだよ。だから分かるんだ。いい人で、あたしが気兼ねなく接する事ができる、貴重な存在。ゆーとはいい人だよ。結架ちゃんも会ってみれば分かるよ」
「……だから、同居なんて嫌だったのよ。あたしは……」
「え?」
脹れっ面で結架は紅茶を飲んだ。今までは、あたしが朱李の一番だったのに。そんなことが思えて仕方ない。
朱李は結架の憧れだった。だから一緒に上京できるのは嬉しかったし、一生の友達でいられるのも嬉しかった。そんな朱李が同居すると言い出したときから、結架はそんな気がしていたのだ。
朱李が自分から離れていく――……。
「そうやって、遊斗くんとばかり仲良くなっていくんでしょ」
「結架ちゃん? ゆーととばっかりって……あたしが一番仲いいのは結架ちゃんじゃん」
そんな風に言われれば、結架は目を見開いた。この子はなんで……。
「朱李はさあ、ずるいよね」
「へっ?」
無意識に、一番欲しい言葉をくれる。高校時代から、朱李を嫌う人間はいなかった。ひねくれ者が羨望心から嫌いだということはあったが、基本的に誰も朱李を嫌いにはなれないのだ。
顔がかわいくないと、朱李はコンプレックスを感じているようだが、そんなものがなくても、彼女は十分もてていた。
それでも朱李に彼氏と言う彼氏がいなかったのは、彼女が本気で恋人を作る気がなかったからだ。
と、朱李が突然声を上げる。
「あ、ごめん。あたし先輩に呼ばれてるんだ!」
「は? もう先輩と仲良くなったの」
「うん」
「いいなあ、あたしなんか友達もいないのに、五月入ったらすぐ合宿だよ……」
溜息をつく結架に苦笑しながらも、携帯電話の示す時刻に慌てて席を立った。
「あたしでいいならいつでも愚痴聞くからさ。またね、結架ちゃん」
千円札を机に、朱李はそそくさと店を後にした。
***
「橘先輩!」
理容美容専門学校。朱李がここに入学して、今日で丁度十日だ。まだ右も左も分からないヒヨッコだが、目の前の橘入鹿先輩が、今の朱李の親鳥代わりである。
初めてその名を聞いた時は、さすがに朱李も聞き違いかと思ったが、母親のイルカ好きと、父親の歴史好きの賜物なのだと、彼は苦笑しながら教えてくれた。
しかし今は名前なんて気にならないくらい、彼は朱李の憧れの存在だ。そんな入鹿が、毎年二年生が一年生からモデルを選び、その子の恰好からメイクまでを行い披露するファッションショー、そのモデルを、朱李に依頼してきたのだ。
学校の食堂でアイスクリームを頬張りながら、朱李は疑問を投げつけていった。
「でも、モデルの決定って五月の終わりから六月じゃないんですか? こんなに早くにあたしに決めちゃって、もっとかわいい子はたくさんいるのに」
「うん。でも俺にはもう大体のイメージがあるんだよね。玖瀬さん、それにピッタリなんだ」
「イメージって?」
「子供から大人になる瞬間の、微妙な女心。思春期って言うのかな? そういう女の子が着る服とメイク。あと髪も」
「あたし、もうすぐ十九ですよ?」
「うんでも、玖瀬さん小さいし、細いし」
確かに、見る人が見れば朱李はまだ中学生に見えるだろう。身長は百五十三センチしかなく、体重にいたってはその四分の一ほどしかない。
朱李には一応、それがコンプレックスの一つだった。
「ああでも、そんな言われ方は嫌かな。玖瀬さんには」
「え? いいえ。あたし、先輩の言葉は別に腹立たないですから」
「……そうなんだ」
しばしきょとんとしてから、入鹿は笑った。それが何故なのか分からなくて、朱李は同じくきょとんとする。
「じゃあ、やってもらえるのかな」
「はい! そのかわり、あとでやめたはナシですよ」
「わかりました」
そう言って優しく微笑む入鹿を見れば、朱李にも笑みが移った。あ、いいなって、ふと思う。
橘先輩が彼氏だったら、きっと幸せなんだろうなあ。
入学初日、小さな校内で不覚にも迷ってしまった朱李を助けてくれたのが入鹿だった。以来朱李は事あるごとに入鹿を頼っていたが、そんな彼からの初めての頼み事だ。
朱李がこれを断る理由などなかった。
「午後の授業が始まるね。一年生はいろいろと大変だろうけど、がんばってね」
一度腕時計に目をやってから、入鹿は立ち上がった。
ハイと答えて、朱李もアイスの棒を片手に立ち上がる。
「先輩だって、がんばってくださいよ。卒業かかってるんですから」
「うん」
弾くように頷いて、入鹿はまた笑った。
***
それにしても、本当に専門学校はお金がかかる。あれから朱李は、母に何度も手紙と電話とメールで頼み込み、何とかいくらかの生活費の仕送りを得たものの、まだまだ生活していくにはゆとりがなかった。
一応喫茶店のバイトは始めているが、給料日まではまだあるし、もらえた後も生活に余裕は出来ないだろう。他にもバイト探さないと、と嘆息を漏らしたとき、鞄の中で携帯が鳴った。
「もしもし?」
瞬間的に見た着信表示は結架だった。
『朱李? 学校終わった?』
「うん。丁度今さっき。何?」
『……今から行くから』
そう言われたものの、朱李には理解するまで時間が掛かった。行くって、何処に?
「学校? 今からここ来るの? でも結架ちゃんの学校からじゃ家過ぎちゃうじゃん。あたしが結架ちゃんとこ行くよ」
朱李から結架の家なら、電車の通り道だ。効率的に考えれば、その方がいいと思えた。
『違うって。朱李ん家』
「ええ!」
思いがけない言葉に、朱李は道端にも関わらず声を荒げた。辺りの視線が一気に自分に集中する。しかしそれに、彼女が気付いた節はなかった。
「来るって、いや、別にいいんだけどさ。急じゃない?」
『同居人見ときたいもん。今日丁度伯父さん出張でいないし』
そういう問題ではない。結架の都合は今日がいいのかもしれないが、朱李の都合は今日がいいとは限らないではないか。しかし生憎、今日の朱李に重要な用事などはなかった。
「ゆーと、今日バイトかもしれないよ」
『待つし。明日あたしの学校休みだから、何時でもいいよ。じゃあもう十分くらいで着くから。マンションの前で待ってる』
自分の用件をさっさと言うと結架の電話は切れてしまった。
十分くらいで着くって……。朱李は電車の時間によっては後三十分帰れないというのに。本当結架は、頭がいいのか悪いのか分からない。
とりあえず、春と言えどまだ四月。こんな寒い中結架をいつまでも待たせるわけにはいかないと、朱李は急いで駅へと向かった。
タイミングがよかった。駅へ行けば電車は調度着いたところで、二駅先の自宅までは最短時間に帰ることが出来た。改札を抜け、半ば駆け足になってマンションへ向かうと、玄関先に人影が見える。
「結架ちゃん!」
小走りに家へと帰ってきた朱李の体はだいぶ温まっていたが、結架はやはり寒そうだった。無意識にか、手をこすり合わせている。
「ごめん。だいぶ待った?」
「ううん。十分くらい。それでも寒かったけど」
結架は髪を上げておだんごを作っているから余計だろう。首を縮めて寒さに耐えているようだった。
「先に中入っててもよかったのに。それともやっぱ、ゆーといなかった?」
部屋番号は昼間遊斗とのことを話したときに言っておいていた。いつ結架が訊ねてもいいようにと行った配慮だが、それでも今日結架の突然の言葉に驚いたのは、彼女に限ってそれはないと思っていたからだ。遅くとも一日前には訪ねることを予告するのが、朱李の知っている結架だった。
しかし結架は、そうではないと首を横に振る。
「だって、その遊斗って人とあたしは面識ないもの。突然朱李がいないのに訪ねて来る友達なんて、怪しいでしょう」
「そう?」
もし朱李なら、なんの迷いもなく家に上げてしまいそうだ。そんな彼女の心境を読取れば、これだから朱李は危なっかしいのだと、結架はただ呆れた。
そうこうしているうちに朱李は扉を開けエレベーターに乗る。結架も次いで乗ったのを確認すると、七階のボタンを押してドアを閉めた。
「でも、確かにいいところね。駅も近いし、エレベーターあるし。これで家賃十二万は安いかも」
「だよね。彼女と住むつもりだった家だけあって、部屋から見える景色もいいし、七階とかベストポジションじゃん! ゆーとってセンスいいよねー」
途端に結架は口を噤んだ。どうやら遊斗の話はしたくないらしい。
沈黙に耐えかねると、朱李はおもむろに口を開いた。
「……結架ちゃん、今彼氏いないんだよね」
「うん? 何で……って、あんたまさか遊斗って奴の事……!? 」
「ちが……。あたしとゆーとはそんなんじゃないよ」
あまりにも結架が至近距離まで詰め寄ってくるものだから、朱李はのけぞるように体を反らした。行き着く先は壁だ。
そこでエレベーターが着いてくれたのは幸いだった。結架の脇をすり抜けて、朱李はそこからさっさと降りる。
「ほら結架ちゃん。はやく行こう。ここ寒いし!」
結架の目はまだ朱李を疑っていた。ああ、選ぶ話題を間違えたと、朱李はほとほと後悔した。
エレベーターを降りてから三つドアを過ぎたところに朱李と遊斗の部屋はあった。『麻木・玖瀬』と書かれたプレートがドアにつけられている。
朱李がゆっくりとした手つきでドアノブに触れ右に回せば、それはガチャリと音をたてて開いた。遊斗はもう帰っているらしい。
「結架ちゃん、ゆーと帰ってるみたいだよ。よかった――」
言葉が途中で途切れたのは、玄関からすぐに見えるダイニングに、見知らぬ青年の姿があったからだ。テレビを持っていない朱李のために、遊斗がダイニングに移してくれたそれを、二人は見ていた。
ふと、遊斗が朱李に気付く。
「あ、お帰りー」
「ただいま……。友達?」
「ああ……ってそっちも?」
朱李は頷いて結架を招いた。その際にあの青年のものだろう見知らぬ靴が目に付く。つま先が外に向けられ、きちんとそろえて置かれた靴。きっと彼は几帳面なのだろう。どちらかといえば面倒くさがりな性格の遊斗に、そんな友達がいるのは意外だった。
遊斗たちの近くまで行くと、ずっと後ろについていた結架が朱李の隣に並んだ。品定めするように遊斗を見ている。
「あ、えと、彼女は山元結架ちゃん。あたしの高校時代からの友達」
「……初めまして」
そう遊斗に対して言った時も、結架の瞳は優しくはなかった。遊斗の表情が引き攣る。
「うん? ……あ、こいつ。こいつは壱原智久。こいつも俺の高校時代からのダチなんだ。今日は、どうしても朱李が見たいって」
「そうなの? はじめまして。玖瀬朱李です」
遊斗が親指で差す智久に、朱李は愛想よく挨拶をした。
しかし智久は返事をするどころか、ちらりと朱李を見ただけでそれ以上目も合わさない。
「とーも」
渋るように遊斗が声を掛ける。それに対しても、智久は答えなかった。
「あ、と、とりあえず、結架ちゃんも座って。せっかくみんなで会えたんだから、楽しくね」
そう言って結架を床におさめると朱李も空いたところに腰かけた。そして全てしてしまってから気付く。
――まずった。これじゃあ結架ちゃんがゆーとの前で、あたしが智久くんの前じゃん。
よりにもよって一番気まずい配置だ。一時も逸らさず睨んでくる結架に、遊斗ももう苦笑しかできないでいる。
「えーと、結架、ちゃん? 俺の顔になんかついてる?」
「いいえ」
「……」
会話終了。駄目だこりゃ。と、遊斗が朱李の腕をつかんで自分に引き寄せた。
「何で俺ずっと睨まれてんの?」
小声で疑問を投げつけてくる。その言葉の裏には、「何でこんな子連れてきたの?」という悪態も含まれているようだった。
「ゆーとを一回見ときたいって。なんか、戸惑いもなく女の子と同居する奴ってことで怪しんでるみたい」
「……智と同じタイプか」
面倒くさそうにそう言って、遊斗は朱李を解放した。この行為に、結架の視線がますます険しいものになっている。
高一から仲のよかった朱李は、もう結架の性格を熟知している。彼女は一度疑ったらなかなか納得しない――そう。とにかく疑り深いのだ。
と――。不意に遊斗が立ち上がった。
「朱李晩飯まだだよな?」
「え? うん」
「結架ちゃんは?」
「……まだです」
「じゃあうちで食べていきなよ。俺らも何も食べてないし。じゃあ朱李、四人じゃ食材も足りないだろ? 俺買ってくるから。カレーでいいよな」
気持ち悪いほどの清々しい笑顔に、朱李はすぐに遊斗の考えを読んだ。ゆーとめ、この居心地の悪い空気からさっさと逃げる気だな。
「じゃ、あたしも」
「あたしも行きます」
そうはさせまいと発した朱李の声を、結架が遮った。突然の申し出に、遊斗があからさまに嫌そうな顔をする。
「いや、結架ちゃんお客さんだし……」
「いいんです。行きます」
引く気のない結架の言葉と声に、遊斗は渋々了承した。これなら朱李と出かけた方がいいと、家を出る間際に合った視線が語っている。
そんな遊斗には自業自得と肩を竦めてやった朱李だが、彼女自身にも難題は残っていた。二人が帰ってくるまでの数十分間、どうして智久と過ごそうか。とりあえず、何か話してくれないかなと思いながら、智久の顔を凝視してみた。
黒ぶちの眼鏡は伊達ではなさそうだ。一見地味に見える智久だが、眼鏡にかからないようにだろう。短く切られた前髪と、耳にかかる程度に短髪の黒髪は、清潔感が出ていてとても似合っている。眼鏡の奥の双眸は綺麗な二重で、虹彩まで真っ黒だ。たれ目で、睫毛が長い。鼻筋も通っているし、普通にかっこいいと、朱李は思った。
「……なんだ?」
「えっ?」
初めて智久から掛けられた言葉に、朱李は素っ頓狂な声を返した。突然、なんだと言われても答えに困る。
「なん、何が?」
「ジッと俺を見てただろ」
ああ、そういえば。右から三対七の割合で分けられた旋毛から、スッと流れる顎まで、朱李は智久の顔を観察しきっていた。
「智くん、見られるの嫌い?」
「智くん!? 」
朱李がつい遊斗の呼び方を真似てしまうと、智久は眉を潜めた。初対面で馴れ馴れしすぎたかと朱李は不安げになるが、それは怒りとはまた違った反応に見える。
逸らした目には明らかな戸惑いが浮かんでいた。心なしか、耳が赤くなったようだ。
「……照れてる?」
「照れてねえよ!」
そう言って向いた顔は、照れているのだと主張しているようなものだった。今度は間違いなく、顔中真っ赤だ。
恥ずかしさを紛らわせたいのか、智久はそれから朱李を睨むように見続けた。
「お前……。遊斗に何望んでんだよ」
「え」
「なんか考えがあって同居するなんて言い出したんだろ? 言っとくけど、遊斗はお前みたいな見た目も中身も軽い女、なんとも思ってないからな」
途端に朱李の表情は曇った。ほれ見たことかと、智久は目を細める。
「あたし、太りたくても、太れないんだもん」
体が細い事は、周りから見れば羨ましい事なのかもしれない。だけど朱李としては、これは一番重要なコンプレックスだった。
本気で傷ついたというのに、智久は呆気にとられたように瞬きを繰り返している。そんな彼を、朱李は恨めしげに見た。
「……バカじゃねぇの」
「本気で悩んでるんだよ!」
「じゃなくて」
呆れたように制止する。異性同士の同居を認める女なんて、どうせろくでもない奴に決まっている。そう思って押しかけてきたのに、なんだか智久は気が抜けていた。
「お前のそういうの、計算?」
「……なんか、智くんの言葉っていちいち難しい」
そこまで話して、智久は頷いた。計算じゃない。コイツは天性のバカだ。
「智くん?」
「遊斗のこと、好きなのか?」
智久の言葉が、朱李にはすぐに理解できなかった。いくら日本で生まれ育った根っからの日本人でも、やっぱり日本語は難しい。
好きって、どの好き?
聞いたところでまたバカと言われそうだったし、それは何だか嫌だったので、朱李は必死に考えて答えを出した。
「人としてなら、好きだよ」
「それ以上はないのか?」
「あたし、ゆーととは恋愛できないと思う」
遊斗と初めて会ったとき、いや、会う前から、朱李は彼に特別なものを感じていた。しかしそれは、いつか恋愛に転ずるものではない気がする。むしろ、一生変わらない情。家族愛でもなく、友愛でもなく、まして恋愛なんかじゃない。名前の付けようのない気持ちだった。
「しいて言うなら、双子みたい」
「お前年下だろが」
呆れたように言いながら、智久は笑った。
彼はたれ目だから、笑った時はすごく優しそうになる。
仲良くなれそうでよかったと、今度は素直にそう思った。
それから十分ほどして、遊斗と結架が帰宅した。結架の表情にも、行く前の刺々しい感じがなくなっていて、朱李は首をかしげる。
「じゃあ、さっさと作るから待ってて」
「あ、あたし手伝うよ」
朱李と遊斗がキッチンに立つと、結架と智久はテレビを見ていた。結架も智久も、あまり初対面の人間と馴染むタイプではないので、会話は弾まないのだろう。
朱李たちの住む家はダイニングキッチンで、広さは十畳だが、間にカウンターと冷蔵庫が置かれているため、キッチンの会話は声量によってダイニング側には届かない。
「え、ゆーとも結架ちゃんに言われたの?」
「もって、朱李も?」
「うん、智くんに。ゆーとはあたしになんか興味ないぞーって」
ぷっと遊斗が吹き出した。ジャガイモを切っていた手が止まっている。
「なんか、まるで恋のライバルのセリフだな」
「あたしと智くんが?」
「うん」
うんって。朱李はあからさまに嫌そうな顔をしてやった。
「あたしは智くんのライバルにもならないよ」
「はあ?」
「あたしはゆーとを好きになんかならないもん。だから喜んで智くんに譲ってあげちゃう」
厭味なくらい無邪気な笑顔を向けてやる。それをはっきり厭味だと受け取ったのか、遊斗は横目でちらりと朱李を見遣った後に、再び野菜を切り出した。
「俺は智にモテても嬉しくないけどねえ」
「あたしにモテたら嬉しいって?」
「智にモテるよりはね」
同性に好かれて喜ぶ人を見るほうもごめんだなと思えば、朱李は剥いた野菜の皮を三角コーナーに捨てた。次は材料を炒めようと鍋に火を当てる。
「ゆーとはあたしを好きになる要素ある?」
「なんだそれ」
そう言って笑う遊斗は、多分朱李の言葉をまともに受け取ってくれてはいないだろう。鍋が煙をあげれば、油をひいて鶏肉を入れた。
「あたしは多分、一緒に住もうが何しようが、漫画やドラマみたいにゆーとを好きにはならないと思うから……って、何このしゃけ?」
肉のパックの下に積み重なっていた鮭の切り身に、朱李は目を丸くした。
「それも、カレーに入れようぜ?」
「ゆーとと一緒にごはんすると、絶対しゃけがある気がする」
何を隠そう、遊斗は無類の鮭好きだ。遊斗に調理を任せたら、最悪全ての料理に鮭が使われる。他の魚介類は一切食べないくせに、なぜか鮭が大好きなのだ。
「そんなことねえよ。ほら、人参入れないから代わりに鮭な」
そう言われると、朱李は有無を言えなくなった。朱李は人参が嫌いだ。本来魚介類も好きではないのだが、生でなければ食べられないこともない。
人参か鮭か。どちらかを取れと言われれば、朱李は迷わず鮭を取った。
「でも、そうだな。俺も朱李は、恋愛対象とかそんなんとはまた違う気がする」
切った野菜を加えながら、遊斗はタイミングを見計らったようにそう言ってきた。自己中から出来ていると言っても過言ではない遊斗が、こういう態度を見せるのは珍しい。
いつもこうなら、自分と遊斗の関係も変わっていたのかもしれないな。と時々朱李は思うのだった。
「友達かな」
「それもまた然り」
「?」
「あながち間違いじゃないってこと」
「他にある?」
「うーん……。兄妹とか」
「じゃあやっぱり双子だ」
「何だそれ。俺年上だし」
智くんと同じこと言った。などと思えば、朱李はクスクスと笑い出した。怪訝そうに眉を潜めた遊斗が、コップに水を汲んで鍋に入れる。
「ゆーとそれ量ってる?」
「いや、勘」
やっぱり頼りにならないなあと、朱李は溜息をつくことしかできなかった。
*
カレーが完成すると同時にご飯も炊けた。お腹を空かせて待っているだろう結架と智久へ、盛り付けたカレーを運んでやる。テレビが丁度、七時を伝えた。
「なんでこのカレー、しゃけ入ってんの?」
そう呟いたのが運の尽きで、結架はその後延々と、遊斗に鮭の素晴らしさを語られる事となった。
「手伝おうか?」
後片付けをしている朱李の元に、智久が顔を出した。振り返るなり笑顔をつくる。
「ありがとう! ゆーと何してる?」
「山元……だっけ? そいつとまだ喋ってる」
「しゃけについて語ってんの? いい迷惑だね〜」
「お前さあ……」
朱李の隣に立つなり、智久は口を開いた。
なかなか紡がれない言葉の続きに、朱李はきょとんと首を傾げる。
「お前、遠慮とかしないんだな」
「へ」
「遊斗と住むようになって、まだ二週間だろ。普通そこまでずばっと言えないんじゃねえの?」
何も言わないでも、洗い終えた皿を布巾で拭いてくれている。さすが几帳面な智久だ。遊斗とは大違いだと、朱李は心の隅で思っていた。
「ゆーとだからだよ。元々思ったままに言う方ではあるけど、ゆーとはなんか……何を言ってもいいのか、言っちゃいけないのか、表情見てなくても分かるから」
そう言って微笑む朱李を横目で見ながら、智久はそれ以上何も言わなかった。
***
遊斗との共同生活を始めて、もうすぐ一ヶ月だという日曜日だった。だいぶ午前中から気候が暖かくなり、蒲団からも出安くなってきた。
今日は十時からアルバイトが入っている。簡単に食事を済まそうと部屋から出ると、そこに遊斗の姿があった。
「……あれ? ゆーとどっか行くの?」
自分の姿がパジャマ代わりのスウェットだろうと、髪がぼさぼさだろうと、果てにはスッピンだろうと気にしない。ちなみに遊斗は、着替えも既に済ませており、髪もバッチリセットされていた。
意味深に、ニヤリと笑う。
「デート」
「ふうん、デ……デート!? 」
デートとは、仲むつまじい男女が二人きりで行うものだ。遊斗にそんな女がいるなんて、朱李は聞いたことがない。
「彼女できたの!? 」
眠り眼だった彼女は何処へやら。今はすっかり遊斗の彼女の存在に瞳を輝かせていた。
「できたって言うか、元鞘に戻ったんだな」
「……て、この家で同棲するはずだった彼女?」
「そうそう」
数回瞬きをして、朱李は俯くなり考え込んだ。それって、もしかしてまたこの家で同棲とかいう話になっていくんじゃ……。
「あたし、他に住めるマンション探しといたほうがいい?」
「あ? いい、いいってそんなん。別にもう一緒に住むとか考えてないし。一からやり直しなわけだしな」
「うーん、でもさ、自己中の塊のゆーとがそんなに好きになれる彼女って、ちょっとすごいよね」
カウンターへ向かうと食パンを一枚出した。隣のトースターに入れて、三分計る。
「はあ? 俺そんな自己中じゃないし」
「ゆーとが思ってるよりは自己中だし」
「は〜ん。そういうこと言うんだ。もう朱李には彼女のプリクラ見してやんない」
「あるのっ?」
「関係ないだろ」
不機嫌オーラ丸出しの遊斗に、朱李は近づいた。自己中は否定しないけれど、一途なところは遊斗のいいところだろう。
ただ今は彼女の顔がどうしても見たくて、朱李は嘘も本音も思うままに紡いでいった。
「ゆーとは自己中なんかじゃないよ! すっっごく優しいし、あたしのこと考えてくれてるし。あたしもう、ゆーとに惚れちゃいそうだもん! そんなゆーとが好きになる女の子ってどんな子なのか、見てみたいなあ」
たかが彼女のプリクラを見せるか見せないかで、そこまで一生懸命になる朱李がおかしくて、遊斗は笑いを堪えるのに必死だった。
「ね、ね! お願い」
腕に絡み付いてねだってくる朱李にも、遊斗は含んだように口角を上げ、眼を細める。それは彼氏が彼女を見るような瞳であり、親が子を見るような瞳でもあった。
「はいはい。ほら」
携帯電話の電池パックの蓋を開けると、それを朱李に渡した。裏を向ければ、二人の女の姿がある。遊斗の腕に絡み付いたまま、朱李は少し口を尖らせた。
「ゆーととのじゃないんだね」
「ああ、だって俺写真嫌いだもん」
「え、何で?」
「ポーズ考えたりとったりすんのが面倒くさい」
朱李は言葉を失った。なんと遊斗らしい言葉だろう。やっぱり遊斗は自己中だと思うと、朱李は再び写真に見入った。
「あ、ちなみに俺の彼女は――」
「この子でしょ」
朱李がショートカットの女性を指差すと、遊斗は目を丸くした。
「なんでわかんの?」
「だってめちゃくちゃかわいいもん」
その女性が遊斗の彼女だと思ったというよりは、自分だったらこの女性を彼女にするだろうという人を指差しただけだった。
別に隣に映っている女性がぶさいくなわけではないが、まん丸な小顔と眼に、プリクラ機の美白効果だけはないだろう透き通るような白い肌。ライトに反射し光る髪は、明らかにそこらのアイドルよりかわいかった。
朱李の言葉に満足したのか、遊斗は笑った。だけどでれっとしたその笑顔は、美形台無しだ。
「だろ? しずりって言うんだけどさ。マジかわいいんだよ。そのうち朱李にも紹介するから――っと、もう行かなきゃ」
するりと朱李の腕から自分の腕をすり抜くと、遊斗は軽そうに立ち上がった。立ち上がり際に香水のかおりがする。これはいつも遊斗がつけているのと同じものだが、今日は若干つけすぎなようだ。
「うん、行ってらっしゃい」
遊斗とのやり取りの間に焼きあがった食パンを取りにカウンターに向かいながら、朱李は彼を見送った。
食パンを取り出せば、そこにマーガリンを塗りたくる。時計が指す時刻は八時十二分。食べて着替えて化粧して……と、指折り数えながら、朱李は食パンにかぶりついた。
***
朱李のアルバイト先は、歩いて十五分の喫茶店だ。簡素なつくりのその店は、都立大が近い為か学生の出入りが多い。
家から近い事と、かわいく動きやすそうな制服から、朱李はバイト先を選んだ。比較的ヒラヒラした服を好むのだが、アルバイトの制服はやはり動きやすいに限る。
浅緑色のTシャツに、媚茶色のカフェエプロン。裾をおって七部丈にはく亜麻色のズボンは、朱李のお気に入りだ。そんな制服で、彼女は今日も元気に働いていた。
「いらっしゃいませー!」
お昼のラッシュを越して、ようやく休憩に入ろうかと思ったとき、店のドアが開かれた。そこから入って来た人物に、朱李は一瞬我が目を疑う。
「智くん!? 」
智久と会うのは、これで数回目だ。初対面のあの時から、ちょくちょく家へ遊びに来るようになっていた。まああれは、恐らく遊斗が無理やり連れてきていたのだろうが。
と、朱李の顔を見るなり智久は踵を返した。
「ちょっと」と腕にしがみついて引き止める。
「待って待って。なんで帰るの? せっかく来たのに」
「お前のバイト先だって知ってたら、来なかったよ」
「それってあたしに会いたくないみたい」
「会いたくねえよ」
「何で!? 」
その言葉は素でショックだ。智久に嫌われるようなことをした気がしないからなおさら。
「……お前うるさいんだもん」
「静かにしてるから。せっかく来たんだから入っていきなよ。うちのコーヒーおいしいよ」
溜息ながらに、智久は促されるまま朱李についていった。どうせ仕事中だ。そうそう自分に構ってなどいられないだろう、と甘い思考が頭にあったからだ。
しかし、現実はそう上手くはいかないもので。
「ご注文は?」
「……コーヒー」
まんまとカウンター席に座らされた智久に、朱李は付きっ切りで接待を開始した。保温されているだけのコーヒーは、もちろんすぐに出てくる。
「はい、どーぞ」
できるだけ朱李に目をやらないようにしながら、智久は本を開いた。受け取ったコーヒーにスティックの砂糖を一袋入れる。
「智くんてブラックな印象だったのに」
そんな感想にも返事をせず、視線は紙面に集中させた。無視されたと感づいたのか、朱李の体がピクリと反応する。
「無視はひどい」
「……」
「智くん」
「静かにしてんだろ」
智久にそう言われれば、朱李はグッと口を噤むしかなかった。だけどせっかく目の前に知り合いがいるのに、話せないのは何だかもどかしい。
「あたしのこと、嫌い?」
「なんで俺がお前を好きとか嫌いにならなきゃなんねえんだよ」
「だって……」
正直、朱李はここまで他人に無関心に接されたことがなかった。嫌いになる人間だって、朱李を意識しているから嫌いになるわけだし、こういう無な感情を露にされるのは、悲しい。
「嫌いって言われた方が、あたしは嬉しい」
「は?」
「なんとも思ってもらえないより、嫌いになってもらえたほうが、あたしを見てくれてるってことだもん」
智久は思わず朱李に目を遣った。どうやらこいつは、ふざけているわけではないらしい。
「わかんねえよ。そんな、好きか嫌いかなんて……」
そう言って智久は目を背けた。その頬が赤く染まっている。これは智久の“好きな方”だという合図なのだと悟ると、朱李は笑みが零れた。
「ねえ、何の本読んでるの?」
静かにしているという約束など疾うに頭から抜け落ちていた。タイトルを見せるように上げられた本の表紙に目を遣る。
「……設計全集? 智くん設計士目指してるの?」
「家作るの、夢だから」
「へえ! じゃああたしが家建てることになったら、智くん設計してくれる?」
それに答えるのが恥ずかしいのか、智久は口を開かなかった。
「でもさ、なんで美大なの? 設計の専門学校行った方がいいんじゃない?」
遊斗と智久は、同じ美術大学の二年生だ。
「元々、夢とかなかったんだよ。俺も遊斗もただ絵とか描くの好きで。で、美大で色々勉強してるうちに、設計に興味持ったっつうか……」
「そうなんだ。うん、がんばってね!」
そう言って笑う朱李に、智久はまた顔をそむけた。自分の夢をこうして語ったのは初めてだった。それを素直に聞き入れてくれた事に僅かな戸惑いと、何とも言えない嬉しさを感じ、ごまかすようにコーヒーに口をつける。
「ゆーとと言えばさ。今日デート行ったんだよ、あいつ。いいご身分だよね〜」
「デート? 彼女できたのか」
「ああなんか、ヨリ戻したんだって」
「は? あの野本って女と?」
「苗字は知らないけど、名前は……」
「しずり」
「そうそう、そんな名前!」
遊斗が幸せなのだ。これは喜ばしい事実のはずなのに、智久はなんだか不服気だった。きょとんと、朱李は首をかしげる。
「どうかした?」
「俺、あいつ嫌いなんだよ」
「あいつって、しずり、さん? かわいい人だと思ったけど」
朱李の言葉に、智久はさらに顔をしかめる。ちっと、舌打ちが飛んできそうだ。
「顔なんか知るか。あいつは腹黒なんだよ。顔で男を選んでるんだ。遊斗と別れて清々してたのに、……遊斗は女見る目ないんだよ」
「……なんか、智くんて見た目と中身違うよね」
「あ?」
「もっと優しそうなのに。なんか、ゆーとと智くんは性格逆の方が違和感ないかも」
「なんで俺があんな自己中になんなきゃなんねえんだよ」
やっぱり遊斗は自己中だと思われているのかと思うと、朱李はつい苦笑を零した。でもそんな遊斗となんだかんだで親友を続けている智久は、言葉とは裏腹に優しい人なのだろうとも思う。
「……俺、正直お前もろくでもない女だと思ってた」
「え」
そんな。
あからさまにショックが顔に出ていたのだろう。困ったように頭を抱えれば、智久は投げやりに言葉を続けた。
「最初だよ、遊斗に言われたばっかん時。男と同居するっていう女だ。遊斗は顔いいし、彼氏にでもできれば自慢にもなる。事実元カノ……彼女がそういう奴だし、遊斗自身そういう女に引っかかりやすいからな。だからお前に対しても冷たくしてたし……でもお前は桁外れにバカだし。だから今は思ってねえよ」
正直バカの一言には傷ついたが、それ以上に朱李は何だか満たされた気持ちになった。
「それって、あたしをゆーとの同居人として認めてくれるってこと?」
「……」
「智くんて、実はすっごいゆーと思いなんだね」
「……しゃべんな」
照れる智久の言葉通りに口を閉じれば、ただ満足そうに朱李は微笑んだ。




