起
「部屋がない!? 」
憧れの上京、そして一人暮らしを目前とした矢先の出来事に、玖瀬朱李は思わず声を上げた。不動産屋の店員が困ったように手をこする。
「ええと、玖瀬様には期日までに連帯保証人の確認と仲介料がお支払いただけなかったので、お電話を差し上げたはずなのですが……」
「そんなの……あたし貰ってません!」
「そう申されましても。――申し訳ございません。今担当が外しておりますので、詳しい事はまた」
「またなんて言われても困ります! あたしっ、今日からそこで住むつもりだったし……部屋っ、他に部屋ないんですか? 仲介料なら今払いますし、保証人もすぐになんとかしますから!」
今にもカウンターを越えんばかりとする朱李の気迫に、店員は押されつつも眉をしかめた。
「……申し訳ございません。お客様の希望されたマンションは既に空き部屋がありませんので……」
「じゃあ、他の部屋で! 今すぐ住めて、家賃七万五千円までの部屋なら、この際どんなのでも構いませんから!」
「そんなお部屋はありません!」
半ば強引に店から追い出され、朱李は途方に暮れた。
スタートからいきなりこんな事になるなんて、この一人暮らしは幸先が悪そうだ。
大体、どうしてこんな事に? 契約書はちゃんと母に渡した。保証人欄のサインも、契約金が五万円なのも、ちゃんと伝えたはずだ。そうだ。あたしちゃんとやったじゃん!
とぼとぼと沈んだ面持ちで歩いていた朱李はふと気付いたように携帯を取り出した。
「あ、もしもしお母さん? マンションの契約書と仲介金払われてなかったんだけど!」
『へえ?』
電話口に出た母は、気の無い返事をしてきた。まるで他人事だ。
「へえって! なんで振り込んどいてくれなかったの?」
『なんでお母さんがあんたのマンションのお金面倒見なきゃいけないの』
「なんでって……」
『美容師になるには東京で勉強しなきゃいけないんだって、親の反対押し切って出て行ったのは誰? 学費も全部自分で何とかするって、あんた言ったんでしょうが』
「それは……」
それは確かに事実だった。長野県に実家のある朱李は、どうしても東京で勉強したい、東京で美容師になるからと、啖呵をきって上京してきたのだ。
それでも、住むところのお金くらい見てくれたっていいではないか。正直、どれだけバイトをしても学生の朱李では学費と生活費でいっぱいいっぱいなのだ。
『だからお母さん契約書にサインだけして待ってたのに、あんた全然取りに来ないし、しまいにゃ不動産屋から電話かかってくるから、“好きに解釈してください”って言っといたのよ?』
その言葉に、朱李はあんぐりと口を開いて佇むしかなかった。なんと。電話を取っていたのは朱李ではなく母だったのだ。
「な……なんでそんなこと言うのーーー!」
と嘆いたところで何もならない。部屋は既に他の人に貸されていたし、代わりに住める部屋も無いのだ。
***
胸を高鳴らせながら上京してきたのに、今の朱李の気分は最悪だ。それでも何とか今日の寝床を確保しなければならない。
ホテルに泊まるお金なんて持ち合わせていない朱李が頼れるのは、一人しかいなかった。
「……と、言うわけで、今日泊めてください」
突然押しかけてきた友人の、あまりに間抜けな言葉に、山元結架は呆れるしかなかった。
結架は朱李と同じで長野県から上京してきた十八歳だ。とはいっても朱李と違い、通うのは看護学校なのだが。
「いいけど、どうすんの? 家賃七万の駅ちかマンションなんて、きっともうないよ」
「それは……うん。でもどうせ七万五千円なんて出せなかったし」
「だいたい、朱李は抜けすぎなのよ。啖呵きって家出たんだから、お金の面倒なんて見てもらえるわけないじゃん」
腕を組んで溜息混じりにはかれる結架の言葉を、朱李は正座しながら受け止めることしかできなかった。……ごもっとも。
だけど、何があろうと親は親だ。結局は面倒見てくれるのではと、甘い気持ちになることもあるだろう。それを結架に言えば、「甘い!」とはっきり言われてしまうのだろうが。
「とりあえず住めそうなマンション探そうよ。うちだってそんなに長くは泊められないし」
結架は、元々東京に住んでいる伯父の家に同居している。結架ではなく伯父の持ち物であるその家に、朱李も長居する気はなかった。
そういうわけで、結架が開いたパソコンを後ろから覗き込む。
いつの間に覚えたのか、結架はブラインド・タッチで自在にパソコンを操っていた。
「朱李、なんか住む家に条件ある?」
朱李と結架は三年来の親友だ。そんな風に訊ねられれば、遠慮もなしに朱李は答えていった。
「えっとねー。部屋は八畳以上あって、1LDKでー……、駅ちかはもう諦めるとしても日当たりいいのは絶対でしょ? 5階あたりに部屋があればいいなぁ。それから……」
「朱李!」
どちらかといえば高音声のはずの結架が突然低く叫ぶので何かと思えば、睨むようにこちらを見ていた。
「……結架ちゃん?」
「あんた……本当に探す気ある?」
「も、もちろん」
「だったらそんな条件のめるわけ無いってことくらい気付きなさいよ!」
怒り絶頂の結架に朱李は肩を竦めた。どうやら調子に乗りすぎたらしい。
しおらしく身を縮めて上目遣いをしてくる朱李に、結架は溜息をついた。身長が低く体の細い朱李は、同性の結架から見てもかわいいため、その動作は怒る気も失せる。何より、その行動が天然的なものだから性質が悪い。
「ああもう、そんな好条件の部屋に住みたいなら、同居でもした方がいいんじゃないの?」
別にその言葉に大した意味など無かったのだろうが、朱李は案外、それを本気にとった。
「同居……? そっか、その手があったんだ!」
「は?」
「そうだよね。同居なら家賃も半分だし、もしかしたら食費とかも安くなるかもしれないもんね! 結架ちゃん天才!」
そんな満面の笑みで言われても……。と、結架はなんだか複雑な気持ちだった。
しかし反対する理由も無い。こんな無邪気な笑顔を向けられたら、なんだか協力してやろうとも思えるものだ。パソコンに向き直ると、結架は同居人募集の記事を検索してやった。
意外と同居人募集の書き込みは多く、朱李は目移りしている。いつしかパソコンに面と向かっているのは、結架でなく朱李になっていた。
「あ、結架ちゃんこの人よくない? ほら、あたしの専門に近いよ」
「あんた、それ男の人じゃん」
「駄目かなぁ」
「最初っから候補に入れるまでも無いでしょ! 言っとくけど、女との同居を喜んでOKする男なんてろくなのいないよ。みーんな下心ありありなんだから」
結架に後ろから反対されれば、朱李は口を尖らせつつもスレッドを閉じた。他のスレッドを開く。そんな繰り返しが、四、五回続いた。
「あ! この人いい! 駅まで五分の家賃十二万円だって。2LDKで……って……。あたしの条件ピッタリじゃん」
“ユウ”というスレッド主の書き込みに、朱李は妙に心惹かれた。条件がピッタリなことだけが、この胸の高鳴りの理由だとは思えない。
「けど、性別未公開って……怪しくない?」
確かにユウの性別欄は未記入になっている。自分の性別すら明かさない人間を、結架が不信に思うのもおかしくはないだろう。
しかし、朱李にそんな危機感はなかった。
「だーいじょうぶだよ! ユウって明らかに女の子の使う名前じゃん。うん、決めた。あたしユウちゃんと同居する! ねえ、これどうやって申し込めばいいの?」
屈託のない笑顔は、本当に大丈夫なんじゃ。と思わせるから不思議だ。とりあえず結架は、渋々ながらもユウにメールを送ってやった。
相手も急いでいたのか、メールと一緒に書き込んだ朱李の携帯電話に返信が来るのは早かった。期待感いっぱいに、朱李は受信したメールを開く。
《メールありがとう! ユウです。是非同居の話、進めさせてください》
朱李もすぐに返信をする。
《はい! 不束者ではありますが、よろしくです》
《あの、迷惑でなければ、近々お会いして話しませんか?》
《いいですよー》
《じゃあ明日は?》
《いいですよ》
《じゃあマンションの隣にカフェがあるので、八時にそこで待ってます》
そこで朱李は携帯を閉じた。結架の痛いほどの視線が背中に突き刺さる。
「明日会うことになったよ」
「もし男だったら断りなさいよ」
「でもいい人そうだし……」
「あのねぇ!」
「とにかく会ってからだよ。どうするかも、それから決める」
一度言い出したら朱李は是が非でも言葉を覆さない。まあ、常識はある程度あるのだから、そんなに親身に止めなくても大丈夫か。そう思って、結架は翌日、黙って見送る事にした。
***
八時十分前。少し着くのが早かったかな、とも思い、朱李はユウにメールを入れることにした。送信ボタンを押して二分経つや否や、すぐに返信が返って来る。
《こっちももう着いてるよ。奥の窓側の席に座ってる》
瞬間、朱李の表情がパッと華やいだ。ずっと心惹かれていた書き込み、そして書き込み主。その人物に漸く会えるのだ。
すぐにカフェに足を踏み入れれば、朱李は店の奥に急いだ。ユウちゃんに会える。どんな子だろう。きっと明るくて優しくて、すてきな人なんだろうな。と、そんな期待が胸でどんどん膨らんでいった。
しかし奥へと進むうちに、朱李の表情は険しくなっていく。奥にあるのは二人掛けの丸いテーブルが三つ。しかしそこに、朱李の思い描いた“ユウ”の姿はなかった。
向かって右側の席にはカップルらしき男女。真ん中にはモーニングを楽しむようなスーツ姿のサラリーマン。そして左側の席には、元はストレートなのだろう茶色の髪の毛先を、弄ぶようにはねさせた青年だ。
メール見間違えたのかな。それともカフェってここのことじゃなかったのかな。そんな不安に駆られて、朱李がもう一度携帯電話を開きかけた時――。
「玖瀬さん?」
突如掛けられた声にギョッとした。だって声を掛けたのは、左側の席に座っていたあの青年だ。
「はぃ……」
「よかった、合ってた。あ、俺がユウです。本名は麻木遊斗っていいます」
そう言って笑った顔にはえくぼが出来ていた。かわいい。そう思うのは、彼に失礼だろうか。
驚いたことは事実だけど、彼がユウだと言われれば朱李には納得がいった。この感じは、確かにあの書き込みを開いた時の、不思議な心惹かれる思いと一致する。
遊斗に招かれれば、朱李はまた大きくなる期待感に心を急かされつつ、彼に従って向かいに座った。
「ええっと、まず驚いたよね。メール見てた限り、俺のこと女だと思ってたでしょ」
注文したコーヒーが届く頃、遊斗はまずそのことについて謝罪した。騙している意識はあったらしい。
「それは、まあ……。友達にも怪しいとは言われてましたけど」
「はは……。あの、嫌になったかな? 同居」
嫌かどうかと聞かれれば、正直断ろうとは思えなかった。友達、もしかしたら、遊斗は朱李にとってそれ以上の存在になってくれるような気が、ずっとしているのだから。
ただ気がかりなのは結架だ。あれだけ男との同居は反対していた結架。彼氏はおろか、男友達もまともにいたことのない朱李には、結架の言う事も聞かないというわけにはいかなかった。
「一応、すぐにうんとは言えない……かも」
朱李が答えに渋ると、そこを狙ったかのように遊斗は手を合わせてきた。
「そこをなんとか! 本当は彼女と同棲しようと思って借りた部屋なんだけどさ。実は、さあ引っ越そう、って時に振られちゃって……。もう引っ越す金もないし、だからって一人で住んでくには家賃がさ。これでも結構同居人の話くんの待ってたんだぜ? 部屋は二つあるし鍵も閉まる。いろいろ協力してやってこうよ!」
なっ! っと加えられそうな勢いの遊斗に、朱李は正直迷っていた。朱李だって、こんなチャンスはもう二度とめぐってこないかもしれないのだ。
話によれば、性別を書き込まなかったのも、あまりにそれを意識して申し込んでくる人間がいなかったかららしい。
「他に不安あるなら、俺何でもするよ?」
「……何でも?」
朱李が怪訝そうに聞き返すと、遊斗はもういいってほどに頷いた。いや、まだ頷いている。
「料理も、洗濯も?」
「は?」
「掃除も? 新聞の勧誘断るのも?」
「ちょ、ちょっと……」
「テレビのチャンネル権も譲ってくれるの?」
「それはジャンケンだろ!」
そんなたあいもない言い合いに、どちらからともなく笑いが漏れた。
ほら、やっぱり。初対面からこんなに心許して話せる人なんて、貴重。
「うん、いいよ。同居しようよ。どっちにたいしても、悪い話じゃないんだから」
「……マジで、いいの?」
あんなに有無を言わせぬ気迫で迫ってきたくせに、朱李が頷くと遊斗は動揺したようだった。でもそうなる気持ち、なんだか朱李には分かる。
「うん」
「じゃあ……、改めて? よろしく、朱李ちゃん」
そう言って遊斗は右手を差し出した。答えるように朱李も右手を差し出し、しっかりと握り合う。
「うん。よろしく。……えと、ゆーとくん?」
「遊斗でいいよ。なんかあんたとは長い付き合いになりそうだし」
恐らく遊斗は、こんな言葉に深い意味など込めていなかったのだろう。だけど朱李は、相手も自分と同じことを考えていたと言う事に、改めて遊斗の貴重さを感じていた。
「じゃあ、あたしも朱李でいいよ。せせこましいの苦手だし。あたしも」
「了解」
最初の時のようにえくぼをつくって、遊斗は笑った。その笑顔は、朱李もつられて笑顔にする。
「なんか、ゆーとの笑った顔かわいいね」
先程は失礼かなと思い言えなかった言葉が、今度は無意識に口をついて出た。あ、と口を押さえる頃には、遊斗の目がまん丸になっている。
「男にかわいいは、嬉しくないよ」
そんなこと言うくせに、顔は相変わらず笑んでいた。
「でも、それ以外はかっこいいよ?」
ふと出た言葉。それに、遊斗は吹き出すように笑った。どうやらつぼにはまったらしい。
もちろん遊斗だって、これが朱李以外の人間の言葉なら愛想笑いで済ませたはずだ。失態を取り繕う為のお世辞はいらない。だけど、おそらく朱李は本音だ。そう思えば、遊斗は笑いをこらえる事など出来なかった。
しかし、朱李は思う。本当に遊斗はかっこいいのだ。ぱっちりと開いた二重瞼の丸い双眸は、一重で狐目の自分とは相反しているし、男の子らしいガッチリとした体も、痩せすぎだと言われるほど、女の子らしい丸みのない体型の朱李からしてみれば理想だ。
交際とも言えない交際をした男の子は数人いるけれども、遊斗ほどかっこいい青少年ではなかった。きっと遊斗は、いや、間違いなくもてるだろう。
そんな風に考えている間にも、遊斗は笑い続けていた。そうやって腹を抱えるほどに笑われると、正直朱李もバツが悪い。
「ゆーと? いい加減にしてよね」
「ああ、悪い。でもいいな、朱李といると退屈しない」
「そんなこと言って、そのうち新しい彼女できたとか言って、家に連れ込んで見せ付けないでね?」
「見せ付けねー、てか、思い出さすなよ。これでも結構凹んでんだからさ」
「あ、ごめん」
「いいけど」
何の気なさそうにコーヒーを飲みきれば、遊斗は伝票を持って席を立った。
こうして、朱李と遊斗の同居生活が始まる事になるのだった――……。