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ちょっとした家族との生活

ベッドから頭をあげられなくなって長い。

死が傍らにあっても、浮かぶ事柄は、もう何もなかった。

振り返るまでもなく、寂しい、寒々しい人生。

周りはよく見えないけれど、そこには親しい人も家族もいない。

物心ついたときから、あの人を除いて家族というものを見たことがない。

病院関係者とは親しくなっても、しばらくすれば別の病院に移ってしまう。

小説や物語にあるような友人関係、家族関係は私にはどうしても遠いものだった。

義務のように、私にとって治療しなければならないものがあり、ひたすら検査と治療を続ける日々。

権利を守るためだけに生きていた。そしてその権利すら私のものではなかった。

親戚はいたように思う。

私が権利書の束に見える獣たちが親戚というのなら。


私がまだ生きているのは、純粋に私に生きていてほしいと思ってくれる人がいたことだった。

あの人。


私の祖母。

いつも感謝に満ちた人だった。

やさしく刻まれた皺のある手に撫でられるときは、治療の結果目減りした髪の毛を悔しく思った。

祖母が苦しくても最後まで生きてと望まなければ、とっくに何もかも捨てていただろう。

親戚は私の治療に金は出しても時間は出さなかった。

そのことに不満を持つには私は幼すぎたし、疑問を得るほど人と接してこなかった。


私が十二の冬、祖母が亡くなった。

葬式にすら出ることはかなわなかった。

それから八年。

自分でもなぜ死なないのかと思うほど、生き延びた。

でも、もう走れない。

目印も目的も何もない場所を、ひたすら走り続ける狂気を、わたしはもう、もっていられない。


わたしの こどう が遠く

なっていく

ああ

ここまできて

ようやく

いたく

なくなっ...



生まれてきてからも、死んでからも寄る辺のなかった私の魂は、祖母のような暖かい場所へと昇って行った。

私は身体もないのに泣いていた。


痛みのない暗闇でひたすら与えられる休息。

痛みがないことを死ぬ前は恐れていたけれど。


まどろみ、まどろみ。

溶けていく思考。

安寧をひたすらむさぼる、至高の贅沢。

時折遠くで音が聞こえた。

美しい調べがあった。

死ねば誰も還らない。その理由がここにあると思った。



いたい

痛い!

体が螺切られるように押し込まれるようにどこかへ追いやられていく。

身体の痛みに泣き叫ぶ。

そして自分が泣き叫べることに驚く。

大きな指が繊細な手つきで顔をなでた。

周囲が、まるで嵐のように騒がしい。

音があふれ続けて止まらない。

暖かい湯につかり、丁寧に拭われる。

わけのわからない衝動で泣き出す私。

考える前に何かを身体が求めている。

何が欲しいのかわからない。


いや。

いや!


身体を丸ごと移動される浮遊感。

ベッドごと移動されるのとは異なる感覚。

柔らかい肌と手のひらに撫でられる。

差し出された乳房を乳房と思う間もなく吸い付いていた。

全身の力を使って飲み下す。

あ、口から食べ物を摂取するなんて、久しぶり。

暖かい。

あっという間におなかが満たされた私は、そこで初めて母親の顔を見た。

へたばった髪、少し年かさの優しそうな人。

黒い眼がほっとしたようにわたしを見つめている。

愛情深くすがめられる目。

何も不安に思うことはないのだと、なでてくれる手が言っている。

あまり遠くはよく見えない。

早すぎても目が追えない。

しばらくうとうとしていたら、浮遊感があった。

先ほどとは違う暖かさ。

のぞきこまれる顔。

手のひらに何か当たった。

反射で握りしめる。

ほうとそこここから息が漏れている。

ああ、まぶたが。

抗うことなく私は眠り続けた。



それからあとは、寝て、食べて、寝て、とにかく泣いた。

理性が欲求を押しとどめようと思う間もなく、欲求がたけり狂った。

衝動。

衝動。

衝動。

しばらくして私は自分が赤ん坊であることを認識した。

頻繁に母乳を与えてくれるこの人が母さん。

隣で目の下にクマを作りつつ、顔をほころばせているのが父さん。

そして、日に何度も顔を見せ見守ってくれる兄。

白いひげがおしゃれなおじいさん。

ふっくりとやさしげにほほ笑むおばあさん。


私は家族を知った。

新しい家族を喜ぶ家族がここにいた。


今までいた場所はどれだけ冷たかったのだろう。

きっと寒いと感じる器官すら育たなかったのだ。

ああ、暖かい。


しゃべっている言葉は、幼い脳にぐんぐん吸い込まれていった。

つかまり立ち、一人で歩けるようになってからも、兄や父さんは私をおぶったり抱えたりしたがった。嬉しいけど恥ずかしい。

あんまりにも度が過ぎるときは母さんの所へ逃げ込むと上手くいくと学んだ。

兄や父さんから逃げても二人とも私をかわいがってくれる。

母さんは兄と父さんが甘すぎるから、怒る時はとても怖いが、でも常に愛情を感じた。

やさしく愛情深い家族。

私も同じだけの愛情が返せるだろうか。



三歳の誕生日を控えたある日のこと。

それは本当に偶然だった。

兄が母さんと普段の言葉とは全く異なる言葉を話していたのだ。

早口で笑い合っている。

妙に耳に残る、平坦にも聞こえるその言葉。

聞いたことがある音程。

言葉。

これは…?

注意深く聞いていると、さらに懐かしい気持ちになった。


『旧暦で言うと神無月だね』

『月見団子でも作ろうか?』


月見?

脳裏に、なじみ深い、しかし最近はほとんど見ていない文字が一斉に流れだした。


神無月。

そうだ。

秋。

神無月。

中秋の名月。

月見。


全ての言葉の意味が頭の中で映像化する。

思い出した。

これは生まれる前に読んだ本に書いてあった言葉だ。

私はかつて日本と呼ばれる国いた。

今までほとんど考えもしなかったのに。

ここは?

ここにいるのが私の家族でしょう?

混乱に至った私は、後で思い返すとこけつまろびつの危なっかしい足取りで、父さんの書斎に入った。


ここはどこ?

なぜ日本語が外国語みたいに聞こえるの?

父さんは、母さんは、兄さんは、私の父さん母さん兄さんなの?

混乱の収まっていない頭で必死に、世界地図を探す。

兄さんの教育用に父さんが大抵のものを買い揃えている。

日本は、どこ?

今いるところがフラッドルというところなのは分かっている。

じゃあ、日本は?

探す。

探す。

小さい文字に顔をゆがめながら、ほとんど体全体で地図に乗っかって探す...。

ない。

見つからない。

見つからない。

私が生まれる前にあったと思ってきたことは、いったいなんだったの?

思い出すたびに、声も上げられないほど、冷え切ってしまった気持ちになる。

あのかつての苦しさは何だったの?

咽喉がひきつって息が苦しい。

目の前がよく見えない。

生まれてきた時と同じくらい私は大きな声で泣き出した。


私の声を聞きつけて、兄さんがやってきた。

書斎の扉が大きな音を立てたので、びっくりしてしまった。

ぼろぼろと収まりきらない涙がこぼれる。

こんなに泣いたのは、前のことを含めても初めて。

抱きあげて、落ち着くように背を撫でてくれる。

その優しさに鳴き声が大きくなるのを止められない。

泣いて泣き疲れて寝てしまったらしい。

一度寝たら翌日の朝までぐっすりの私は、いつもの時間に起きた。

習慣ってすごい...がばっと起き上がり周囲を探す。

目当ての人はいない。

もしかしたら資料室かも。

だっと駆け出して、たどり着いた先に求めた後姿。


「おかーしゃん!」

うん。舌足らずなのは幼児だからしょうがないと思う。

資料を睨んで眉間にしわを寄せていた母さんが私を見つけて目を見張る。


「おはよう。ずいぶん早いね」

「お、おはようごじゃます。おかーしゃん。

あのね、聴きたいことがあるの!」



私は日本語で問いかけた。

『にほんはどこにあるの?』


真剣な顔で、母さんは居ずまいを正す。

しばらく黙った後、母さんも日本語でしゃべりだした。


『その質問に答える前に、貴方は何をどこから覚えているのか、言える?』


私は頷いた。

でも、とっても長くなりそうなの。

『そう、なら、落ち着いて話せるよう準備しよう。待てる?』


私は再度頷いた。

「じゃあこれからお兄さんとお父さんを起こして。

朝ご飯を食べてお父さんを送りだしたら、お茶とお菓子を片手に全部話しましょう」

「いってきます!」


それから母さんの宣言通り、滞りなく準備を終えて。

少し意外だったのは、話し合いの場に兄さんも一緒にいたこと。

でも最初に、母さんが兄さんに、

『あんまりのたうちまわると、追い出すわよ?』

にっこり釘を指していたので、普段よりずっと静かだった。

舌足らずながらも、一生懸命説明した。


何を覚えているか。

いつから記憶があるのか。


生まれる前、私は人間だった。

ひどい病気と一生かけて戦っていた。

最後に死んだ。

暖かいところにいると思ったら、明るくなって、母さんのお乳飲んでた。

この前泣いたのは、兄さんと母さんが日本語を話していたから。

私は日本ではさびしい思い出ばかりで、家族の温かい思い出はほとんどなかった。

世界地図を見て、でも、日本がなくて。

でも兄さんと母さんはいつもの言葉だけじゃなくって、日本語を日本語として話してた。

日本はないの?

私のこのさびしい気持ちは何?

これもなかったものなの?

私はおかしいの?


分かりにくく話は前後して。

何度も同じところをグルグル回り、しまいには泣き出した私のしゃべる全てを、母さんは静かに最後まで聞いていた。

私が落ち着いたところで母さんが告げた内容は本当に驚くべきものだった。


『日本はある。私はそこから来たのだから』


そこで、初めてお母さんの話を聞いた。

ここは日本とは別の世界にある世界。

異世界と呼ぶのだそうだ。

異なる世界。

母さんは突然日本からこの国に流された。

そして父さんと出会い、結婚して、兄さんと私が生まれた。


異世界。

生まれる前の私が生きた世界。

そこで使われていた日本語。

よくよく聞いてみると、兄さんにもかつて生きた記憶があるらしい。

兄さんはかつて日本で暮らし、働いていた。

しかしやはり突然こちらにやってきた。

兄さんは普通の人より恵まれた資質を持って、とても強く、賢かった。

...母さんが本当だと頷いたので信じる。

そして、この国の創立者のひとりとなり、この世界で死んだ。

そして、母さんの子供として生まれ変わった。


『日本には輪廻転生という考え方があるのは知っている?』


兄さんと頷いた。

『きっとそれは、一つの世界で見た輪廻だったんでしょう。

命は無量大数かぞえてられないほどにあるのだから、その命が全て常に同じ軌道に乗るとは限らない。

世界と世界で魂の持ち回りをしててもおかしくないでしょう』

『母さん、それすごい曲解じゃね?』

『異論は認める。論拠があるならね』

『いや、ないけどさあ』


しかし、全てを打ち明け、受け入れられたときに気づいた。

もし受け入れられなかったら。

そう、当然その可能性があったのに。

目の前でのんきに繰り広げられる会話に、心底安堵した。

私はこの温かい家庭を手放さずに済みそうだ。


娘は、前向きに進んでいきます。

強気というより、無謀なところはありますが。

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