インベントリ
――日がまだ完全に昇りきらない頃。遅めの就寝だったにも関わらず、イリカはいつも通りの時間に目を覚ます。主人より遅く起きてはいけないと教わっていたからだ。
(ご主人様が起きる前に部屋のお掃除を……あ、でも宿屋だから出発前にちょっと片付けるだけでいいのかな)
とにかくやることを探そう、とイリカは起き上がろうとするが、身動きが取れないことに気付く。
(あれ、どうして……)
かろうじて動かせる手先で目をこすって視界をクリアにすると、イリカの瞳が橙色に染まる。
(あ、ご主人様……)
いくらイリカが小柄とはいえ、二人で横になるにはこのベッドは狭すぎる。守が寝ている間に快適な睡眠スペースを求め、イリカに腕を覆いかぶせて抱きかかえるような体勢に移行してしまったのは不可抗力だろう。
(やっぱり胸板厚い。腕も太いなぁ)
気恥ずかしさはあったものの、寝て起きたら男に抱きつかれているという状況に慌てることもなく、イリカは興味深げに守のことを見つめている。
(この人が助けてくれなかったら、今頃……。いや、考えるのはやめよう。こうして生きてるんだから)
でも、とイリカは心の中で続ける。
(嬉しかったな。ご主人様は『関係ない』なんて言ってたけど、あんな優しい笑顔を他の人から向けられたのは久しぶりだったもん)
救われた時のことを思い出して、イリカは守への好意を再確認する。
(ご主人様の腕の中、あたたかい……)
幸せな気持ちのまま、イリカは再び眠りに落ちた。
慣れない世界での冒険、戦闘。それに加えて次々と起こる超常現象。いくら常人離れした体力を持つ守でも相当疲弊したようで、太陽が昇りきってようやく目が覚める。
「ふぁー、よく寝たな……ってうお!」
そしてイリカに抱きついている状況に動揺して飛び起きてしまう。
「ん……ご主人様?」
守の声に、イリカも寝ぼけ眼をこすりながら身を起こす。
すると二度寝してしまったことをすぐに理解し、イリカは青ざめる。
「ご、ごめんなさい!」
「す、すまん!」
二人は同時に謝罪を口にする。
しかし守もイリカも互いにその理由がわからず、首を傾げる。
「えっと……何で?」とまずは守がイリカに訊く。
「ご主人様より遅く起きるなんて絶対いけないんです。本当にごめんなさい!」
イリカはベッドに頭をこすりつけながら謝る。
しかし、すぐに守がイリカの両肩を掴んで顔を上げさせる。表情には少しだけ恐怖が浮かんでいる。
「あのな、まだ俺がそんなことで怒るようなやつだと思ってるのか?」
守の問いに対し、イリカは目に涙を浮かべたまま首を横に振る。
「いいんだよ、好きなだけ寝て。明日からはそんなこと気にするな。大きくなれないぞ」
守はおどけた調子でイリカにそう言い聞かせると、イリカはほっとして涙腺が緩んだせいか、涙声で「ありがとうございます……」と答える。
しばらくして落ち着いたイリカは、「そういえばご主人様は何故……?」と守に謝罪の理由を訊ねる。
「あ、ああ。それな。普段は寝相良いほうなんだが、なんというか昨日は疲れてたみたいで……。その、起きてみたらお前を抱きかかえてた、すまん」
決まり悪そうに守が答えるが、イリカは満面の笑みを浮かべて返事をする。
「それこそ気にすることはありません。むしろご主人様のおかげで安心して眠れました」
「ね、寝坊をご主人様のせいにしているわけではないです!」と慌てて付け加えるイリカを見て、守は吹き出す。
お互いに罪悪感が払拭された二人は顔を合わて、初めて朝の挨拶を交わした。
「おはよう、イリカ」
「はい。おはようございます、ご主人様」
食堂で朝食をとった守とイリカは、部屋に戻ってきて身支度を整える。
「よし、出発だ! 忘れ物は無いな?」
守はテントなどが詰まった大きな麻袋を背負い、イリカに振り返る。
するとイリカは不思議そうな顔をして守に声をかける。
「あの、インベントリはいっぱいなのですか?」
「インベント……いや、待てよ」
守は聞き返そうとするが、嫌な予感がして途中で言葉を区切り、心の準備を整えてから続きを口にする。
「インベントリ」
案の定、守の目前にダイアログが二つ現れる。
覚悟しておいたおかげで驚愕の度合いは少なく済んだが、一朝一夕で慣れるものではなかったのか、それでも守はびくっと反応する。
片方のダイアログには『アイテム一覧』、もう一方には『イリカのインベントリ』と書かれている。
後者のダイアログには、出発するにあたって守がイリカに渡しておいた水や食料の類が記されている。
(なるほど。イリカの口ぶりとインベントリの内容からすると、ここに物を入れておけるんだな。しかし……)
「イリカのも見れるのは何でだ?」
「わたしのものはご主人様のものですから」
そういうことか、と守は納得はするものの、自分の物を持つことすら認められていないという奴隷の扱いの酷さに、やり場のない悲しみを感じる。
しかし当のイリカは「ご主人様?」とけろっとした様子で守のことを覗き込んでいる。
本人が気にしていないのだから、必要以上に自分が気に病むのは良くないと守は考え、頭を切り替えてインベントリの使い方を模索する。
水筒を手に持った状態でダイアログに直接触れてみるが、何の反応もない。
そんな守を見て、イリカは「あ、あの」と遠慮がちに守に話しかける。
「『しまう』と念じてみてください」
「それだけでいいのか?」
守は半信半疑ながら『しまう』と念じると、手にしていた水筒が消失して、代わりにインベントリに『水筒』という項目が追加される。
とうとうSFじみてきたな、と守はこぼしながらも、大荷物を持ち運ばなくて済むことを有難く思う。
「そういや出すときはどうすればいい?」
守は次々と荷物をインベントリに収納しながら、イリカに訊ねる。
「出したいアイテムの名前を念じれば大丈夫です」
それを聞いた守は、「ふむ」と顎に手をあてて思考を巡らす。
(もしかして、森の中で箱や地図が出てきたのもインベントリから出しただけだったのか。すると、言葉にしなくても考えるだけで今までの現象は引き起こせる……? ちょっと試してみるか)
『フレンドリスト』と守は念じる。
すると守の思惑通り、フレンドリストのダイアログが目の前にポップアップする。
(やっぱりか。すごいなこの国)
未だに守はこれらを地域特有の現象だと信じている。厳密には『異世界』という地域特有の現象なので間違ってはいないが。
(そうだ。イリカもフレンドリストに登録しておかないとな)
ダイアログを見て、守は思い付く。
すぐにイリカを呼んでその旨を伝えるが、イリカは「ごめんなさい」と申し訳なさそうに返答する。
「わたしは奴隷なので、フレンドリストはありません」
代わりに、とイリカは続ける。
「ご主人様の『スレイブリスト』から連絡が取れます。フレンドと違って直接お話が出来ます」
イリカはどこか誇らしげだ。
守は早速『スレイブリスト』と念じてダイアログを確認する。
そこにはイリカの名前と、その横に『通信』の項目がある。
(奴隷リスト……か。でも離れた状態で話が出来るのは正直悪くないな。緊急時や声が出せないときに使えそうだ)
しばらくスレイブリストからの通信やインベントリへの出し入れを試した守は、使い心地を確かめ終えると、イリカに向き直って礼を言う。
「ありがとうイリカ。おかげで快適に旅が出来そうだ」
イリカは「お役に立てて嬉しいです」とにっこり返事をする。
「じゃあ改めて……出発だ!」
身軽になった守は、意気揚々と宣言する。
「はい!」とイリカが元気良く答えると、二人は部屋を後にする。
ドアを閉める際、イリカが感慨深そうに部屋を眺めていたが、守が「どうした?」と声をかけると「いえ、何でもないです」とイリカは返事をして、すぐにドアを閉めて守の後を付いていった。
宿屋を後にした二人は、リントフに向かうべく町の北側の門を目指す。イリカ曰く、そこから続く道を辿っていけば一週間ほどで『パコブ』という町に着き、そこから更にもう一週間の距離にリントフがあるそうだ。
「そういやイリカはこの町にも詳しかったけど、前はここら辺に住んでたのか?」
リントフまでのルート説明を受けた守は、ふと気になってイリカに訊く。
「父が商人だったので、スラティにはよく来ていました」
なるほどな、と得心がいった守は、それ以上の質問はしない。
イリカが奴隷になっているということは、親がイリカを売ったか、もしくは……。どちらにせよ、親の話題はイリカにとって辛いだけだろうと守は察する。
それから当たり障りの無い話をしていると、二人は間もなく門に到着する。
入る時とは違い、門番に呼び止められる様子はない。
「時間にすると一日もいなかったけど、色々あったな」
守は一瞬だけ町を振り返り、ぼそっと口にする。
「はい。この町でご主人様と出会えたのは一生の思い出です」
イリカも守に倣って、町の方を見返す。ノトーリアスの館、イリカの人生で最も恐ろしい体験をしたであろう場所が目に入る。しかし少し視線を移すと、守と泊まった宿屋や買い物をした街道が見える。イリカはそこでの出来事を胸に刻み込んで、晴れ晴れとした表情で町に背を向けた。
――二人が門を通るのを死角から眺める影が一つ。
『マスター、“例の男”はどうやらリントフに向かうようですよ。追跡します?』
『リントフか、ならば追跡は不要だ。お前はスラティに留まって素材の買取を続けろ』
『分かりました』
男は通信が切れたのを確認すると、ふう、と息をつく。
主人の命で慣れない尾行をやらされた彼は、今までに無い疲労感を覚えている。
(なんだってんだ、一体。マスターが固執するほどの何かがあるようには見えなかったが……)
まあ奴隷のオレには関係ないか、と小太りの男は自分の宿に戻っていった。