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~徳川松姫編~

土井松千代の性別を変更しました

徳川家嫡子・徳川松姫の朝は早い。朝は日が昇るとともに目覚めて布団から起き上がる。母譲りの長く艶やかな黒髪、黒曜石のような黒い瞳は彼女の醸し出す穏やかな雰囲気を象徴しているともいえた。

「おはようございます、姫」

「おはよう松千代。寝ずの番ご苦労様」

部屋に控えていたのは松姫より6才年上の土井松千代。母・家康が娘の傅役につけた少年少女たちの一人。ゆくゆくは彼らが家康の後を継いだ松姫を支えていく側近となると期待されている。

「では、御髪を整えさせていただきます」

「ええ、お願いするわね」

松姫が髪を整えさせるのを許しているのは彼女の父と、この松千代だけである。母・家康は政務が忙しいことと、父と比べて手先が不器用なのが重なって触る機会はあまりない。母娘仲はとても良好ではあるが。








松千代に髪を整えてもらい、運んでもらった朝食を食べた後、松姫は剣道部が使うような動きやすい道着と袴に着替えて馬場に向かった。朝早い時刻だが、すでに馬を責めている一団がいた。全員が赤い鎧を身に纏い、調練を行っている様だ。

「姫、おはようございます」

一団から離れて見守る一騎の騎馬武者が松姫に気が付き、下馬をして挨拶をしてきた。赤い甲冑に身を包んだ青い髪に青い瞳の少女―――この部隊の長・井伊直政である。

「おはよう直政。新たに組み込まれた、武田家の騎馬隊の動きはどう?」

「はい。さすがは武田家の兵士たちは練度が高く、逞しい者達ばかりです」

甲斐・信濃の武田旧領を平定した徳川家は、武田遺臣と呼ばれる武田家の浪人を数多く召し抱え、井伊直政の部隊に組み込まれることになった。武田家最強の部隊であった山県昌景隊に倣い、井伊隊は全員が赤一色の鎧に身を包み『赤備え』と呼ぶことになった。

「私も朝駆けに出ようかしら。直政、付いて来てくれる?」

「御意。誰かある!姫様の馬を曳いてこい!」






松姫の愛馬は栗糟毛(くりかすげ)(鹿毛や栗毛などの毛色に白毛が混生した毛色)の『桜野』という名の馬である。先日の武田旧領制圧戦の勝利を祝い、甲斐のある豪族から贈られた物であった。

曳いてきた小者に礼を言って乗馬し、大手門のところで待つ直政のもとへ小走り気味に馬を進める。

「お待たせ・・・どうしたの、直政?」

合流した時の直政は、苦い顔をしていた。

「姫様・・・あのような小者に軽々しくお声をかけるべきではありません。貴女様は今や五ヶ国の太守たる殿の跡取りなのですぞ」

これが直政ら重臣たちの悩みの種であった。松姫は政務に忙しい母に代わって主に父・聖一の手で育てられた。上流階級とは無縁の一般市民だった聖一のもとで育った松姫は、相手の身分に捉われずに接し、よく城下町を訪れては民と親しげに言葉を交わしている。『姫様は気さくな御方』というのが浜松城下の民たちからのもっぱらの評判だった。

しかし、一部の重臣たちからは『松姫様はご自分の御立場を理解しておられないのではないか?』と器量を疑われている。気軽に民と接しているのが気に入らない―――というより、将来松姫が当主になった時に、五ヶ国の太守たる彼女が民に軽んじられるのではないかと彼らなりに案じているのだ。

「そうね。気を付けるわ」

クスクスと微笑むその顔が、彼女が敬愛する主君そっくりで―――

「こ、今後はお気を付けください」

直政は頬を赤らめて、なんとか家臣っぽいセリフを呟いた。






松姫と直政は城下町を抜け、馬込川沿いに2人は駒を進める。周りに衛兵などはなく、本当に2人きり。次期当主と重臣が護衛もなしに・・・と周りから見れば不用心に思われるかもしれないが、2人には自分たちに危害が加えられる存在が現れる可能性が極めて低いことは分かっていた。

「父上の発案された『衛兵詰所』。民からはなかなか評判のようね。治安部隊が常に目を光らせているから、犯罪がめっきり減ったとよく聞くわよ」

聖一が提案した『衛兵詰所』は現代でいう『交番』である。治安を向上させるために設立を提案したが、そこで問題が起こった。常駐させるための人員をどうするかである。

徳川家の軍事力を支えるのは主に農民兵である。彼らは戦にかけては粘り強く精強だが、普段は農業を営んでいるため戦時以外に徴兵するのはあまり好まれない。生産力が落ちるからだ。

そこで聖一が思いついたのが、どこにも仕官していない浪人を期間限定で雇う事―――つまり、アルバイトである。修行の旅をしている武芸者などを衛兵として雇い、彼らを使って治安を維持させる。そのなかで、目を見張る実績を示して徳川家に士官を求める者を正式に雇用する。現代でいうならば、アルバイトからの正社員採用といったところか。

もちろん彼らだけでは足りない。その分は募兵に応じたばかりの新兵を宛がう事とし、これを新兵調練の一環とすることにしたのである。

この結果、徳川家の領土は全国屈指の安全と安心を誇る領土となり、お金を落としてくれる行商人や旅人の数も増えて盛況を誇ることとなった。

「ま、まぁ・・・あいつも少しは御当家のためにお役にたっている、というのは認めないでもありません」

(まったく、直政も素直じゃないんだから)

男性―――特に聖一に対しては常に冷たい態度をとる直政。しかし、彼女が聖一を認めていることを母と松姫は知っている。

「しかし、あいつはまだ甘いのです!この前も―――」

(文句を言いながらよく見てるじゃない、直政)

その後も川沿いに駒を進めながら、松姫は直政の聖一に対する愚痴に耳を貸していた。







警邏があるという直政と別れて浜松城に戻った松姫は湯浴みをして着替え、剣の練習をするために城内に建てられた武道場に向かった。

「お、来たな松姫」

「義姉上、よろしくお願いいたします!」

彼女の剣術の師は、父の養女・秀康。

「よーし、じゃあ今日はどれくらいにしようか・・・一刻(約30分)耐え抜け!」

両親が定めた松姫の剣術指導の方針は少し変わっている。娘の剣の腕が平凡なものと見抜いた家康は、娘に『守りの剣術』を身に着けさせるようにした。

彼女は次代の徳川家の総大将。これからの時代は大将自ら一騎打ちしたりするものではないと考え、『大将たるものは自らの身を守る剣術を身につければよい』という方針にしたのである。

逆に弟の福松丸は、将来松姫を臣下として支えねばならぬ人物であるため、こちらは忠勝や直政といった猛将たちによって『攻めの剣術』を身に着けさせられている。

松姫の剣術の訓練時のルールとしては、秀康が指定した時間の間、彼女の攻めを耐え抜くというものだ。その時間の間に木刀を弾かれたりすればもう一度やり直し。

「そんじゃ、始めるぞ」

「はい!」

松姫の威勢のいい返事が合図。秀康は獰猛な笑みを浮かべ、猛然と打ち掛かった―――







「うう~・・・いたたたたた・・・」

剣術の稽古や政務の勉強を終えた松姫は湯船のお湯に体を鎮め、打ち付けられて赤くなった箇所を摩っていた。

結局、少なくとも10度は打ち据えられ、30分で済むはずだった剣術の稽古は2~3時間かかってしまった。

「明日、痣になってるでしょうね・・・」

しかし、彼女とて一介の武人。痣なんかは気にしてはいられないが、同時にひとりの女の子である。やっぱり少しは気になってしまう。

「松姫、私も入っていいかしら?」

「は、母上!?」

その時、戸の外から聞こえてきたのは、同じ城に住みながらあまり会う事のない母・家康の声だった。







久しぶりに会う母は、やはり美しい女性だった。松姫が誇りを持っている美しい黒い髪に、バランスのとれた理想的な体型。松姫が理想としている姿がそこにはあった。

侍女に体を洗わせた家康は、ゆっくりと湯船に浸かった。

「今日も頑張っていたみたいね。秀康殿から聞いているよ、剣の腕は日々上達しているって」

「え・・・母上、御存じなのですか?」

「娘の事がわからなくて、何が母親ですか。貴女の頑張りは、いつも私の耳に入っているよ」

いつもは政務が忙しくて松姫に構う事が出来ない家康だが、政務に忙しい傍らで常に子供たちの情報は仕入れていた。政務を理由にして、我が子の事を何も知らない母親では嫌だったのだ。

「松ちゃん。貴女は確かに武の腕では福松君には敵わないかもしれない。でも、福松君はあくまで『兵の将』。貴女には『将の将』たる才があると思ってる」

「『将の将』・・・」

家康は、松姫が弟の福松丸に対して劣等感を抱いているのは分かっていた。家中にも『後継者は福松丸様に』という声は聞こえてきているし、実際に進言されたこともあった。

しかし、家康は自分の後継者を松姫と定めて揺るがない。徳川家を大きくするのは『将の将』・・・将軍を差配する王たる才を持つ松姫であると確信しているから。

「だから・・・私があなたに家督を譲るその時まで、文武に精進なさい」

「はいっ!」

娘の返事に満足した家康は、彼女の頭を優しく撫でた。


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