~織田信長編(中)~
織田弾正忠家嫡子・信長の結婚式は、那古野城で盛大に行われた。上座には花嫁である信長とその夫となる生駒吉乃。
「ふふ、あの野生児が一目惚れした男はどんなやつかと思っておったが・・・生駒家のかぐや殿ならば致し方なし、か」
「黙ってろ!クソ親父!」
信長が頬を真っ赤にして花嫁らしからぬ罵声を浴びせた人物は、彼女の父・織田信秀であった。すでに四十の坂を登ろうかという彼だが、戦焼けした顔にはまだまだ衰えは見えない。彼の重臣で信長の守り役である平手政秀はすでに酒がまわっているのか、真っ赤な顔で「めでたい」を連呼している。
「ククク・・・照れるな、我が娘よ。婿殿よ、今日はめでたいのう」
しかし、はじめて織田家の面々と出会った吉乃にもわかってしまっていた。この宴があまりめでたいものではないという事を。そして信秀が半分の意味でしかめでたいと思っていないことを。
信秀の正面に座る信長によく似た少女は、信長の妹・信行。末森城主である彼女は、家中では文武に明るくしかも信長と違って礼儀正しいと評判で、後継者を信長から変えてはどうかという声も上がっているという。
それを抑えているのは政秀であり、信秀であった。ただ、信長の味方はこの2人だけ・・・
いや、今日から変わる。政秀・信秀、そして吉乃だ。
(信長殿が一方的に私を守ってくださるんじゃない。私も信長殿を信じ、お守りしなければ・・・)
新婚初夜を迎えた身分のある夫婦は、寝所に入る前にそれぞれ乳母から身体のしくみ―――現代風に言うなら保健体育の授業―――を受けるという。
「よろしいですか、吉法師様。殿方の身体とは―――」
「そそそ、そんな事までするのか・・・!?」
乳母からの説明を受けた信長は大赤面。「あぅ」「うぅ」とか襖の前で躊躇している姿に、別部屋から廊下の信長を盗み見ていた乳母は「あの吉法師様がすっかり乙女になって・・・」と感涙していたとか・・・
(ええい、あいつはオレのモノなんだ!)
よくわからないが意を決した信長は、勢いよく襖を開いた。部屋にはすでに敷かれてある大きめの布団、そしてキョトンとこちらを見つめる夫の姿があった。
「ま、待たせたな!」
「・・・?いいえ、特に待ってませんよ?」
信長の無駄に大きな声に小首をかしげながら吉乃は答える。事実、彼も先ほどこの部屋に入ってきたばかりだ。それよりも、吉乃が首を傾げたため、彼のサラサラの黒髪が星空のように煌めいた。その光景と彼の『キョトン』顔に、自分の顔が熱くなることを自覚する。
(うう、この天然ジゴロめ~!)
自分は大層彼に惚れているみたいだ。それが何だか悔しくて、心の中で理不尽に吉乃を罵る。
彼はふと表情を引き締めると、「信長様」と彼女に告げた。
「あなた様には、これから先色々な苦難が待っているでしょう。でも、僕はあなたに一生ついて行きます」
「吉乃・・・」
「愛しています、信長様」
彼からの初めての口づけは軽く触れるくらいの短さだった。
「吉・・・だ。2人でいる時は、そう呼んでくれ」
「分かりました・・・吉」
2人は先ほどよりも深い口づけを交わし、そして2人は―――
信長と吉乃の結婚後、織田家と西の今川家の間で三河国を巡る抗争がさらに激化していった。
信長の父・信秀は美濃国の斎藤道三と同盟を結んで三河国攻略を目指し、三河の重要拠点・岡崎城の城主・松平広忠を屈服させようと策を練るが、今川家に属する広忠は義理堅く、なかなか寝返ろうとはしなかった。
窮余の策として、今川家に人質として送るはずだった広忠の一人娘・竹千代を奪って広忠に服属を求めたが、それでも彼は降らなかった。
「やれやれ・・・広忠殿の義理堅さにも困ったものよの」
「殿、娘はいかがいたしましょう?殺しますか?」
家臣の問い掛けに「ふむ」と無精に伸びた顎髭を撫でながら、信秀は少し考えて告げた。
「いや・・・何かの役に立つかもしれぬ。寺にでも預けておけ」
「御意」
―――しかし竹千代が『信秀』の役に立つ事はなかった。
信秀は竹千代を人質に取った後に、三河国小豆坂で今川軍軍師・太源雪斎を総大将とする今川軍に決戦を挑むが、大敗を喫して三河おける影響力を失い、さらにその直後に信長の異母兄・信広の守る安祥城を攻略させれて、信広は今川軍の捕虜となってしまう。
結局人質交換として竹千代と信広はそれぞれもとの勢力のもとに戻された。しかし、信長と竹千代は一緒に遊ぶ中で友情を深めていった・・・
しかし、織田家の家運はこの大敗を機に急速に傾いていった。
信秀が病で没すると、信長に対する風当たりが急速に強くなっていく。そんななかで、後を継いで当主になった信長の味方は家臣ではただ一人、平手政秀だけであった。だが、その政秀も結婚後も奇行が改まらない信長を諌める為、自害してしまう・・・
政秀が死んだ日、信長は吉乃の胸の中で泣いた。それは、信長が初めて人前で見せた涙だった・・・
しかし、当主・織田信長は泣いてばかりはいられなかった。尾張を早急に纏めるべく動き出す。
信秀が生きていた頃から尾張の覇権を奪わんとしていた守護・斯波氏を擁する清洲城の織田信友を、主家筋にあたる斯波義統を殺害した事を大義名分として信長は叔父の織田信光と結んで信友を滅ぼして清洲城を奪い、居城とした。
しかし、尾張は未だ治まらず。信秀・政秀が抑え続けていた反信長派が妹・信行を擁して末森城で挙兵したのだ。
「これ以上、姉様に国をお任せするわけにはいかない。父様の後を継いで、私が尾張を守ります」
『ははっ!』
末森城に集った反信長派の家臣たちの前で、信行は国盗りを宣言すれば―――
「妹よ・・・国は守るものじゃない。攻め取るものなんだよ」
清洲城で、憂いを帯びた表情で信長は呟く。
ここに、織田姉妹による尾張争奪戦は幕を開いたのである。