第24章:音運び
ライブハウスでの玲奈と先生の圧倒的な演奏に圧倒され、「私って誰なのか」という黒い疑問と激しい嫉妬に身を焦がしていた私。そんなある日、先生から次のステージが落語家・清成亭小小とのコラボレーションであると告げられる。
先生を含め、この世界の真ん中にいる人間たちは、どうしてこうも眩しい光を纏っているんだろう。天性の才能か、それとも自分を信じ抜いてきた歴史の差なのか。かつて夢半ばで自分の足元が崩れ去り、暗い穴の底へと転がり落ちた私の「影」が、今この瞬間に喉元までせり上がってくるのを、私は必死で奥歯を噛み締めて引き留めた。
玲奈さんの声は、ずるいほどに懐かしくて、あたたかくて、なのにどこか刃物みたいに尖っていた。言葉の輪郭が皮膚をひっかくような、不思議な熱を帯びた歌声。自分の内側にあるドロドロした感情を言葉にするのすら面倒くさがる私には、一生かかっても辿り着けない種類のまばゆいオーラを、その人は全身から発していた。
たったひとつの楽器と声だけで、空気の密度を塗り替えてしまう。その圧倒的な表現力に、私は胸を突かれる思いだった。
そして、その独特な旋律と乾いた歌詞を優しく、しかし容赦なく包み込むように、あの人のサックスが重なる。ふたつの音が溶け合い、生々しい熱となってライブハウスの狭い空間を揺らす。私はそのあまりに完成された音楽の交わりに、胸の奥がキュッと抉られるような、激しい嫉妬を覚えずにはいられなかった。
『……先生にとって、私はなんなんだろう。私はあの人のために何ができてるの? 私なんか、あの人にとって本当に必要な存在なわけ? 私と付き合うメリットなんて、あの人にある? 私は本当に、あの人のこと分かってるのかな。逆に、あの人は私のこと、どれくらい分かってくれてるの……? ていうか、私って、なんなんだろう。私って……誰……?』
頭の中で、黒いインクがにじむみたいに、醜い疑問が次から次へと澱のように湧き上がってくる。
ステージから容赦なく降り注ぐ音のシャワーを浴びながら、私のなかで感動とドス黒い嫉妬がぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。いや、これはきっと、あの人があの女と紡ぎ出す音のせいだ。そうやって無理やり理由をつけて、喉元まで出かかったみっともない弱音を噛み殺す。
それでも、音の波がすべてを洗い流していく瞬間、どうしようもなく胸の奥が熱くなった。
――音楽って、ずるい。 悔しいけれど、やっぱり、いいなあ、と思った。
ステージの熱気が嘘のように引いていく楽屋裏の余韻を引きずったまま、私たちはまた、あの密室である車の中に戻っていた。夜のとばりが降りたアスファルトを車が滑らせる中、ハンドルに手を置いた先生が、横目でちらりと私を盗み見る。
「なるか、今日の演奏、どうだった?」
「え……あ、よかったよ。すごく、感動した」
どこか湿った、わざと温度を下げたような私の返事に、先生はわずかに眉をひそめた。バックミラーに映る自分の顔がひどく不機嫌に見えて、私はあわてて視線を窓の外の流れるネオンへと逸らす。
「そっか。なら、よかったけど」
「ねえ、せんせ」
「ん?」
「次は、どんなステージなの?」
「あー、次はね、落語家さんとのコラボなんだわ」
「へえ……見てみたい」
面白そうに笑うその横顔を見ていると、胸の奥がチリチリと焼けるように痛んだ。私の知らないところで、あの人は私以外の人間と組み、私とは違う景色の中で笑い、音を鳴らしている。その事実が、無性に、どうしようもなく疎ましかった。
「じゃあ、観に来るか?」
「うん! 行く!」
逃げるように、でも貪欲に、私はその誘いに飛びついた。この人の知らない私がいるのと同じくらい、私の知らないこの人の姿がどこかへ行ってしまうことも耐えられなかった。あの人がステージの上で放つ光のすべてを、一瞬たりとも見逃さずに私の網膜に焼き付けてやる。そう強く思い詰めながら、私は乾いた喉を鳴らした。
「ねえ、その落語家さんって……何ていう人なの?」
「清成亭 小小さんていう噺家さんだよ」
「へぇー!有名な方?」
「清成亭 大小師匠のお弟子さんで二つ目の方だね!」
「二つ目???」
「落語家さんの位の呼称だよ。下から前座見習い、前座、二つ目、真打ちっていうんだ。真打ちになると弟子を取れるんだよ。」
「へー!全然知らない世界だ。見たことないから楽しみ!」
そのステージは、あっという間にやってきた。
普段の生活のなかで、落語という文化に触れたことなんて一度もない。テレビのバラエティ番組の端っこで、おじさんたちが座布団を奪い合って座っているあの光景くらいしか知識の引き出しにはなかった。あのユーモラスな空間に、あの人の吹く冷たくて熱いサックスの音がどうやって噛み合うのか、正直想像もつかなかった。
その日も、あの人は私の自宅近くの寂れたコンビニの駐車場まで、わざわざ車を走らせて迎えに来てくれていた。
助手席のドアを開けて乗り込むとき、私はわざと少し大げさに小さく手を振った。
「おはよ」
「ああ、おはよ」
「ねえ、せんせ? なんか、気づかない?」
私は少しだけ胸を高鳴らせながら、待ち構えていたクイズを唐突に投げつけた。
「めっちゃ簡単。新しい、おしゃれなワンピース着てるじゃん」
「おぉー……! さすがです!」
秒速で返ってきた正解に、私は思わず両手を叩きそうになった。この日のためにわざわざ奮発して買った、初めて袖を通す黒いワンピース。私の不機嫌や嫉妬をすべて飲み込んでくれそうな、深い夜の色をしたお気に入りの一着だった。
「今日のために買っちゃったんだから!」
「そうなの?!」
「だって、今回の落語って、なんか怖いお話なんでしょ?」
「怖い、というか……まあ、怪談に属するのかな」
「だから、そのイメージにちょっと合わせてみたの!」
「落語の演目の雰囲気に自分の服まで合わせるって、なかなかないセンスだな」
「でしょ? センスいい?」
いつもの、私以外の答えを絶対に許さない誘導尋問を、私は得意げにあの人に突きつけた。
「うん、めちゃくちゃセンスいいよ」
「やった!」
車内を満たすその満点の肯定に、私の自尊心は心地よく満たされ、黒い布地の裾がわずかに熱を帯びたような気がした。




