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正しい現を、ひとときの夢を

作者: 白湯
掲載日:2025/12/10

 びしゃり、と水がコップからこぼれていく。そのせいで、お客さんの服はまたびしょ濡れになってしまった。

「あ、あの、すいません」

「ん、あぁいいよ、大丈夫大丈夫。これくらい誰にでもあるって」

 お客さんは柔らかな笑みで私の事を見届けてくれた。だから、一生懸命にテーブルを拭いて、お客さんに一生懸命謝ってその場は収まった。

 一通りのことが終わってバックヤードに戻ると、店長が私に声をかける。その顔は不機嫌そうな顔をしていた。

「お前さぁ、何度言ったらわかるわけ?」

「すいません」

「すいませんすいませんって言うけどさ、このミス何回目よ。ほんとに思ってんならさっさと直せよな」

 タバコの匂いが辺り立ち込む。店長の怒号とも言えない怒りのこもった声が私の心をひどく震わせた。

 バイトが終わるまで、私の心はまだ揺れていた。だって、怒られたから。私が悪いのだろうけど。

 バイト明けの曇り空は、やけに苦しかった。

 だから宛もなく、ただ街を歩こうと思った。だって、今日は少し心がざわつくから。あまり、楽しくないから。

 そう思って、繁華街の街並みを眺めながら歩いていく。けれど、心のざわつきは未だに取れることはなかった。むしろ、人の生活を見ていることで段々と心のざわつきは増していくようだった。

 どこもかしこも人がいる。大地を踏み荒らすような、アスファルトを削る足音は、どこを見ても絶え間ない。自分の世界に閉じこもるような喋り声も止むことはない。そんな音が聞こえるたびに、私の耳は劈かれるようだった。

 だけど、私も同じように大地を踏み荒らしている。何も違わない筈なのに、私はそれを見下している。

 そうして自分の愚かさを直視するたびに、私の心がざわついていく。

 ざわついて、耳を劈かれる。あまりに嫌になった私は、思わずイヤホンを取り出した。

 聴く曲はよく聴いているロックミュージシャン。他の音が聞こえなくなって、自分だけの世界が生まれたようだった。

 自身の殻に閉じこもると、私は空を眺めながら歩くことにした。これなら、人を知ることもない。

 そうして、空を眺めながらただひたすらに歩いていると、いつの間にか見知らぬ場所にいた。

 木々の生い茂る森の中。私はどこまで来たんだ、とまたため息をつくと、歩きすぎたせいか足の痛みがひどいことに気がついた。

 一息つくために、木々の足元に腰掛ける。土が冷えていて冷たいような、気持ちの良いような。

 一息ついていると、場にそぐわないロックミュージシャンの楽曲が気になるようになってきた。そろそろ飽きてきたところだし、イヤホンを引き抜いた。

 その瞬間に、耳飛び込む音は、イヤホンをしているよりもずっと美しいものだった。

 葉同士がぶつかり合って擦れている、小鳥が友と話すように鳴き声をあげて、それと一緒に羽ばたいて。小鳥は空を、切り裂くように飛んでいく。いつの間にか空は青く輝いていた。

 あぁ、美しい。

 見惚れるような音達、音を聞いたことで今まで気にしていなかった、森の雰囲気を吸い込んでいた。

 土の青々しい匂いが場には立ち込めていて、草の根達は瑞々しい匂いをあげていた。

 木々の隙間で森の世界を楽しみながら、私もその仲間として揺られていく。

 たまには人をやめるのも、良いのかもしれない。だって、木々とともに歩むのはこんなにも楽しい。

 木々の隙間で揺られる度に、色んな嫌なことを思い出していく。バイトで怒られたことや、母に叱られたこと。

 思い返せば、人になすりつけたり、人の事を見つめたり、人の事ばかりを気にして生きていた。

 立ち上がろうとして、木の根が絡んだような気がしてまたそこへと座り直す。

 酷く足は動かなかった。明日は何をするか、なんかよりも、いつかの日のことばかりが頭をよぎっていく。

 人と、人が手を取り合っている。ああ、正しい事だ、と私は思った記憶がある。

 人と、人がともに泣いている。ああ、それは美しい事だ。と思った記憶がある。

 けれど、けれど、けれど。それを見る度に私の心は落ちていく。床に寝そべって、木の根が絡むような心持ちになってしまう。

 正しさは、私の心を歪ませていく。身体は立ち上がることを拒もうとしていく。

 木々の中には正しさはない。けれど、私は人間だ。正しい事をしないといけない。

 一人でこうやって木々に揺られていられるのなんて、ほんの一握りだし、そういていいのかもわからない。

 私はそれから日が私の帰りを告げるように、赤く落ちていくまで木々になっていた。

 そのうちに、店長に叱られたことも何度か反芻して。正しい、事ばかりだった。正しいのだから、受け止めなければならない。

 赤らんだ空を眺めながら、自分の事を立ち返る。

 赤らんだ空、かぁ。流石に、そろそろ帰らなければならない時間かな。

 私は立ち上がって、土を少し払う。木々に別れを告げて歩き出す。そして、人々の中に混じっていく。

 そうすると、あちらこちらが気になるようになっていた。

 欲しいものが買ってもらえたのか、足取りは軽く、笑みがこぼれるような子どもの姿がまず目にとまった。次に、おしゃれをしてよく時計を見ている女の子の姿、きっとあれは誰かを待っているんだろう。

 歩く度にどこかに気がついて、その楽しさを少しだけ借りていく。正しいばかりの世界じゃない、だなんて木々に言ったけれど。人の隙間にも正しくない世界がある。

 だから、木々に感謝をしながら私はまたふと思う。

 人の事を知って、人の事を楽しむ。きっと木々でいるうちは出来なかった事だ。

 それなら、人でいるのも楽しいかも、しれない。

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