第3話「それ、絶対言っちゃダメなやつ・3 戻れない夜」
社内の仲間たちと、無事にトラブルを回避した瑛士。
今日は恋人の誕生日を祝う、ちょっと特別な夜を迎えます。
最高に幸せな一日に、突然の通知が……。
その日、世田谷にある瑛士のマンションには、バターと肉の焼けるいい匂いが満ちていた。
テーブルの上には、スーパーで買ってきた小さめのホールケーキと、
沙耶が好きな、ちょっと高めのスパークリングワイン。
そしてサラダにスープと、彼女が腕によりをかけたご馳走が並んでいる。
照明はいつもより少しだけ落として、ダウンライトにしてある。
そのせいか、いつもの1LDKのリビングも、少し特別な空間に見えた。
「……よし、できた」
沙耶はフライパンのハンバーグをお皿に移し、その上にジュっとソースをかけた。
「おお……美味そう」
「でしょ! 今日は気合い入れて作ったんだ」
そう言って、沙耶はちょっと照れたように笑った。
エプロンの下は、濃紺のワンピース。
普段はカジュアルな服装が多い彼女だが、今日は少し主役の装いをしている。
「沙耶のハンバーグ、楽しみにしてたんだよ」
瑛士はそう言って、沙耶を後ろから抱きしめた。
頬に触れる、絹のように触り心地の良いまっすぐな髪。
初めて会ったとき、サラサラと揺れるその髪に目を奪われたことを思い出す。
振り向いた沙耶は嬉しそうに笑い、二人は軽くキスを交わした。
(これは……完全に、「そういう」タイミングの夜だよな)
瑛士は、自分の心臓がいつもより少しだけ高鳴るのを意識していた。
沙耶も、自分も、二十代後半を迎えた。
「付き合ってそろそろ何年」とか、
「次の誕生日でいくつになる」とか、
そういう数字が、なんとなくお互いの頭の片隅に残る年齢だ。
今夜は沙耶の二十六回目の誕生日。
そして——
(指輪、買っちゃったんだよな……)
寝室のクローゼットの引き出しには、小さな箱が一つ。
渋谷のデパートで買って、紙袋ごと突っ込んである。
渡す言葉は、まだうまく形になっていない。
でも、少なくとも「今日はこのままで終わるつもりはない」という決意だけは、胸のどこかに固まっていた。
「はい、瑛士くんの分」
皿をテーブルに並べ終えて、沙耶が向かいの椅子に腰を下ろす。
スパークリングワインの栓を抜くと、ポン、と小気味よい音が部屋に響いた。
「じゃ、改めて」
二つ並べたグラスに黄金色の液体が満ちていく。
「沙耶、誕生日おめでとう」
「ありがとう」
グラスを軽く合わせて、一口——。
炭酸と爽やかな甘さが喉を滑り降りていく。
「どう? ハンバーグ」
「美味いな。……これ店に出せるレベルだよ」
「それ、いつも言うよね?」
「本当にそう思ってるよ、沙耶のハンバーグは美味い」
「嬉しい……。あのね」
「ん?」
「来年もさ、その次の誕生日も……
こうやって一緒にご飯食べられたらいいなって、ちょっと思ってた」
沙耶は幸せそうに笑みを浮かべた。
そんな他愛のない言葉を交わしながら、穏やかな時間が流れる。
ナイフがお皿に当たる音、時々、窓の外を走る車の音。
テレビはつけていない。
その代わりにBGMとして流しているのは、昔二人でよく遊んだゲームのサントラだ。
「ねぇ」
「うん?」
「瑛士くんてさ——」
フォークを持ったまま、沙耶は少しだけ言葉に詰まった。
「この先もずっと……ゲーム作ってるの?」
「……たぶん、そうだと思う」
即答に近い返事だった。
「だよね」
「うん。好きだし……他に、したいことも思いつかない」
沙耶は、少しだけ視線を落としたあと、またいつものように笑った。
「じゃあ、身体だけはちゃんと大事にしなきゃね」
「それも、いつも言われてる気がする」
「事実だからしょうがないじゃん」
そんな、この先の「未来」を意識した会話の端々。
そこには、言いたくても簡単には言えない思いが込められているのを感じる。
(ああ、今日こそは……俺の方からちゃんと言ったほうがいいんだろうな)
『結婚……しようか……』
瑛士の胸の奥で、決意の言葉が形になりかけた、その時——。
テーブルの上で、瑛士のスマホが震えた。
仕事用チャットの通知だと言うことは、音だけで分かった。
最初は気づかないふりを決め込もうと思っていたが、こう何度も鳴るのは、無視できない何かが起こった、ということだ。
嫌な汗が背中をつたう。
「……ごめん。ちょっと見させて」
画面を覗き込むと、サーバー班のグループチャットに、緊急マーク付きの通知がゾッとする勢いで連投されていた。
《至急:有償アイテム効果の反映不具合》
《消費されるのに付与されない報告が多数》
《付与ログが薄い。表示だけの可能性もあるので切り分け中》
《SNSで「金返せ」増加。スクショ拡散》
《チーフ判断が必要です。通話よろしいですか》
(……最悪だ)
そこには想定できる中でも、一番目にしたくないワードが並んでいた。
ユーザーのお金が絡む不具合は、「バグりました、直しました」では済まない。
信用ごと吹き飛ぶレベルのトラブルだ。
「会社?」
沙耶の声が、いつもより少しだけ低く聞こえた。
「……うん。ちょっとだけ、電話してきていい?」
「いいよ。ダメって言ったって、するでしょ」
いつかと同じ台詞。
だけど今回は、笑いの感情が混じっていなかった。
瑛士は立ち上がり、キッチン横の狭い廊下に出てから、通話ボタンを押した。
「——榊原です」
『すみません、夜分に。今お時間よろしいですか』
電話の声は予想通り、少し震えていた。
「状況、お願いします」
『今日から販売を始めた有償強化アイテムに対して、《使用すると消えるのに、ステータスが上がらない》という報告が立て続けに来てまして』
「……それ、最悪ですね」
『はい、SNS上でもスクショ付きで拡散されてます。一刻も早く、火消ししないと……』
胃のあたりをぎゅっと掴まれたような感覚がした。
リアルにお金が絡んでいる分、課金周りのトラブルが一番タチが悪い。
「原因は?」
『まだ特定できてません。
サーバー側か、クライアント側か、ロールバックで済むかどうかも……』
また、自分が出なければいけない案件か。
瑛士は目の前が暗くなるのを感じた。
『すみません、本当はお呼びしたくなかったんですが、
イベントを止めるか、アイテム販売を止めるか、
あるいは一旦全部止めるかの判断が、どうしても現場だけでは……』
瑛士はしばし俯いて、考えつく限りの対応策と、その結果を思い描いた。
今直面しているトラブルにも、沙耶に対しても。
「……わかりました」
今ここで「行けません」と言えたら、どんなに楽になることか。
——でもそれはきっと、
瑛士という人間ではない、別の誰かの生き方だ。
「すぐ行きます。それまで、ログと再現手順の洗い出しをお願いします」
『了解しました』
通話を切る。
狭い廊下に、自分のため息だけが広がった。
しばらく天井を見上げてから、リビングに戻る。
沙耶は、フォークを皿の上に置いたまま、こちらを見ていた。
「行くんだよね」
問いではなく、確認の声だった。
「……ああ」
「理由、聞いてもいい?」
「有償アイテムが、バグってるらしい。
ここは会社の信用に関わるところだから、放ってはおけないんだ……」
どんな言葉も、言い訳にしかならないのはわかっている。
沙耶はしばらく黙っていた。
次に彼女が口を開いた時、その声は驚くほど静かだった。
「ねぇ、瑛士くん」
「何?」
「......仕事と私、どっちが大事なの」
怒鳴り声でも、泣き声でもない。
ただ、限界を越えた人間が、最後に確認をするかのような声色だった。
胃の底に、冷たく重い何かが押し当てられるような感覚。
(そう来るよな……)
こんな台詞は、ドラマの中だけのものだと思っていた。
でも、実際に大切な人から向けられると、こんなにも重くて、痛いものなのか。
(まさか、自分が言わせる側になるとは——)
「どっちも大事、っていうのはナシね」
用意したセリフを、先回りされてしまった。
「それ言われたら、たぶん今日の私は、納得できないから」
(どっちも大事に決まってるだろ……)
そう言いたいが、かろうじて踏みとどまる。
ゲームは誰かの時間をもらって、その対価に『楽しさ』を返すものだ。
そのための責任を、自分で選んで背負ってきた。
でも。
目の前にいる彼女からも同じように、
いや、もしかしたらそれ以上に、大事な時間をもらってきたはずだ。
その両方を天秤に乗せて「どっちが大事か」なんて比べられるわけがない。
……はずなのに。
言葉を選ぶ時間が欲しかった。
けれど、サーバーのログは待ってくれない。
「ごめん」
気づくと、口が勝手に動いていた。
「……今は、仕事」
ようやく絞り出したその言葉は、自分でも驚くほど弱々しかった。
沙耶は、ほんの一瞬だけ目を閉じて、ゆっくりと息を吐いた。
「そっか」
それだけ言って、立ち上がる。
皿の上には、食べかけのハンバーグがまだ半分残っていた。
「今日は……ありがとね」
「沙耶——」
「ううん、いいの。わかってたから」
笑っている。
だけどその笑いは、さっきまでと違っていた。
「こうなる日が、いつか来るって」
フォークとナイフを揃えて置き、エプロンの紐を解きながら、彼女は言った。
「瑛士くんが仕事好きなの、知ってるし。そういうところ、好きになったんだし」
「…………」
「でもね、こっちのHPもそろそろゼロなんだよ。
心の中の、大事なところが削られすぎて……もう限界」
軽い比喩のように言われたその一言が、一番刺さった。
こんな時にまでゲームを例に持ち出すな、と言いたかった。
いや、でもそれが一番自分に伝わると思われているということか。
……そんな自分が嫌になった。
「行きなよ、急ぎなんでしょ」
「ごめん……戻ったら、ちゃんと話そう」
「——ゲーム、頑張ってね」
今にも泣きそうな面持ちの沙耶のことは心配だったが——
瑛士は迷いをグッと飲み込んで、オフィスへと急いだ。
* * *
会社での数時間は、いつものようにあっという間に過ぎ去った。
ログの確認。
アイテムの使用タイミングとステータス更新処理の整合性チェック。
一時的な販売停止の判断。
SNSでくすぶり始めている不満の声に対応するための、運営メンバーと文面のすり合わせ。
「DB (データベース)更新が絡んでる可能性があるから、単純ロールバックは危険ですね」
「はい、影響ユーザー数が多すぎます。今日は『補填を行う』というメッセージを出して、明日の昼までに個別ログの解析を——」
「分かりました、責任は僕が持ちます。運営名義で告知を出して、販売は一旦止めましょう」
そんなやり取りを機械的に繰り返しながらも、頭のどこかでは別のログが延々と流れていた。
——ごめん。
——今は、仕事。
——ゲーム、頑張ってね。
気がつけば、時計は午前一時を回っていた。
「……ひとまず、ここまでですね」
「お疲れさまです。ありがとうございました、榊原さん」
「続きは明日の始業からで。今日は各自、少しでも寝てください」
皆に労いの言葉をかけながらも、一刻も早く沙耶の元に戻ろうと、瑛士は急いでオフィスを出た。
* * *
マンションに戻ると、廊下の照明だけがついていた。
リビングのドアを開けた瞬間、違和感に気づく。
——冷たい。
温かな食事の名残りはもう消えていて、代わりに冷えた空気と、わずかな洗剤の匂いだけが漂っていた。
食べかけの料理は片づけられ、皿は綺麗に洗われてシンクに積み重なっていた。
(……静かだ、もう寝てるのか)
視線を横にずらして、瑛士はハッとした。
キッチンの横のゴミ箱には、見慣れたものが乱暴に突っ込まれていた。
沙耶が使っていたシャンプーのボトルと、ボディクリーム。
化粧水の、小さくて可愛い瓶。
そこから、ぎこちなく視線を外し、玄関の方を見る。
さっきは気づかなかったが、靴箱の横に並んでいたはずの彼女のパンプスがない。
(帰ったのか!?)
リビングに戻る。
ローテーブルの上に、小さな銀色の小物が見えた。
沙耶に渡していた合鍵だ。
「……ああ」
目の前が暗転するかのような衝撃を感じて、その場にしゃがみ込む。
だが、瑛士はハッとして、仕事用のPCを確認しに走った。
電源は落ちている。
モニターも、キーボードも、マウスも。
出て行った時のままで、荒らされてはいなかった。
(よかった……)
そうだ、いくら感情に任せても、沙耶は物に当たるような人じゃない。
だが安堵した自分に、次の瞬間、吐き気がした。
彼女の行方よりも先に——真っ先に確認したのが、そこなのか。
沙耶の部屋着がかかっていたはずのハンガーも、空っぽだ。
洗面所の棚からも、彼女のポーチが消えている。
ここで瑛士はようやくスマホを取り出し、通話画面を開くと「沙耶」と表示された名前をタップした。
しかし数コールのあと、ぷつりと音が途切れた。
——着信拒否。
それは分かりやすいほどの、きっぱりとした拒絶だった。
唇が震えた。
でも、不思議と涙は出てこなかった。
(……そうだよな)
瑛士は沙耶に電話をする前に、まずPCを確認しに行った。
その順番を選んだ時点で、二人の関係はとっくに限界を迎えていたのかもしれない。
リビングに戻る。
冷蔵庫を開けると、ラップをかけられた皿がひとつ置かれていた。
中には食べかけのまま残されていたハンバーグと、彩りのいい付け合わせの野菜。
椅子に座り、レンジで温めた皿をテーブルに置いた。
湯気の向こうに、さっきまでの光景がぼんやりと重なる。
人生で最高に幸せな一日になる、はずだった。
そうできる選択肢も、自分には選べたのに——。
フォークを刺して、機械的に咀嚼する。
「……うまい」
誰に聞かせるでもなく、ぼそりと呟く。
食器を片付けて、テーブルを拭く。
椅子を戻す。
いつもの夜と同じように、一人で淡々とこなすルーチン。
最後に、リビングの照明を落とす。
寝室に入ると、瑛士はクローゼットの引き出しを開けた。
小さな紙袋が、そこにある。
中の箱には一度も触れないまま、そっと引き出しを閉じる。
眼鏡を外し、スーツとシャツを無造作に脱ぐと、ベッドに倒れ込んで天井を見上げた。
疲れているはずなのに、頭は妙に冴えていた。
でも、身体はもう起きていられないと言っている。
やがて、ゆっくりと瞼が重くなっていく。
誕生日の夜。
渡せなかった指輪と、二度とロールバックできない一言。
「……ごめん」
誰に向けたのか分からない謝罪を、小さく呟いて。
瑛士は、一人で眠りに落ちていった。
// TODO: Continue in next chapter.
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は……自分で読んでても、ちょっと胸が痛くなってしまう展開でした。
瑛士くん、ごめんよ……w
沙耶の「仕事と私、どっちを選ぶの」も、
瑛士の「今は仕事」も、
どっちも最高に「言っちゃダメ」ワードの二連発でしたね。
そして一度口から出た言葉は、二度とロールバックできません。
次回、瑛士くんはどこまでメンタル復活できる(できるのか?)でしょうか——
お楽しみに!




