相いれない間柄
街の南西部へ。飲食店などが集中する飲み屋街の一角で、そこには行きつけの呑み屋がある。
朱色の暖簾をくぐり、その先にあるのはもはや第二の家ともいえる店。
落ち着いた雰囲気の店構えと、この【地方コロニー】には珍しい本物の木、混ざり物のない唐松からまつでできた温かな内壁と、畳の薄緑色が目に優しい作りとなっていた。
「親父ぃ、酒ぇくれぇ~」入店と同時にそう告げたが、室内はガランとしており、誰もいなかった。
明かりはついている、だからこそ「松ぼっくり」という行きつけの暖簾をくぐってきたのだが──
唖然としていると、二階へと繋がっている奥の階段からトタトタと急ぎ足で降りてくる足音がした。
「いらっしゃいカガチさん!!」
厨房の脇から顔を出したのは栗鼠のような愛らしい少女だった。
「扇ちゃん、おじゃまします」
「今はお父さんいないよ」
「あ、そうなの......」となると、幾分か待たなくてはならないが。と、一つ思いつく。
「じゃあ、扇ちゃんがお酒用意してよ」なんて、冗談交じりに思い付きで行ってみたが、早計だったろうか。
とも思ったが、当の本人は意外にも乗り気らしい。
「いいけど......」提案したこちら側がいくらか驚きながらカウンター席に座ると、見慣れた食器棚が視界にいっぱいに広がった。
棚に並べられた陶器の器やグラスの数々。いつ見ても見惚れるほどの美しさ。金銀財宝などという凡庸な表現をするが、それだけに価値ある品々だとも思う。
「私お酒の銘柄とかあんまり知らないんだけど」覗くと澄ましたにやけ顔が浮かんでいる。
「じゃあ、おすすめでいいよ」いつも頼んでいる芋焼酎【高砂】には、いくつかバリエーションがある。
(緊張もありつつ、か)だから、おすすめをお願いした。憧れとともに、無駄なプレッシャーは掛けたくなかったから。
「それ、なんでもいいって言ってるようなもんじゃん。それが一番めんどくさいんだけど」
「若女将のおすすめが飲みたい気分なんだよ」
「調子のいいこといって、お酒の飲みすぎは体に悪いんだよ」言動とは裏腹に上機嫌である。
子というのは、親の背中を見て成長するというが、本当らしい。扇にとって厨房というのは、それだけに特別な場所なのだろう。
カンカンと、酒瓶同士がぶつかる音、床下にある酒蔵を吟味する音がする。
「そういえばさ。カガチさんって普段はなにやってる人なの?よくうちにくるけど」ギクりと心臓が跳ねた。
未熟ながらに、客を気遣い会話を弾ませようとしたのだろうが、それが今はどうしようもなく痛い。
「説明するのが、難しいな。見せてあげれば、分かりやすいんだけど」
「ふーん」こちらが言いにくそうにしているのを悟ったのだろう。そこからはあえて何も口にはしなかった。
義務的なものとはいえ、純粋無垢なその問いに「根無し草」と素直に答えられるわけもなく、ハハと乾いた笑いを返すことが今できる精一杯のことだった。
と、そんな珍妙な空気を払ってくれたのは、この店の、本物の女将──
「いらっしゃいカガチさん」佐倉さんだった。
「あ、ママ」少し怪訝な顔をする扇が視線を向ける出入口の方。そこには栗毛の長髪をたなびかせた美しい人が立っていた。
「佐倉さん」藍色の市松模様の袴をベージュの帯でくくっている。今までの自堕落で気の抜けた姿勢や口調を反射的に少しだけ、正してしまった。
その明らかに変化した態度に扇はカガチを白い目で遠巻きにみた。本当にさとい子だ。
「扇、変わるわ」そう言われると、不服そうにしながらも、手早く厨房から身を引く。ここの往生際のよさは、すでに何度か経験があるからなのか。
佐倉は厨房へと入っていくと、身支度を手早く済ませる。
と、そこにいたのはまごうことなき女将の姿があった。白い割烹着と長髪の栗毛を桜の意匠の簪で束ねた動きやすい姿で登場した。
「それで、いつものでいいのよね」
「お願いします」そういうと、迷いなく【高砂】の黒。【黒高砂】という普通の【高砂】よりもキレのよい辛口であるいつもの酒を選び抜き、半透明な朱色のグラスに酒を注いでいく。「はい」と手渡されたそこにはいつもの一杯とお通しとして、きゅうりの浅漬けを小鉢で出してくれた。
一口、口になじませるとズキズキと定期的に響いていた痛みが馴染む様に和らいでいく。
「あんまり飲みすぎないようにね。心配になるわ」親子でおんなじことを言われてしまった。しかもおんなじ顔で。
「ここのお酒が旨すぎるのがいけない」
「そんな屁理屈並べても、自制できなきゃだめよ」後ろのテーブル席で膨れていた扇が好機とばかりに叱責する。
可憐な顔をして手厳しい。飲み屋の女将と娘のくせして酒に対して人一倍に厳しい。
「親父ィ帰ってきてくれよ。敵しかいねぇ」覇気のない嘆きに、酒を抱えたままカウンターに突っ伏していると、厨房の脇から巨大な岩が生えてきた。
「お前の味方になったつもりゃねぇぞ」頭にねじり鉢巻き、桜花弁の入った甚平を着こんだ岩のような岩男。
「パパお帰り」
「お帰りなさいあなた」
「おう」この無骨な男が、この呑み屋「松ぼっくり」の店主であり、佐倉の夫、扇の父である松が現れた。
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