〇九六 視察という目的
イスタルに来て一ヶ月、穏やかな日々が続いている。
「あーあ」
マーヤは精鋭養成所施設内の木陰のベンチに座り、空を見上げ嘆いていた。
マーヤの隣にはシールが座っていて、マーヤを優しく見つめている。
イスタルに来た最初の頃はワクワクしながら街を歩き、養成所施設内にいるときも親衛隊の動きを観察するなどして気を張っていたのだが、一ヶ月経ってもラビッツが現れる気配はなく、街を歩いていてもまったくタヌやラウルに会える気がしなくなって来ると、ただ無為に時間が過ぎていくことに焦りを感じるとともに、目の前の何もない時間に、どうしていいかわからないもどかしさのようなものを感じているのだった。
二人がイスタルへ来て驚いたことは、武術の教官たちが皆二人のことを知っていたことだった。どこの都市よりも修行が厳しいラドリアにおいて、女性であるにも拘わらず最上級のクラスまで上り詰めた二人の名を知らない者はいない、ということらしい。
だからこそ、ダレロから二人の派遣を打診されたイスタルの教官たちは、喜んで二人を受け入れたのだった。
シールとマーヤの二人がイスタルに来た表面上の目的は二つある。
一つはイスタルの視察で、もう一つは武術の授業において、教官と共に生徒たちに稽古をつけることだ。
だから二人の一日といえば、午前中は毎日、剣術、槍術、弓術の授業で生徒たちを教え忙しくしているのだが、午後は視察のための時間ということで自由、つまり暇だった。
今は昼食後の午後の時間で、二人はこれからどう過ごそうか考え中といったところだ。
「私たち何しに来たんでしょーねー」
マーヤは口を尖らせ、不満を口にする。
そんなマーヤをシールは微笑ましく見る。
すると、
「お姉ちゃん、なに笑ってるのよ」
マーヤは眉間に皺を寄せ、シールに突っかかるのだった。
「だって、マーヤが可愛いから」
シールがそんな言い訳をすると、マーヤはわざと目を大きく開いて、さっきよりも大袈裟に口を尖らせ抗議する。
「この顔のどこが可愛いっていうのよ」
マーヤはそう言いながら、目をパチパチさせる。
マーヤはやっぱり面白い。
今ではシールに負けず劣らず美しいと評判になっているくらいなのに、マーヤはやっぱりマーヤだった。
「あはは」
シールは思わず声を上げて笑ってしまう。
そんなシールを見てマーヤも笑う。
「やだ、お姉ちゃん、笑い過ぎ!」
マーヤはシールの肩を叩き、
「ほんとに私たち何しにきたんでしょーね」
シールがマーヤの口真似をすると、
「くくく」
二人で一緒になって笑うのだった。
ひとしきり笑って、笑い疲れたマーヤは素に戻って呟いた。
「でも、正直、こんなに何もないなんて思ってなかったなぁ」
そう言いながら、マーヤは足を軽くバタバタとさせる。
「私もよ」
シールもこの一ヶ月の何もない時間を思って、しみじみと相槌を打つ。
「もうね、私の予定ではね、着いた翌日にはラビッツが現れて、アク様と戦うことになって、そこに私たちが颯爽と現れて、ラビッツと一緒になってアク様をやっつけてたはずなの」
マーヤは両手で剣を握る真似をして、それを上段からさっと振り下ろす。
「そうね。私もそう思ってた」
シールもイスタルに来るまでは血生臭いことを想像していたから、この静かな毎日に拍子抜けしているのはマーヤと同じだった。
「でしょ?」
マーヤはシールの顔を覗き込む。
そのマーヤの眼差しを受け止め、
「まぁ、でも、何もないのはいいことよ」
シールは自分を納得させるかのようにそう応えるのだった。
そのシールの表情は、なんというか少し寂しくもあり、安らかでもある。
会えない寂しさと、無事であることの安堵感。
シールの表情にはその複雑な思いが表れていた。
「あーあ、つまんないなぁ」
マーヤが足元の地面を見つめて嘆くと、
「いいじゃない。このまま何も起こらず、親衛隊がラドリアへ戻るのが一番なんだから」
シールは慰めるように優しく声をかける。
「そりゃそうだけどね」
マーヤは口をへの字にしてシールに顔を向ける。
マーヤのその顔。
シールを笑わせる気だ。
ふっとシールは笑う。
「そんな顔しないの」
そう言ってマーヤの頬をツンツンとつつく。
「だってさ、タヌに会えるかもって期待してたから・・・」
マーヤは寂しそうに言い、
「それはわかるわ」
シールはそれに同意する。
「お姉ちゃんも会いたいでしょ」
マーヤが目を向けると、シールはその視線を逸らし、
「そうね。でも、二人が無事なのが一番よ」
俯きがちにそう答え、それに納得するように小さく頷くのだった。
そのシールの仕草に、マーヤは感じるものがあった。
すっとシールの寂しさにも似た感情が、マーヤの心に入り込んできたのだ。
「そうよね。それは私もわかってるの。でもね、うーん、どうしてもタヌに会いたいの。今会えなかったら、一生会えない気がするから」
マーヤはそう言って涙ぐむ。
あの二人がイスタルにいることがわかっていて、自分たちがこうして会いに来てるというのに、それでも巡り会えないのなら、もう二度と会えないんじゃないか・・・
そう思うと、やっぱり辛くなる。
「マーヤ、大丈夫よ。今会えなくても、いつかきっと会えるわ」
シールが優しく声をかけると、
「そうだといいんだけどなぁ」
マーヤはそう呟き、不安な気持ちを吐き出すように「ふーっ」と大きく息を吐いた。
「そんな後ろ向きなこと言うのはマーヤらしくないわよ。大丈夫。アク様にさえ見つからなければ、二人が捕まることはないし、捕まらなければ、いつか、きっと会える」
シールがそう言ってマーヤを元気づけると、マーヤは小刻みに頷き、
「会える。うん。生きてれば、きっと。そうだよね」
マーヤは自分自身に言い聞かせるようにそう言って、シールの言葉を受け入れた。
受け入れると気持ちの切り替えが早いのが、マーヤのいいところだ。
後ろ向きは私らしくない・・・
そう思ったら、前向きになるしかない。
「お姉ちゃんの言う通りなんだよなぁ。何もないのはいいことなんだよね。アク様がここにいる間はじっとしてるのが一番ってことだよね」
マーヤはそう言って笑顔をみせる。
マーヤのその笑顔は、いつものマーヤの笑顔だった。
「そう。だから、今の状態が一番いいの」
シールが笑顔で頷くと、
「でも、今すぐにでもラウルに会いたいでしょ?」
そう言ってマーヤはニッと笑い、シールの顔に自分の顔をぐっと近づけた。
目の前にあるマーヤの悪戯っぽい笑顔。
シールはその笑顔に癒されるような気がした。
「も、ち、ろ、ん、よ」
シールは一音一音をはっきりと口にしながら、おでこを押してマーヤの顔を遠ざける。
「正直でよろしい」
マーヤがふんぞり返ってそう言うと、
「ありがとうございます」
シールはわざとらしく感謝の言葉を述べ、丁寧に頭を下げるのだった。
木陰のベンチに座る二人の上から木漏れ日が射していて、そこだけ柔らかな光に包まれ、二人はキラキラと優しく輝いてみえる。
落ち葉がひらひらと舞い降りてきて二人の目の前に落ちると、シールは何かを閃いてマーヤに視線を向けた。
「なに?」
マーヤはキョトンとする。
そんなマーヤにふっと笑みを浮かべ、
「ダレロ様とトマスへのお土産を探しに市場に行かない?」
と、シールは誘う。
「なんで?」
マーヤには訳がわからない。
たしか、ダレロ様へのお土産はイスタル産のミコンとハチミツだったはず・・・
いつ帰るか分からないのに、今買って大丈夫なはずがない。
「ダレロ様に腐ったミコンを食べさせる気?」
マーヤが問うと、
「ぷっ」
とシールは吹き出して笑う。
「あはは。そんなんじゃないわ。あくまで下見よ、下見」
シールが説明すると、
「なるほどぉ」
マーヤは左手の手のひらをポンッと右手の拳で叩いて納得した。
「どう?今から行かない?」
シールが改めて誘うと、
「もちろん、いいよ!」
マーヤは快諾し、
「で、どこの市場?」
と尋ねた。
イスタルの市街地には東西南北、四つの市場があってそれぞれに特色があるからだ。
「今日は南かな。でも、市街地の市場はあくまで下見にして、実際に買うのはムニム市場ね」
シールはさらりとムニム市場の名を口にした。
マーヤはムニム市場と聞いて怪訝な表情を浮かべる。
「ムニム市場?」
マーヤが聞き返すと、
「うん。視察も兼ねてね。トマスへのお土産も烏人の彫った置物だったでしょ。一石二鳥とはこのことだとは思わない?」
シールはそこがお土産を買うには最も相応しい場所とでも言わんばかりに〝一石二鳥〟を強調するのだった。
シールの明るい表情とは対照的に、マーヤの表情は浮かない。
「そこ行くの?」
マーヤは気落ちした声で念を押して尋ねる。
マーヤの表情の変化にシールは気づいていたが、そんなことお構いなしに、
「視察というからにはムニム市場は外せないわ。新世界橋も見ておきたいしね」
と、明るく答える。
シールの言い分は当然だけど、でも、マーヤは市街地から離れるのが嫌だった。
「でも、遠いわよ。行くとなったら一日がかりになっちゃうし。私たちが市街地から離れてる間にあの二人に動きがあったらどうするの?」
マーヤはそう言って納得しない。
マーヤの気持ちもわからなくもない。
でも、今更ラビッツが何か行動を起こすとは思えなかった。
この一ヶ月の何もない時間がそれを証明している。
「親衛隊がいる間は何も起こらないわ」
シールがそう答えると、
「断言できる?」
マーヤはそれを疑い、それに対し、
「断言するわ」
シールは自信に満ちた表情できっぱりと言い切った。
シールのその強い口調、揺るぎない眼差しに、
「そっかぁ」
マーヤは渋々納得するのだった。
「マーヤだってそう思うでしょ」
シールが同意を求めると、
「ええ、思ってますよ、何となく、それは」
マーヤはいじけた感じで応え、
「ふふふ」
と、シールは笑う。
「でもなぁ・・・」
往生際の悪いマーヤに、
「私たちの表向きの目的はあくまでも、イスタルの視察よ。イスタルって言ったらやっぱり新世界橋だし、ムニム市場だと思うの。私たちをイスタルに派遣したダレロ様のためにも、ムニム市場は視察した方がいいわ。それに、ドゴレ様も行ったほうがいいって勧めてたし、行く価値はあるんだと思う」
シールはムニム市場に行くことの意義をそう説明する。
ダレロ様の顔を立てるためにも、イスタルの視察をちゃんとやって、成果を報告しなくちゃ・・・
それがシールの責任感だった。
ちなみに、イスタルに着いた翌日に二人はドゴレに挨拶に行き、
「ムニム市場は絶対に行ったほうがいいぞ」
と、強く勧められていたのだった。
しかし、そのとき二人はムニム市場に何かあるとは思いもしなかった。
だから二人にとってムニム市場は未だにお土産を買う場所であり、視察の対象でしかなかった。
「ムニム市場かぁ・・・たしかに、ドゴレ様はしつこくムニム市場は見る価値あるって勧めてたし・・・新世界橋も見る価値あると思うし、お姉ちゃんが言うように、あの辺は兎人だけじゃなくて、烏人もいっぱいいるみたいだから、視察にはもってこいだよねぇ・・・」
シールの説明を聞いてマーヤも決心がつきそうになるが、でもやっぱり心のどこかに〝もしかしたら・・・〟という思いが残っていて気持ちに踏ん切りがつかない。
それがマーヤの最後の抵抗だった。
シールはマーヤの揺らぐ思いを断ち切るように、
「マーヤの気持ちはわかるけど、視察はちゃんとすべきよ」
そうきっぱりと言った。
シールの毅然とした態度に、マーヤも頷くしかなかった。
「うーん、そうよね、そうだよね」
自分にそう言い聞かせるマーヤに、
「ね?」
シールは笑顔でひと押しする。
「うーん」
マーヤの答えは決まっている。
あとはちゃんと声に出して返事をするだけだった。
「マーヤらしくないよ」
シールのその一言で、マーヤの気持ちが吹っ切れた。
「えーい、わかったわ、わかったわよ。帰る日が決まったら、ムニム市場に行こう!」
マーヤはそう言って吹っ切れた笑顔をみせた。
「ありがとう」
シールはしみじみと礼を言い、マーヤの手を握る。
そのシールの手の温もりが、マーヤの心に優しく沁みるのだった。
「駄々こねてごめんね」
マーヤは素直に謝り、それから、
「ここにいる間に、タヌに会えますように・・・」
そう願い事をして空を見上げた。
見上げる空は青空で、空高く、一羽の鳥が右から左へ清々しく横切っていくのが見えた。