〇九三 ちっぽけな正義感
テムス農園での朝の仕事を終え、タヌとラウルはヒシリウ川(サイノ川)の土手に座って景色を眺めていた。
薄曇りの空の所々に、青空が覗いていた。
対岸のサムイコク側の岸には、何羽もの水鳥たちの姿が小さく見えている。
穏やかな時間。
この日はテムス夫妻が市場で野菜や果物を売ることになったので、二人は、つまり、暇だった。
それは、いつも一生懸命働いてくれる二人を休ませたいという、テムスの優しさでもあった。
「こうして何も考えないで過ごすのも、悪くない」
タヌがそう言うと、
「嘘つけ」
ラウルは呆れ顔でツッコミを入れる。
「うん?」
タヌが首を傾げると、
「朝からずっと、何か考え事をしてるように見えるんだけど」
ラウルはその心を見透かすようにタヌを見、片頬に笑みを浮かべた。
図星だった。
「ラウルには敵わないや」
タヌは苦笑いを浮かべる。
「俺にはお見通しだ」
ラウルがそう言うと、タヌはため息をつき、
「やっぱり辛いんだ。蛮兵たちが罪のない人たちを襲ってるっていうのに、何もしないっていうのは」
と、今の気持ちを言葉にし、その顔に苦渋の色を浮かべた。
タヌの気持ちはよくわかる。
ラウルも同じ気持ちだ。
「タヌの気持ちはわかる。でも、服従の儀式までは大人しくしてるってのが、ミカル様からの依頼だし、俺たちはそれを受け入れたわけだからね」
そう応えてラウルもため息をつく。
「うん、わかってる。感情に流されちゃだめだね」
タヌは素直にそう返事を返した。
—感情に囚われないこと。
これは、父ナイから教わった術の基本だ。
まだまだ修行が足りないな・・・
タヌはふーっと長い息を吐く。
あの夜、ドゴレからの情報とミカルからの伝言を伝えると、バケじぃは目を閉じ、しばらく思案した後に目をかっと見開くと、
「ときは来たり!」
と声を張り上げ、ビシッとそれを告げたのだった。
それからバケじぃは目の前にいる、タヌ、ラウル、そして十人のリーダーたちに向かってニヤリと笑ってみせた。
「バケじぃ、かっこつけてんじゃねぇよ。意味わかんねぇ」
ギルが冷めた眼差しでケチをつけると、
「うるさい!お前はいちいち茶々を入れるんじゃない!」
バケじぃはそう言い返し、
「タヌ、ラウル、お前たちならわかるじゃろう」
と二人に目を向けた。
「うん」
タヌは頷き、
「いよいよ、ラドリアを目指すんだね」
ラウルはそう答え、その目を輝かせた。
「えっ」
ギルを始めとしたリーダーたちはそのやり取りを聞いて目を丸くした。
「どういうことだ」
ギルが尋ねると、
「服従の儀式までの間、ラビッツの行動を控えるという、ミカルからの依頼は喜んで受け入れる。じゃが、こちらがミカルの依頼を受け入れる条件として、ミカルにはこちらからの要求を呑んでもらう」
バケじぃは真面目な顔をして告げたのだった。
「要求?」
ギルが怪訝な眼差しを向けると、
「そうじゃ。服従の儀式こそ、我々霊兎族が決起するにふさわしい舞台なのじゃ」
バケじぃは重々しい口調でそう言い、
「俺たちラビッツはそこで反旗の狼煙を上げ、護衛隊にも一緒に立上がってもらうってことだよね」
と、タヌが補足した。
護衛隊と一緒に立ち上がる。
まさに一大事だった。
「おっ・・・」
ギルは言葉を失う。
「そうじゃ。ミカルが二人と約束したことを、果たしてもらうんじゃ」
バケじぃはそう言ってタヌとラウルに目を向ける。
タヌは黙って頷き、
「ミカル様もそのつもりだと思う」
ラウルはそう言ってミカルに期待した。
「すべての都市の護衛隊が立ち上がるか、それはわからぬが、それでも、ここしかわしらが立ち上がる舞台はない」
バケじぃはそう訴え、
「俺もそう思う」
「俺もだ」
タヌとラウルの二人はそれに同意した。
ドゴレ率いるイスタル護衛隊と接触したギル、ヒーナ、グラン、パパンの四人には思い出す光景があった。
—我々の命をこの二人に捧げようではないか!
タヌとラウルを前にしてドゴレはそう叫び、
—おおー!」
隊士たちは一斉に胸の前で拳を握り締め、雄叫びを上げたのだ。
そのとき感じた誇らしい気持ち。
「大丈夫だ。護衛隊はみんな立ち上がるさ」
ギルは自信満々にそう言う。
バケじぃは広間に集まるリーダーたちを見渡し、
「服従の儀式がこの世界を終わらせる引き金となるのじゃ。そして我々ラビッツは、この時を待っていたのじゃ。よって、蛮兵襲撃は終了じゃ。そして服従の儀式の日に備え、ラビッツの活動は訓練のみとする」
と、断固とした口調でその方針を告げた。
「蛮兵たちが兎人を食ってても、何もしないってことか?」
ギルがぶっきらぼうに尋ねると、
「そういうことじゃ」
バケじぃは眉間に皺を寄せた真剣な眼差しでギルを見、ゆっくりと頷いた。
それも大きな仕事をするためなのだ。
「仕方ねぇな」
ギルは素直にその方針を受け入れ、ギル以外のリーダーたちにも異論はなかった。
しかし、ただ一人、ヒーナだけは納得しなかった。
「じっとしている間、罪のない人たちが何人殺されるんだろうね」
ヒーナがその不満を口にすると、
「目先の罪悪感で、大局を見失ってはならない」
バケじぃは厳しくヒーナを咎めた。
そんな言葉でヒーナは納得しない。
「でもさ、目の前で襲われている人がいても助けちゃいけないんだろ。見殺しにしろってんだろ。そんなひどいこと、どうしてできるんだよ!」
ヒーナは言い返しながら感情を高ぶらせ、その怒りの感情をバケじぃにぶつけていた。
バケじぃは顔を歪めてヒーナを怒鳴りつける。
「でももへったくれもない!ラドリアから親衛隊が派遣されて来るのじゃ。ただでさえ優秀なラドリアの兵士の中でも、精鋭を集めた親衛隊じゃ。しかもその親衛隊を率いているのが、悪名高きあのアクなのじゃ。迂闊なことはできないぞ。万に一つでも、我々が親衛隊に見つかることがあってはならんのじゃ。もし、親衛隊に見つかることがあれば、ラビッツはそこで終わりじゃ。今までのお前たちの努力も水の泡じゃ。ヒーナ、よく考えよ。わしらは何の為に今まで血の滲むような努力をしてきたのか・・・蛮兵を襲撃するのは、その先にある決起に向けての準備に過ぎなかったはずじゃ。目先の罪悪感に囚われて、ラビッツが壊滅させられることがあるのなら、それこそ本末転倒なのじゃ。そして今、我々が決起する千載一遇のチャンスがやってきたのじゃ。それが服従の儀式じゃ。このチャンスを逃してはならんのじゃ。お前がラビッツの一員でなければ、お前の命だ、好きにすればいい。しかし、お前はラビッツの一員だと言うことを忘れてはならない」
そのバケじぃの叱責の言葉を、広間にいるリーダーたちは深く肝に銘じた。
しかし、それでもヒーナは納得しなかった。
「目の前の一人の命も救えないで、世界を変えられるわけないだろ!」
ヒーナは涙目でそう言い返し、バケじぃを睨んだ。
バケじぃは困惑した表情でふーんっと鼻から息を大きく吐き、温かな眼差しでヒーナを見る。
「ヒーナ、お前の気持ちは痛いほどわかる。しかし、私情に駆られて千載一遇のチャンスを逃してはならんのじゃ。お前のそのちっぽけな正義感は捨ててしまえ」
バケじぃが穏やかに諭すと、ヒーナは落ち着きを取り戻し、黙って俯くのだった。
そして、どうにもならないことを悟ったヒーナは、
「わかったよ」
そう不機嫌に応え、納得できないまま、バケじぃの方針を受け入れたのだった。
タヌにはヒーナの気持ちが痛いほどわかった。おそらく、ラウルにしても、ギルにしても、その場にいる誰もがヒーナと同じ気持ちだったろう。
見て見ぬ振りなんかしたくない。
そのヒーナの純粋さが、彼女の魅力でもあった。
それが、ヒーナの優しさだった。
しかし、バケじぃが言った通り、感情に流されて大局を見失ってはならないのだ。
タヌはヒーナに声をかけた。
「ヒーナ、その気持ちは大切にしていいと思う。でも、俺たちが目指しているのは、その先の世界だから・・・」
タヌのその優しい眼差しと温かみのある声に、ヒーナは堪えきれなくなる。
「タヌ・・・」
ヒーナはタヌの胸にしがみつき、肩を震わせ泣いた。
タヌはそんなヒーナの背中をぽんぽんと一定のリズムで優しく叩き、泣きやむのを待つのだった。
あれから一週間、ラビッツはイスタルから姿を消した。
そして、タヌとラウルは毎日テムス農園で汗を流し、二日に一度は市場で野菜や果物を売っているのだった。
「ヒーナ、大丈夫かな」
タヌは川面を流れる枯葉を目で追いながら、そう呟いた。
「気になるのか」
ラウルが訊くと、
「うん。繊細な娘だから」
タヌは心配そうな表情に優しい笑みを浮かべて頷いた。
そんなタヌの優しさは、タヌにとって唯一の弱点なのかも知れない。
ラウルはそう思った。
「まぁ、ギルもついてるし、大丈夫だろ」
ラウルがあっさり言うと、
「そうだね」
タヌは笑顔で相槌を打つのだった。