〇九〇 クミコの手料理
唐突に、
「アジ、お願いがあるんだ」
と、タケルが言った。
ふたりはウオチとセントラルを結ぶ街道の見回りを終え、隊舎に戻るところだった。
馬上の二人。
突然なんだろう・・・
「なに?」
アジは隣で馬を歩かせるタケルの顔を見て、タケルの何かを企んでいるその眼差しに身構えた。
アジが警戒するのを楽しむように見ながら、
「明日、クミコと一緒にセントラルに行ってもらえないか」
タケルはさらりと言う。
〝クミコと一緒〟と聞いて、アジはなんだか恥ずかしい気持ちになる。
その恥ずかしさを隠すために、
「うん?」
アジは惚けて聞こえない振りをした。
タケルはアジの顔が少し赤くなっているのを見て、その純朴さに、友として、そしてクミコの兄として好感を持った。
「セントラルの元老カクジ・サムラ様に、父上からの手紙と贈り物を届けに行くんだけど、クミコを一人で行かせるわけにはいかないからさ。アジに護衛として一緒に行って欲しいんだ」
タケルは爽やかに用件を伝えた。
ちゃんとした用なら恥ずかしがることはない。
アジは落ち着きを取り戻し、
「そうなんだ」
と相槌を打ち、
「嫌か?」
タケルが尋ねると、
「嫌なわけないだろ。クミコは妹のような存在なんだから、しっかりと護衛役を務めさせてもらうよ」
と、いつもの調子で応え、タケルに笑顔をみせた。
これが昨日の話で、今朝早くアジとクミコは幌馬車に乗ってセントラルに向かった。
幌馬車は人を乗せるためのもので、荷台は清潔で、殺虫効果のある植物で編まれたマットが敷かれていて、横になって休めるように枕も用意されていた。その荷台に、この日はカクジ・サムラへの贈り物として、霊兎族の高級なジャムを始め、イスタル産の野菜や果物が積んである。
荷台には贈り物の他に、クミコが持ってきたバスケットが置かれていて、馬車の揺れに合わせて小刻みに揺れているのだった。
クミコは御者台でアジの隣に座ってニコニコしていた。
「クミコ、後ろでのんびり休んでてもいいんだぞ」
アジが気遣うと、
「いいの、ここで」
クミコは何か言いたそうな目でアジを見つめるのだった。
アジが首を傾げ、
「どうした?」
と尋ねると、
「これからずーっと、私はアジの隣に座るの」
クミコはそう言って茶目っ気のある笑顔をみせる。
アジはその無邪気な笑顔に、ドキッとする。
クミコって今までこんなこと言ったっけ?・・・
アジは首を傾げながらも、悪い気はしなかった。
「そっか。俺もクミコが隣にいると嬉しいよ」
アジも素直な気持ちを口にした。
「でも、こうやって二人きりで出かけるのって久しぶりじゃない?」
クミコはそう言ってアジの横顔を嬉しそうに見つめ、
「そうだな。二人きりってあまりないもんな」
アジは手綱を操りながら、前を向いて応える。
空は青く、雨が降る気配は微塵もない。
そよ風が二人の頬を撫でていく、その感触が心地いい。
「昨日はあまり眠れなかったのよ。わくわくして、なんだか子供の頃に戻ったみたいだったわ」
クミコは少し恥ずかしそうに言う。
アジはクミコをチラッと見て、その笑顔に心が癒やされる思いがした。
「俺もなんか寝付けなかった」
アジがそう応えると、
「へぇー」
クミコは嬉しそうにアジの顔を覗き込むのだった。
二人を乗せた馬車は、ガタゴト、ガタゴト、適度な速度でセントラルへ向かう。
お昼前にセントラルについて、クミコは手紙をカクジ・サムラに手渡し、アジは荷台に積んだ贈り物をサムラ家の使用人に渡した。
「食事をしていくがいい」
カクジ・サムラはそう言ってくれたが、クミコはそれを丁重に断った。
なぜって?
それは、アジのために昼食を作って来たからだ。
用を済ませると、二人はセントラルの市場を軽く見て回ってから帰路についた。
途中、道を外れ、見晴らしの良い草原で遅めの昼食を取ることにした。
敷物を敷いて、二人はその上にバスケットを挟んで向かい合って座る。
クミコがバスケットに被せてある布を取ると、ふわっと温かみのある肉の香りが広がった。バスケットの中身は蓮の葉に包まれた料理がいくつかと、ライ麦パン、デザートのオランジだった。
「美味しそうないい匂いだ」
アジがそう言って喜ぶと、
「これ、全部、私が作ったの」
クミコは恥ずかしそうに、それらの料理がすべて自分の手作りだということを伝えた。
「うそっ」
アジは素直に驚いた。
今までクミコの手作りといえば、畑仕事のときに食べるライ麦パンくらいなものだったからだ。
「凄いな」
アジは改めてクミコの手作りの料理を嬉しそうに眺めた。
クミコは手料理をアジに食べてもらうのが初めてのことだったので、少し緊張して笑顔が強張っている。
「アジのために作ったのよ」
クミコは頬を赤らめて想いを伝え、
「クミコの手料理が食べられるなんて、俺はついてるな」
アジは正直な思いを口にした。
それを聞いて、クミコは嬉しそうな顔をする。
クミコは蓮の葉の包みをバスケットから取り出して敷物の上に広げた。
包みの一つは、タムネギとキャブツを牛肉と一緒に炒めて香辛料で味付けした物で、ライ麦パンと一緒に食べると、その肉の旨味と野菜の甘味がライ麦パンの酸味と絡まって、それはもう絶品だった。
「美味い!」
アジは口をもぐもぐさせながら目を大きく開き、その美味しさを表現してみせた。
クミコはアジの喜ぶ顔を見て嬉しくなる。
「よかった」
そう言って、クミコはほっとしたような笑みを浮かべるのだった。
「ほんと美味いよ。クミコが焼いたパンはもちろん美味しかったけど、クミコがこんなに料理が上手だなんて思わなかった」
アジはそう言いながら、パクパクとクミコの手料理に舌鼓を打った。
アジはなぜだか子供の頃一緒に遊んでいたクミコの姿を思い出していた。
あの小さくて可愛らしい女の子がいつの間にか大人になって、自分のためにこうして美味しい料理を作ってくれていることが不思議だった。
「そう言ってもらえると嬉しいわ」
クミコははにかみながらそう応える。
「テドウ家では料理は使用人が作るものだと思ってた。うちがそうだから」
アジが何気なく言うと、
「私、料理を作るのは好きなの」
クミコはそう応えて微笑んだ。
そのクミコの笑顔に、アジは温かい気持ちになる。
「なんだか、俺、幸せだなぁ」
アジはそう言って牛肉の炒め物とライ麦パンを一緒に口に詰め込んだ。
そして、
「ぶっ」
勢いよく詰め込んだせいで、それを吹き出しそうになる。
「アジったら」
クミコはそんなアジを見て幸せそうに笑うのだった。
他にも、リモンで風味を付けた鶏肉のカリカリ焼きと温野菜サラダがあり、どれもこれも美味しかった。
「あー、お腹一杯」
アジはクミコの料理を平らげ、満足そうな顔をする。
「アジに気に入ってもらえて良かった」
クミコは素直にそれを喜んだ。
アジが美味しそうに自分の手料理を食べたことが、クミコには何より嬉しかった。
「ありがとう。本当に、本当に美味しかったよ」
アジは心からの感謝の気持ちを込めてそう言い、自分のお腹を満足そうに擦ってみせた。
「どういたしまして。次はもっと頑張るわね」
クミコは幸せそうに微笑む。
アジの目に映るクミコは、今まで思っていたよりもずっと大人びて見えた。
アジにはクミコが眩しく見えた。
アジの胸は高鳴り、そんな自分自身にアジは狼狽えてしまうのだった。
草原にそよそよ吹く風は穏やかで、降り注ぐ陽射しは柔らかで、二人で過ごすこの時間の大切さが、しみじみとアジの胸に沁み渡っていく。
デザートのオランジの皮を向きながら、クミコは勇気を出してアジに尋ねた。
「アジ、何か聞いてる?」
クミコが意味しているのは、二人の将来のことだ。
「何かって何?」
トノジから何も聞かされていないアジには、何のことだかわからない。
「何かって、大切な何かよ」
クミコは頬を赤らめ、じれったそうにアジを見る。
アジは何のことだか検討もつかないので、キョトンとした顔でクミコを見つめるだけだった。
「いや、何も聞いてない」
アジがそう応えると、クミコはアジが二人の将来について何も聞かされていないことを知る。
クミコの表情が微かに曇る。
「そうなんだ・・・」
クミコは少し寂しそうに呟いてから、すぐに思い直し、
「なんでもない。でも、私にとっては素敵なことなのよ」
そう言って笑顔をみせた。
その笑顔にアジはピンと来た。
クミコの手料理を食べた後だ、すぐに想像はついた。
「えっ、まさか、縁談が決まったとか」
アジは冗談交じりにそう言い、言いながらショックを受けている自分に気づくのだった。
「そうかも」
クミコは悪戯っぽく返してアジを見る。
「そっか。それなら素敵だな」
アジは笑顔でクミコを祝福しながらも、クミコの目を見ることができなかった。
アジの顔が明らかに引きつっているのがクミコにもわかった。
クミコは狼狽えるアジの様子がなんだか嬉しくて、胸がキュンとする。
その引きつった笑顔が自分への想いを表しているようで、今すぐにでもアジに抱きつきたい気持ちだった。
「クミコが幸せになるなら、俺は嬉しいよ」
アジはそう言って微笑み、クミコを優しく見つめる。
そのどこか寂しげで温かな眼差しに、クミコはホロリとしてしまう。
「ありがとう、アジ」
クミコはしみじみと感謝の言葉を口にしていた。
この人と共に生きたい。ずっと、ずっと、一緒にいたい・・・
クミコは心からそう思った。
アジ、大好き・・・
クミコはそう心のなかで呟いて、アジに笑顔をみせた。
アジはクスッと笑うと、
「クミコ、涙拭けよ」
そう言って、クミコに手拭いを差し出した。
言われて初めて、クミコは自分が泣いていることに気づいた。
「あはっ、なんで涙出てくるんだろう」
クミコははにかみながら頬を伝う涙を拭う。
そんなクミコをアジは愛しいと思った。
激しく胸に込み上げてくるものがあった。
今まで見ないようにしてきたクミコへの想い。
その想いをぐっと堪え、
「クミコ、大丈夫だよ。不安もあるかも知れないけど、クミコなら絶対に幸せになれるよ」
アジは爽やかな笑顔でクミコを励ました。
「アジったら、私はそんなこと心配してないわ」
クミコが頬を赤く染めながら可愛らしくそう言い返すと、
「わかってる。何も言うな」
何も知らないアジは、そう言って深く頷いてみせるのだった。