〇〇八 授業
物音一つしない朝の道場。
剣術の授業は精神統一から始まる。
生徒たちは背筋をピンと伸ばした姿勢で胡座をかいて石床に座り、胸の前で手を合わせて目を瞑っている。
その生徒たちの前を行ったり来たりしながら、教官は一人ひとりの様子を鋭い目つきで観察していて、
リリーン・・・
澄んだ鈴の音が道場内に響き渡ると、生徒たちは静かに目を開ける。
「立て!」
教官のダレロの掛け声に、生徒たちは静かに立ち上がり、壁際に並べられた木剣を取りに行く。
ダレロは焦茶色の髪をした霊兎で、教官でありながらも堅苦しくなく、その気さくな人柄で生徒たちから慕われている、優しい顔立ちをした若い教官だ。
「並べ!」
ダレロが号令をかけると、生徒たちは二列になって一定間隔に並び、二人一組で向かい合う。
「構え!」
生徒たちは素速い動きで木剣の切っ先を相手に向けて構え、
「はじめ!」
の合図で打ち合いを始める。
カンッ、カンッ、カンッ!
生徒たちはそれぞれの間合いで攻撃し、防御する。
打ち合いは常に真剣勝負だ。
体のどこを狙ってもいいし、手加減なしに怪我をさせても構わない。
本物の剣を使わないだけで、それは実際の戦闘を意識した訓練だった。
とはいえ、霊兎族は俊敏な人種族である。
その反射神経で咄嗟な動きができることもあり、気を抜いていない限り大怪我をすることはなかった。
たまに骨折させられたり、木剣の先でお腹を刺されて大怪我をする生徒もいるが、それはその生徒の不注意が悪いのであって怪我をさせた生徒のせいではない。
誰も同情なんてしない。
打ち合いにおいては怪我をさせた方はその力を自慢し、怪我をさせられた方はその弱さを恥じるだけだった。
—力こそすべて。
それが爬神教の教えだ。
だから打ち合いは生徒たちにとって、気を抜くことができないものだった。
カンッ、カンッ、カンッ!
木剣の木と木がぶつかる甲高い音が乱雑に道場内に響く。
養成所施設内にある〝教育棟〟と呼ばれる二階建ての建物の一階部分が武道場になっていた。
カンッ、カンッ、カンッ!
生徒たちは真剣に相手を倒そうと力一杯打ち合う。
その熱気と活気があふれる中にいて、タヌとラウルは剣を構え、向かい合ったまま動かない。
二人は鋭く睨み合いながらも、じっとして動こうとしなかった。
タヌは心を動かさず、ラウルの動きを感じている。
ラウルは気を集め、意識を集中してタヌの隙をうかがう。
互いに攻撃のタイミングを見極めようと息を殺しているのだった。
タヌはその場に身を委ね、微かにゆらゆらと揺れるようにしてラウルの気を感じているが、ラウルに隙は見つけられなかった。
ラウルが動いたときが勝負だ・・・
タヌはじっとその時を待つ。
ラウルはタヌの動きを注視するが、タヌには隙があるのかないのかさえわからなかった。
ならば、タヌが動き出したときにそれを見つけるまでだ・・・
ラウルもまた、タヌが動き出すそのときを待っている。
そうやって二人は互いの出方を待って、動こうとしないのだった。
「お前ら、打ち合いの授業で打ち合わないでどうする」
教官のダレロが呆れて二人に声をかけた。
二人はその声にホッとして剣を下げ、
「だって、動いたらやられるのがわかってるから動けません」
タヌはどうしようもないといった表情で言い訳をし、
「打ち込む隙がないから打ち込めないだけです」
ラウルはそう応えて肩をすくめる。
そんな二人にダレロは頭を掻きながら、
「あーあ、お前らはいつもそれだ」
そう言うと、二人の隣で打ち合いをしているスレイとトンテに向かって、
「たしかお前ら、この二人と同じ部屋だよな。そのよしみで相手をしてもらえないか」
と声をかけた。
しかし、
「うーん」
スレイはそう唸って露骨に嫌な顔をし、
「タヌやラウルが相手だと練習になりません」
トンテはそう言ってダレロの依頼を拒絶した。
「だよなぁ」
ダレロはため息をつく。
二人が嫌がる理由はわかっていた。
タヌとラウルは他の生徒と比べて実力が違いすぎるのだ。
今二人がいるクラスは十二歳から十五歳くらいの生徒が集められていて、実力もかなり優秀な者たちばかりなのだが、それでも、タヌとラウルの相手をできる者が一人もいなかった。
だからいつも二人で組んで修練を積むことになる。
本来なら上のクラスへ上がることも検討されるのだが、今いるクラスから上は実力がまたぐんと上がって技に加えて大人の体格と体力が求められる。
今のタヌとラウルでは技はあっても体格に劣り、体力もまだまだないので、十七、八の大人の体の生徒たちと一緒に授業を受けるには無理があった。
「どうしようか・・・」
ダレロはそう呟き、腕組みをした右手で左頬を擦りながら思案する。
少しの時間考え、そして、閃いた。
「ま、いっか」
ダレロはひとりで納得し、タヌとラウルに視線を向けると、
「私が相手をしよう」
そう言ってニヤリと笑うのだった。
教官が生徒と直接手合わせをすることは普通はあり得ないことだ。
実力が違いすぎるということもあるし、教官と生徒とはいえ、真剣勝負に他ならないからだ。
「えっ、うそ!」
ラウルは驚いて目を丸くする。
タヌが顔を引きつらせ、
「勝負になりません」
そう言うと、
「二人まとめてかかって来い」
ダレロはそう返して片頬に笑みを浮かべた。
ダレロは他の生徒たちを下げ、道場の真ん中で、タヌ、ラウル、二人を相手に木剣を構えた。
二人も渋々剣を構える。
生徒たちがそれを野次馬のように取り囲む。
いつもは厳しくも優しいダレロではあるが、その実力を誰も見たことがなかったから、生徒たちはダレロの剣さばきに興味津々だった。
タヌとラウルを憐れに思う生徒はひとりもいない。
道場はしんとした静寂と緊張感に包まれる。
ダレロはすぅーっと目を半眼にし、タヌとラウルの動きを捉える。
生徒たちは固唾を呑んでその様子を見守っている。
突然、
「あっ!」
ダレロが大声を上げて天井を見上げた。
タヌとラウルが何事かと吊られて天井を見上げたその刹那、ダレロは二人に向かって打ち込みを入れたのだった。
ダンッ!ダンッ!
次の瞬間、タヌとラウルは膝から崩れ落ちていた。
「うん?」
「なに?」
「えっ」
生徒たちもダレロの視線を追って天井を見上げていたので、ダレロが二人を打つところを見ていなかった。
何が起こったのかわからずポカンとしている。
「うっ・・・ダレロ様、なんかひどい」
タヌは床に手をついて倒れたまま、打たれた腹部の痛みに顔をしかめる。
「不意打ちとは・・・」
ラウルも片膝をついてしゃがみこみ、打たれた背中の痛みに苦しげな表情を浮かべる。
そんな二人に向かって、
「はっはっはっ。お前らはまだまだ甘いのだ」
ダレロは腰に手を当て勝ち誇って笑う。
生徒相手に大人気ないと言えばそうかも知れないが、ダレロの実力は本物だった。
タヌとラウルはダレロの動く気配すら感じることができなかった。
「タヌ、動いたら負けると言ったな。負けたっていいじゃないか。その負けから学ぶことの方が大きいのだから。動かなかったら、お前は負けはしないかも知れんが、相手を倒すこともないし、倒す術を学ぶこともない」
ダレロは痛みに顔を歪めるタヌにそう言い放った。
ダレロの言葉はタヌの弱点を突いていた。
だから、
「・・・」
タヌには返す言葉がなかった。
「ラウル、打ち込む隙がないだと?隙ができるのを待つのではなく、相手に隙を作らせるのだ」
ダレロがそう指摘すると、ラウルも返す言葉がなく、悔しそうな顔でダレロを見上げるだけだった。
このクラスではズバ抜けた実力のタヌとラウルでも、ダレロにとってはまだまだひよっこに過ぎない。
まだ立ち上がることさえできない二人に、
「うわぁっはっはっ」
ダレロは嘘くさく笑ってみせてから、
「と、いうことだ」
そう言ってひとり頷くのだった。
それからダレロは取り囲む生徒たちに向かって、
「よし、今日は特別だ。お前らみんなの相手をしてやる」
と声をかけた。
「ええー!」
生徒たちは驚いてその顔を引きつらせる。
何が起こったのかわからなくても、目の前でタヌとラウルがうずくまっているのが現実なのだ。
ああなりたくない。
それが正直な気持ちだった。
「おい、お前ら。根性みせろ」
ダレロが呆れ顔でそう言うと、
「ダレロ様、実力が違いすぎます」
誰かがそう言い返した。
「一対一じゃないぞ。お前ら全員まとめて相手にしてやるから、全員まとめてかかって来い!」
ダレロはそう叫ぶと、すかさず木剣を構えた。
生徒たちは覚悟を決めるしかなかった。
相手が教官とはいえ、やるからには本気で倒す気でいかないと容赦なくやられてしまう。
生徒たちの目の色が変わり、道場の空気が変わる。
生徒たちはダレロとの間合いを測ってさっと広がり、木剣を構えた。
タヌとラウルはその輪から離れ、壁にもたれかかって座り、ダレロの動きに意識を集中させる。
あっという間にダレロに打ち倒された二人であったが、あのダレロの気配のない動きは二人が学ぶべきものだった。
だからこそ、ダレロの動きの正体を見極めたいのだ。
ダレロを前にして、生徒たちはなかなか踏み込めないでいた。
「おい、どうした?そんなへっぴり腰でどうする」
ダレロが挑発すると生徒たちの顔つきが変わり、ジリジリとダレロとの間合いを詰め始める。
スッ・・・
ダレロの背後の生徒が音もなくダレロに向かって踏み込むと、それを合図に生徒たちは思い思いにダレロに襲いかかった。
ダレロはしなやかな身ごなしで生徒たちの動きに反応する。
カンッ!カンッ!カンッ!カンッ!
剣を払う無数の音が鳴り響き、
ドスッ!ドスッ!ドスッ!ドスッ!
「うっ!」「ぐふっ!」「くっ!」「ぐあっ!」
何人もの生徒が木剣に打たれ倒れていった。
鋭く打ち込まれた生徒たちはみな顔をしかめ、床にうずくまった。
それはあっという間の出来事だった。
ダレロは目にも留まらぬ速さで数十人の生徒を打ち倒したのだった。
ダレロは床にうずくまる生徒たちに向かって、
「まだまだ修行が足りないな」
そう声をかけ、
「はっはっはっ」
と、わざとらしく笑うのだった。
タヌとラウルはその出来事をまじまじと観察していたが、ダレロの流れるような動きと電光石火の素速さにまったくついていけなかった。
なにより、どうやったら大勢の生徒に囲まれたその密集した状態で、少しも相手に触れさせずに動くことができるのか、まったく理解できなかった。
生徒たちの太刀をしなやかに躱しながら、パッパッと閃くように放たれる一撃は、打たれた瞬間はそれに気づかないほど速かった。
痛みは一瞬遅れてやってくる。
打たれた生徒がそのことに気づいたとき、ダレロは既に次の生徒に打ち込んでいた。
それほどダレロの動きはしなやかで目にも留まらぬ速さだった。
タヌとラウルが倒されたのもそれだった。
ダレロが打ち込んできたとき、その動きを感じたと思ったら、ダレロはすでに背後にいて、その後に痛みがやってきたのだ。
ラウルにとって、こんな経験は今までにないことだった。
タヌにとって、それは父ナイとの修行を思い出させる懐かしい感覚だった。
いつもはどこかふざけているようにさえ見えるダレロの、その力をまざまざとみせつけられ、二人は改めて稽古に励もうと思うのだった。
「お前ら、自分の未熟さを思い知ったか。これからはより真剣に授業に取り組むように」
ダレロは未だ倒れて動けない生徒たちに向かって声をかけると、
「今日の授業はこれにて終了!」
そう言って道場を後にしたのだった。