〇七九 娘を想う気持ち
テムスの農園ではリモンという柑橘系の果物が旬を迎えていた。
リモンは味が酸っぱく、その果汁をハチミツと混ぜて使うのが主流で、パンに塗るのもよし、そのまま水で薄めて飲むのもよし、その甘酸っぱさがくせになる人気の果物だった。
ラウルは朝からリモンの収穫作業に励んでいて、タヌは昨日収穫したリモンを売りに、テムスの妻ラーラと共にムニム市場に行っている。
黒装束の連中に襲われて以来、テムスが新世界橋を渡ることはなかった。
サイノ市場周辺で烏人の彫った置物などを仕入れることがなくなったので、その分収入は減ったけれど、野菜や果物がムニム市場でちゃんと売れさえすれば生活に困ることはなかった。(十日に一度ほどタヌとラウルが対岸に野菜や果物を売りに行くのだが、目利きでない二人に値の張る工芸品を買わせるわけにはいかなかった)
ラウルはリモンの木から果実をもぐと、背中に背負ったカゴの中に優しく落としていく。
「ふぅ、結構重くなってきたな」
ラウルがそう独り言のように呟くと、それを近くで聞いていたテムスが声をかける。
「あまり無理するなよ。ぎっくり腰にでもなったら大変だからな」
テムスの優しい眼差しに、ラウルは温かい気持ちになる。
サムイコクで襲われた後、しばらくはかなり落ち込んでいて心配していたのだが、最近は以前のテムスに戻ったように見える。
「おじさん、俺はまだ若いから大丈夫。おじさんこそ無理しちゃだめだよ」
ラウルはそう優しく返事を返す。
空は清々しいくらいに澄んでいて、ひんやりした空気の上から、ポカポカとした陽射しが降り注いでくる。
胸一杯に空気を吸い込むと、体の中から喜びが溢れてくるようだった。
「今日は仕事をするには最高の日だね」
ラウルはテムスに笑顔を向けながら背中のカゴを揺すって中のリモンを均し、
「ほんと、気分いいな」
テムスも空を見上げ、自然笑顔になるのだった。
午前中はひたすらリモンを収穫し、あっという間にお昼になった。
物置小屋の外にテーブルと椅子が置かれていて、そこが食事を摂るいつもの場所だった。
二人はテーブルについて昼食のパンとサラダを食べる。ちなみにテーブルの上には器に入ったハチミツとリモンも置かれていた。もちろん、パンに塗って食べるためのものだ。
「今年はリモン、豊作だね」
ラウルは言いながらリモンを手に取り、ナイフで半分に切る。
「そうだな。それに今年のリモンは味もいい」
テムスはそう応えて満足げな笑顔をみせる。
「タヌ、しっかり売ってくれよ」
なんて言いながら、ラウルは半分に切ったリモンをハチミツの上で握り締め、果汁を絞り出した。
「タヌが一緒で助かってるよ。ラーラ一人じゃ大変だもんな。昔はナーラがいたからよかったけど・・・」
テムスは握ったパンを見つめながらしみじみと言う。
ラウルはテムスの口からナーラの名前が出たことに驚いた。
もう長いことテムスの口からナーラの名前を聞いたことがなかったからだ。
「うん、そうだね」
ラウルは優しく相槌を打つ。
ラウルはナーラの名前を聞いて胸がズキっと痛んだ。
それは決して忘れることのない痛みだった。
二人は急に黙り込んでしまう。
二人が寂しげな眼差しで見つめているもの。
それはナーラの笑顔と、ナーラと過ごした日々の思い出に違いない。
ガタン!
物置小屋の中にある小物が落ちたような音がし、二人は我に返った。
テムスはふとラウルを見つめ、
「ラウル、ラビッツって知ってるか?」
そう思いがけないことを口にした。
予期せずテムスの口から〝ラビッツ〟の名を聞いて、ラウルは狼狽えてしまう。
テムスはしみじみとした表情でラウルの返事を待っていて、
「あ、名前だけなら、たぶん、聞いたことあるかも。どうしたの急に?」
ラウルはしどろもどろになってそう聞き返していた。
そんなラウルの狼狽する様子を気にすることもなく、テムスは言葉を続けた。
「ラビッツを名乗る者たちが、蛮兵を襲ってるらしいんだ」
テムスは俯きがちにポツリと言い、
「それ、俺も聞いたことある」
ラウルはわざとらしく明るい声を出すのだった。
テムスは顔を上げるとラウルの目を真っ直ぐに見つめた。
ラウルは自分の心の中が見透かされるような気がして、思わず目を逸らしてしまう。
「実はな、ズシモの隣の家が蛮兵に襲われたっていうんだ」
テムスは言いながら、手に持っていたパンをテーブルの上に置き、左手の甲を右手で撫でるように擦った。
そのしみじみとした口ぶりは、決してラビッツを非難するものではなかった。
ラウルはそれを感じると、素直にテムスの話に興味を持った。
おじさんの知り合いはラビッツをどう思っているんだろう・・・
ラウルの気持ちがすーっと落ち着いてくる。
「へぇー、そうなんだ」
落ち着きを取り戻したラウルは自然な感じで相槌を打つ。
「その家は五人家族なんだが、その家の主人の話によると、夜遅くに七、八人の蛮兵が突然ドアを叩いて入ってきたらしい。そして勝手にその家族全員に罪を宣告して襲いかかったって言うんだ。そこに間一髪ラビッツを名乗る若者が三人現れて、蛮兵たちを斬り殺したそうだ」
テムスは真顔の表情を変えず、宙を睨みながら淡々とそこまで話してラウルの反応を窺った。
「すごいね」
ラウルがわざとらしく驚いてみせると、テムスは頷いて先を続けた。
「それでラビッツの一人が去り際に言ったらしいんだ。私たちの信じているこの世界は、本当は間違っているんじゃないかって。愛する者をドラゴンの生贄に差し出して喜んでるなんて、狂ってるとは思わないのかって」
ラウルはその時その場所にいて、タヌがそう語りかけたときの光景をよく覚えていた。
「うん」
ラウルはしみじみと相槌を打つ。
「なんだかその話を聞いたら、胸がじーんと来たんだよ。これは情けない話なんだけどさ。ラビッツの話を聞いた日から、ナーラの夢ばっかり見るんだ。ナーラは生まれたばかりの頃からいつもニコニコしている明るい女の子だった。あの天使のような笑顔。夢に出てくるナーラはいつも天真爛漫に楽しそうに笑っているんだよ。ナーラと過ごした時間はいつも笑顔で溢れていたから、思い出すのも笑顔ばかりなんだろうね」
テムスは溢れる感情を堪えるように、顔をくしゃくしゃにして俯いた。
「おじさん・・・」
テムスのその苦しげな姿に、ラウルはかける言葉がなかった。
テムスはゆっくりと顔を上げ、ラウルに問いかける。
「ナーラは本当に幸せだったのかなぁ。私たちが幸せだと思ってナーラを送り出したことは、間違ったことだったんじゃないかって、結婚して幸せな家庭を築くことが、あの娘の幸せだったんじゃないかって思ったら、悲しくて泣けてくるんだよ」
そう言ってテムスは涙を流した。
「うっううう・・・」
テムスは肩を震わせ泣き出した。
テムスのその溢れる悲しみは、ラウルの胸をも震わせた。
「おじさんは間違ってなかったよ」
そう声をかけるのが精一杯だった。
献身者に選ばれたら、それを拒否することは許されない。だから、ああやってナーラを見送るしか方法はなかったんだよ。おじさんは間違ってない。間違っているのは、この世界の方だ・・・
ラウルは両手の拳を強く握り締め、この世界に対する怒りに体を震わせるのだった。
その頃、タヌはムニム市場でラーラとリモンを売っていた。
「リモン、いかがですかー。テムス農園のリモンは味わいのある酸っぱさが特徴ですよー。はちみつと混ぜると抜群に美味しいんです!」
商品台に並べられたリモンを前にタヌは声を上げる。
「美味しそう」
「また買いに来たよ」
「ここのリモンが一番だ」
などなど、兎人の客は口々にそう言ってリモンを買い、
「これはサイノ市場でも高く売れそうだ」
烏人の商人が来ては笊に盛られたリモンをまとめて買っていった。
テムス農園のリモンは飛ぶように売れた。
お昼を過ぎた頃には、すべてのリモンを売り切っていた。
「タヌ、あなた呼び込み上手ね」
ラーラはそう言ってタヌを労う。
「そうでもないと思うけど」
すこし照れた表情をみせ、タヌは片付けを始める。
「そんな謙遜しなくたっていいわよ」
ラーラは明るくそう言い、それから、
「でも、ナーラの次に、かしらね」
と、さりげなくナーラの名を口にした。
ナーラの名前を聞いてタヌはドキッとしたが、それを顔には出さなかった。
「ありがとう。でも、なんだか久しぶりに聞いた」
タヌはそう言ってラーラに微笑む。
「なにを?」
ラーラは首を傾げる。
「おばさんの口からナーラの名前を」
タヌはそう答えながら、「ナーラ」の名前を口にする自分にドキドキした。
タヌにとってもナーラの名前を口にするのは久しぶりのことだったからだ。
「それもそうね」
ラーラは言われて初めて気づいたというような顔をする。
「でも、おばさんの口からナーラの名前が聞けるなんて嬉しいな」
タヌは素直にその嬉しさを口にし、優しい笑みを浮かべた。
そのタヌの表情を見て、ラーラも優しい顔になる。
「最近うちの人がね、私と二人きりになるとナーラの話をするようになったの。それで自然とナーラの名前を口にしたのかも知れないわね」
ラーラはそう応え、ふと寂しい目をした。
「おじさんが?」
テムスがナーラの名前を口にしていると聞いて、タヌは思わず聞き返していた。
ラーラもそうだが、テムスもそんな素振りをまったくみせていなかったからだ。
「うん。最近ラビッツっていうのが蛮兵を襲ってるって言うだろ」
ラーラはさりげなくラビッツの名を口にした。
タヌは唐突にラーラの口からラビッツの名を聞いて慌ててしまう。
「う、うん、そうらしいね」
タヌはぎこちなく返事を返し、
「ラビッツのことを聞いてから、うちの人、ナーラのことばかり思い出すらしいの」
そう言ってラーラは寂しく笑う。
そのどこか遠くを見る眼差しに、タヌはラーラの想いを見た気がした。
「そうなんだ」
タヌは優しく相槌を打つ。
ラーラは俯き、ふっと息を吐くと、
「うちの人、喜んでナーラを送り出したことを、後悔しているようなのよ」
と、呟くように言うのだった。
どこか気まずそうに言うラーラのその眼差しは、テムスに対する優しさで溢れていた。
テムスが献上の儀式のことを後悔していると聞いて、タヌは驚いた。
「どうして?」
思わずその理由を尋ねていた。
ラーラは驚くのも無理はないといった表情でタヌを見、
「よくわからないけど、ラビッツがなんか余計なこと言ったみたいなの」
と答えて困った顔をした。
「そうなんだ・・・」
タヌはラーラの言葉に複雑な思いになる。
おばさんにとって、ラビッツは余計な存在なのだろうか。ラビッツがしていることは受け入れられないってことなのだろうか・・・
「困ったものね」
ラーラは肩をすくめ、苦笑いを浮かべる。
「おばさんはナーラを送り出したことを、どう思ってるの?」
タヌはラーラ自身の思いが知りたかった。
「献身者に選ばれたナーラを祝福して送り出したことを、私は誇りに思ってるわ。そんなこと、訊かなくてもわかってるでしょ」
ラーラはタヌの顔をしっかりと見て、胸を張って答えた。
当たり前のことを訊くんじゃない、タヌはそう言われた気がした。
「そっか」
そう言って肩を落とすタヌに、ラーラは言葉を続ける。
「だって、そう思わなかったら、ナーラが可哀想だと思わない?」
ラーラはそう言いながら顔を強張らせ、声を震わせた。
「だって、そう思わなかったら、私は辛くて生きていけないわ」
ラーラの目から涙がこぼれ落ちる。
ひとしずくふたしずく、ぽろぽろと涙が頬を伝って落ちていく。
タヌはラーラのその健気な姿に胸を打たれていた。
「おばさん・・・」
かける言葉がなかった。
ラーラは溢れる涙を恥ずかしそうに拭い、タヌに笑顔をみせた。
「なんで泣いてるのかしらね。ナーラのこと思い出したら、おかしくなっちゃった」
そう言ってラーラははにかむように笑う。
そのラーラの想いがタヌの胸に沁みてくる。
心の奥にある悲しみを見ない振りしてるだけなんだね。もう、終わらせなくっちゃ。こんなまやかしの世界、終わりにしなくっちゃ・・・
タヌは握った拳に力を込める。
「あなたが泣いてどうするの」
ラーラはタヌの肩を軽く叩き、悪戯っぽく見る。
いつの間にかタヌの目からも涙がこぼれていた。
タヌは我に返り、慌てて手の甲で涙を拭う。
「おばさん、これはもらい泣きだよ」
そう言って、タヌは照れ笑いを浮かべた。
ガヤガヤガヤ・・・
市場の乾いた賑やかさが、二人をこの目の前の現実に引き戻してくれる。
「さっさと片付けて帰りましょ」
ラーラは改めて涙を拭い、てきぱきと片付けを進めるのだった。




