〇七三 嵐の前の静けさ
リリーン・・・
澄んだ鈴の音が道場に響くと、立ったまま目を閉じ、精神統一をしていた生徒たちは静かに目を開ける。
弓術のクラス。
その生徒たちの中に、ルドス、キキア、エラス、そして、シールとマーヤがいた。
そして教官は、ダレロだった。
弓術道場は神殿前の聖なる井戸の南にあり、西の女子寮と東の男子寮を結ぶように横たわっている。
高い板塀に囲まれた道場の中は、東側が雑木林のようになっていて、西側は土の山があったり、穴が掘られていたり、灌木が植えられていたり、池が造られていたりと、複雑な地形をしている。
そんな道場の色々な場所に的を置いて、それを教官の指示した位置や、やり方に従って射るのが弓術の授業だった。
実戦を想定した技術の習得なので、走りながら、横になりながら、座った姿勢で、振り向きざまに、目を閉じてなど、教官は様々な射的方法を指示するのだった。
シールとマーヤの二人が女子であるにも拘わらず、この最上級クラスにいることは前代未聞の出来事だった。彼女たちは剣術や槍術でも最上級クラスいて、二人が史上初の女性隊士に任命されるのか、コンクリの判断が注目されていた。
そして、生真面目なエラスがこのクラスにいることも驚きの一つと言っていい。
二年前、突然目の色を変えて武術の稽古に励み出し、もともと才能があったのだろう、その生真面目さも手伝って、今では護衛隊に入隊するのではと噂されるまでになっていた。
しかしエラス本人は周囲の声に惑わされることなく、神官への道を志望している。
ちなみにシールとマーヤの弟である愉快なトマスは武術はあまり得意ではなく、三つ下のクラスで頑張っているのだった。
道場の西の端が射場になっていて、そこから東に向かって矢を放つのが基本となる。
生徒たちは横一列に整列し、ダレロの話に耳を傾けていた。
「今日は連続射的だ。場内の遠く近く、まばらに置かれた的が五つある。それをできるだけ短い時間で射抜くように」
ダレロが指示を出すと、生徒たちは黙礼してそれに応える。
「よし、エラスからいこうか」
ダレロが名を呼ぶと、
「はい」
エラスは目印の石が置かれている場所に立った。
それから背中に背負った矢筒に手を伸ばし、矢を一本手に取ってそれを弓に番え、合図を待つ。
合図は誰かが出してくれるものではない。
合図は自分の中のきっかけだ。
心の声と言ってもいいかも知れない。
その自分の中のスイッチのような感覚を身に付けることが大切なのだ。
瞬間の集中力が求められる戦場において、その感覚を自分でコントロールできるようになること、それが求められていた。
エラスは深呼吸を一つし、それから左手に持つ弓を持ち上げる動作に移る。
「やめ!」
エラスが弓を構える前に、ダレロの声が場内に響いた。
エラスはビクッと驚いて目を丸くする。
「遅い!自分の心が落ち着くのを待ってたら殺されてしまうぞ」
ダレロは眉間に軽く皺を寄せて顎を掻きながら、エラスの気持ちの甘さを指摘した。
「はい」
エラスは素直に頭を下げる。
ダレロの指摘は良くわかるのだけど、この〝きっかけ〟がどうにも掴めないのだ。
自分には何かが足りないのかも知れない。
エラスはそう思っている。
「自分の中のきっかけを掴むのは繊細な感覚だ。研ぎ澄まされた一瞬の感覚でしか掴めないものだ。張り詰めた緊張状態の中の静けさ。それを無と呼んでいいのかも知れない。その一瞬の無の感覚から生まれるものが〝きっかけ〟だ」
ダレロは助言を与えておきながら、
「次に回れ」
とエラスを下がらせ、
「ルドス。お手本を見せてやれ」
と、ルドスを指名した。
ルドスの腕前はかなりのもので、それは弓術に限ったものではなかった。
「はい」
ルドスは立ち位置に立つと、首の柔軟体操をするように、首をぐるぐる回したかと思うと、すぐさま弓を構え矢を放った。
カンッ!カンッ!カンッ!カンッ!カンッ!
薄い板でできた五つの的のすべてが割れた。
それを見て、
「おお、さすがルドス」
キキアは手を叩いて喜び、エラスはその声を聞きながら俯きがちに列の後方に並ぶ。
「エラス、落ち込まないの。誰にだって苦手なことってあるんだから」
列の最後尾にいたマーヤが自分の後ろに元気なく並んだエラスにそう声をかけた。
マーヤも大分女性らしい体つきになった。まだ少女っぽさを残してはいるが、背も伸び、すらっとした立ち姿は凛としていて、それでいて柔らかな体の線が女性としての色香を漂わせているのだった。
ただし、本人はそれに気づいていないし、自分の容姿を気にしている風でもない。
だから、マーヤは変わらず元気で明るいマーヤだった。
「うーん。無から生まれる感覚っていっても良くわからないよ。僕に掴むことができるのかな」
エラスは俯きがちに首を傾げる。
気弱そうに見えるエラスも、大分がっちりとした体になっている。それを逞しいと言ってもいいだろう。しかし、生真面目な性格は相変わらずで、臆病なところも変わっていなかった。
「大丈夫だよ、エラス。真剣に取り組んでたら、必ず掴める瞬間が来るから」
マーヤはそう言いながら、俯くエラスの顔を下から覗き込むような仕草をみせる。
マーヤの顔が近くに来たことに驚き、エラスは少し体を後ろに引くが、それは誰にも気づかれないほどの小さな動きだった。
「僕にできるのかなぁ」
そう言って、エラスはため息をつく。
「できるわよ。このクラスにいるってことは、それだけでも凄いことなんだから、もっと自信を持ちなさい。あなたは真面目だけが取り柄なんだから、真面目に頑張ればいいの。そしたら、いつの間にかなんとかなってるわよ」
マーヤはそう言ってエラスを励ました。
だが、〝真面目だけが取り柄〟という言葉が気に食わなかった。
どうせ僕はつまらない男だよ・・・
と思ったら、嫌な気持ちになる。
「なんか、嬉しくないな・・・」
エラスは不満顔でそう呟いた。
そんなエラスの態度にマーヤはムッとする。
「何甘えたこと言ってるのよ。励ましてやってるのに」
マーヤが顎を突き出すようにして文句を言うと、
「もっと、何ていうか、別の言い方があると思うんだけどな」
エラスはそう言い返して口をへの字にするのだった。
「だから、そこが甘えてるっているのよ」
マーヤが呆れると、
「マーヤには人の心ってものがわからないんだよ」
エラスは口を尖らせそっぽを向く。
「少なくとも、エラスの心ってものはわかる必要ないわね」
マーヤもそう言い返してそっぽを向く。
そのとき、
「あんたたち、ほんと仲いいわね」
シールが二人の会話に割り込んできた。
マーヤの前に立っていたシールは、二人のやりとりを微笑ましく見ていたのだった。
シールはからかうようにマーヤとエラスを交互に見る。
そのシールの眼差しが、エラスには気恥ずかしい。
「シールにはこれが仲良く見えるの?」
エラスが尋ねると、
「良いわけないでしょ」
マーヤは迷わずそれを否定した。
「言いたいことが言い合えるのは仲が良い証拠よ」
シールがそう言って悪戯っぽく二人を見たとき、
「シール!」
ダレロがシールを呼んだ。
「はい」
シールはすっと立ち位置へ向かう。
シールももうすぐ十八になる。すらりと伸びた肢体に女性らしいしなやかな体の線がシールを大人びてみせていた。そして、その立ち居振る舞いは気品さえ感じさせるものだった。
シールは立ち位置に立つと、その刹那、矢筒から矢を素速く抜き取り、射場からは点のようにしか見えない、まばらに置かれた的に向かって連続で矢を放った。
ヒュン!ヒュン!ヒュン!・・・
矢は空気を切り裂き一直線に飛んでいく。
カンッ!カンッ!カンッ!・・・
的は目にも留まらぬ速さでことごとく割れていき、五つある的すべてが割れた。
「うわっ」
と声を上げたのは、キキアだった。
ルドスより速い・・・
そう思って感嘆の声を上げたのである。
「さすが!」
マーヤも思わず歓声を上げていた。
シールに続いて、
「マーヤ!」
ダレロがマーヤを呼んだ。
「はい」
マーヤは立ち位置に立つと、ゆっくりと目を閉じ、ふっと短い息を吐くとパッと目を開け、素速く矢を放った。
ヒュン!ヒュン!ヒュン!ヒュン!ヒュン!
矢は鋭く飛んでいった。
カンッ!カンッ!ヒュンッ!ガスッ!カンッ!
五つある的の三つが割れ、一つが外れ、一つは当たったけど割れなかった。
「くっそー、お姉ちゃんに負けたー」
シールに及ばなかったことを、マーヤは大袈裟に悔しがってみせる。
マーヤは肩を落とし、シールの後ろに並ぶ。
「マーヤ、まだまだね」
シールはそう声をかけて悪戯っぽくマーヤを見る。
「くっそぉー」
マーヤは左手に持つ弓を上下にブンブン振って悔しがった。
「うふふ」
悔しがるマーヤが可愛らしくてシールは笑ってしまう。
シールにとってマーヤは周りを明るく照らす太陽のような存在だった。
一方、エラスは落ち込んでいた。
マーヤは五本中四本(的の一つは割れなかったけど)も命中させたにも拘わらず悔しがっている。
それに比べ、自分は矢を放つことさえできなかったのに、そこまで悔しくもなかった。
そんな自分が情けなかった。
「エラス!」
ダレロがエラスを呼ぶ。
「はい!」
よし、今度こそ。
エラスは立ち位置に立つと、「よしっ」と小声で自分に喝を入れ、矢筒から矢を抜くとすぐさま弓を構えた。
そしてエラスが矢を放とうとした、まさにその瞬間だった。
バンッ!
激しい音を立てて道場の入り口の扉が開くと、
「ダレロ様!」
黒服の兎神官が叫びながら場内に飛び込んで来た。
「わっ」
エラスは驚いて矢を放ってしまう。
ヒューン!
エラスの放った矢はあらぬ方向へ飛んでいって、的のない雑木林の中に消えていった。
「ああ・・」
と嘆くエラスを、誰も見ていなかった。
みんなの視線は飛び込んできた兎神官に注がれていた。
「ダレロ様、コンクリ様がお呼びです!」
兎神官はそう言うと、突然の非礼を詫びるかのように頭を下げた。
「どうした」
ダレロは兎神官の慌てように驚いた。
「緊急事態です」
兎神官はそう答え、表情を強張らせた。
「何だ」
ダレロがそう尋ね怪訝な表情を浮かべると、
「ここでお伝えするわけにはいきません。しかし、護衛隊隊長のミカル様、親衛隊隊長のアク様も招集されています。ダレロ様も至急お願いいたします」
兎神官は早口でそう応え、頭を下げた。
兎神官のその様子がまさに事態の深刻さを物語っていた。
ちなみに、アクは一年前教官を辞め、新設された親衛隊の隊長に抜擢されていた。
親衛隊とは、コンクリ直属の部隊のことだ。
「そうか。すぐ行く」
ダレロはそう返事をすると、兎神官に向かって顎をしゃくり、下がっていいことを伝える。
「はっ」
兎神官は一礼し、道場から急ぎ足で去っていった。
ダレロは呆気にとられている生徒たちに振り向いてニコリと笑う。
それから、
「キキア、後はよろしく。お前が指示を出してくれ。みんなはちゃんとキキアの指示通りに訓練を続けること」
と指示を出し、急ぎ道場を後にしたのだった。




