〇六八 ヒーナの失恋
秋の終わりが近づいているのだろうか、最近夜風に冷たさを感じるようになってきた。
バケ屋敷の庭で、ヒーナは一人寝っ転がって夜空を眺めていた。
いろいろ浮かんでくるのは、ここに来る前の昔の自分のことだったり、ここに来てからのいろいろな出来事だった。
七年前、ムニム市場近くの貧民街で路上生活をしていたとき、突然目の前に現れたバケじぃに「お前は戦士の目をしている」と言われ、この屋敷に連れて来られたのだった。
それまでの自分は日々生きることに精一杯だった。
だからバケじぃに付いて来たのも、〝食うに困らないから〟それだけの理由だった。
それが今では家族以上の絆で結ばれた仲間たちと出会い、世界を変えるために、〝ラビッツ〟を名乗って共に戦っているのだ。
人生って不思議だな・・・
ヒーナはつくづくそう思う。
ラビッツの活動は、ギルがボロボロになって帰った来たときに動き出した。
あのとき、ギルは全身に小さな切り傷があり、胸には明らかに剣で斬られた大きな傷があって、タヌとラウルに抱えられるようにして帰ってきたとき、ヒーナは血塗れのギルを見て〝もう助からないんじゃないか〟と思ったほどだった。
ギルのあんな姿を見たのは初めてだったし、そのときのバケじぃの慌てようは今思い出しても笑えるけど、あのときはみんながギルの容態を心配したものだった。
ギルをベッドに寝かせ、傷の手当をし、一段落ついたところで、
「何があったのじゃ」
バケじぃはタヌとラウルの二人に尋ねた。
その場にいたヒーナ、パパン、グラン、キーナの四人も、二人に耳を傾けた。
タヌは苦笑いを浮かべ、
「細かい傷は怪しい宗教施設で襲われたときのもので、胸の傷は治安部隊の、俺たちと同い年くらいの奴に斬られたものだよ」
と、それぞれの傷の理由を説明した。
よく見ると、タヌも体中に小さな切り傷があったし、着ている服も泥で汚れ、その中に血も混じっているようだった。タヌの横に立つラウルもそうなのだが、二人がいつもと変わらず飄々としているので、そのことを気にする者はいなかった。
ヒーナだけは気になって、
「大丈夫なの?」
と、タヌに訊いたのだが、タヌが「全然平気」と笑って答えたので、それを聞いて安心し、それ以上心配することはなかった。
タヌの説明を聞いてバケじぃは驚き、
「治安部隊ということは、賢烏に斬られたのか?」
そう聞き返していた。
それにはヒーナら四人も驚いていた。
治安部隊に斬られるなんて、ギルはいったい何をしでかしたんだ?
「うん」
タヌが頷くと、
「どういうことじゃ」
バケじぃは怒りを含んだ声で、詳しい説明を求めた。
これからというときに、他国とはいえ、治安部隊と揉め事を起こして良いことなどないからだ。
「相手は三人だったんだけど、そのうちの一人が昔ギルといろいろあったみたいで、その恨みを晴らすために俺たちを橋で待ち伏せしてたんだ。それで決闘になったってわけ」
タヌは楽しげにそう説明し、その横でラウルは笑みを浮かべ頷いていた。
その二人の表情を見て、バケじぃは拍子抜けして肩の力が抜ける。
自分が思っている程、状況は深刻ではないのかも知れない。
「そうか。ということは、これはあくまで個人的な恨みの問題ってことじゃな」
バケじぃは落ち着いた口調で確認する。
「そう、その通り」
タヌはきっぱりと答え、
「これ以上、問題は大きくならないと考えて良いか」
バケじぃが念を押すと、
「そう考えていいと思う」
そう言って不安のない眼差しをバケじぃに向けるのだった。
「うむ。それならいい」
バケじぃは安堵の表情を浮かべると、思い出したように、
「それで、結果はどうなったのじゃ」
決闘の結果を尋ねた。
それに答えたのはラウルだった。
「ギルは負けなかったし、俺たちも負けなかった」
ラウルは淡々と結果を伝え、それを聞いて、
「お前たちもやりあったのか」
バケじぃは目を丸くし、
「向こうが三人でこっちが三人なら、やらないわけがないだろ」
ヒーナがツッコミを入れる。
たしかに、タヌとラウルの二人も着ている服がかなり汚れているし、よく見ると体中傷だらけだ。
「なるほど」
バケじぃは納得し、
「まぁ、傷は浅いとはいえ、ギルにこのような傷を負わせるとは、かなりの腕前のようじゃな」
と、ギルを斬った賢烏の一太刀に感心するのだった。
「三人ともかなりの腕前だった」
タヌがそう言うと、
「ほぉ」
バケじぃはその三人の賢烏に興味を示し、
「興味ある?」
タヌが尋ねると、
「ある」
ボソッとそれを認めるのだった。
「へぇー」
賢烏族の三人に興味を示したバケじぃにグランがそんな声を漏らし、
「バケじぃが賢烏に興味があるなんてな」
パパンもそう言って珍しがった。
「それじゃ、今度会いにいってみるよ」
タヌが事もなげにそう言うと、
「大丈夫なのか?恨まれていないか?」
バケじぃは驚いて目を丸くし、
「そんなことはないと思う」
ラウルはそう言って笑った。
剣を交えた二人がそう言うのならそうなのだろう。
「うん。仲良くなれる気がするんだ」
タヌが自信満々に胸を張ると、
「それじゃ、頼むぞ」
バケじぃは真面目な顔をして二人に頭を下げたのだった。
ということで、ギルの傷が癒えるのを待ってから、三人は改めてサムイコクに渡ることになった。テムスは一緒ではなかったが、タヌ、ラウル、ギルの三人で野菜を売りながらあの三人を探すことにした。すると、最初の日に三人とコンタクトが取れたのだった。
タケル、アジ、サスケの三人も、タヌ、ラウル、ギルの三人が再びサムイコク側に現れるのを心待ちにしていたようで、渡ったその日に向こうから声をかけてきたのだった。
六人はすぐに親しくなった。
十日に一度は会うようになり、そして、
—ガルスコクの奉仕者がリザド・シ・リザドから逃げ帰ってきて、リザド・シ・リザドの真実を訴え、そして偽証罪で処刑された。
という情報が三人からもたらされることになったのだ。
これは極秘の情報で、治安部隊でも知っている者は一握りらしい。
それを聞いてバケじぃの顔色が変わった。
「いよいよ綻びが顕在化してきたか・・・」
バケじぃはそう呟き、鋭い目で宙を睨んだ。
「バケじぃ、もういいんじゃないかな」
タヌはバケじぃに決断を促し、
「ラビッツが行動を起こすときが来たんじゃない?」
ラウルもそう言って催促した。
バケじぃは真剣な眼差しで二人を見、それから決意を固めた目で深く頷いた。
「うむ。ときは来たり・・・」
バケじぃの覚悟は決まった。
その場にいたパパン、グラン、キーナ、ヒーナの四人も、バケじぃの決断に胸が震える思いがした。
いよいよだ・・・いよいよなのだ・・・
それから十分な準備をして、およそ三ヶ月前、ラビッツは初めて蛮兵を斬ったのだった。
その日、ヒーナはタヌ、ラウル、パパンの三人と一緒に兎人の家族を襲っていた蛮兵を斬った。
ヒーナは初めて人を斬る恐怖心に体が震えてしょうがなかったけれど、泣き叫ぶ子供を食い千切る蛮兵たちの満足そうな顔を見た瞬間、その恐怖心が激しい怒りに変わっていて、気づいたら蛮兵を何人も斬り殺していたのだった。
そのときの痺れるような感覚は、今でも思い出す度に蘇ってくる。
それが、ラビッツのこの世界に対する反旗の狼煙だった。
「なんだか夢を見てるみたいだ・・・」
ヒーナは夜空に向かって独り言を言う。
夜空に月は見えない。
満点の星々のきらめきが、澄んだ空気を通して自分の心を清めてくれているような気がした。
肌を撫でる風は感じるが、庭木の枝葉を揺らすほどではなかった。
ガサッと頭の上の方から音がして目を向けると、そこにギルが立っていた。
ギルはヒーナと目が合うと、
「ヒーナ、いいか」
そう言ってヒーナの隣に寝転がった。
「どうしたの?」
ヒーナは突然現れたギルに驚いた。
ギルは組んだ手のひらの上に頭を載せ、夜空を眺めている。
その表情はいつもと変わらない。
「どうもしないさ。たまには夜空でも眺めようかと思ってさ」
ギルは横目でヒーナをチラッと見て照れ臭そうに笑う。
それはヒーナの知っているギルが死んでも言わない言葉だった。
「うぇ、いつからそんな気持ち悪いこと言うようになったのさ」
ヒーナが大袈裟に顔をしかめると、
「ば、ばか、お前は俺のことわかってないんだよ」
ギルは狼狽えてそう言い返し、そんな狼狽えるギルを見て、
「わかってるから言うんだよ。気持ち悪っ」
ヒーナはそう言って笑うのだった。
その表情にはギルに対する家族以上の想いがこもっている。
「うるせぇ」
ギルはそっぽを向き、二人はしばらく黙って夜空を見つめた。
ジジ、ジジ・・・
虫の泣き声も聞こえてくる。
「ここに来てもう七年かぁ」
ギルは感慨深くそう言って、大きく息を吐いく。
「そうだね」
ヒーナはそんな相槌を打って、七年の月日を想う。
二人の目に映る夜空の星々は優しく瞬いていて、そこにある静けさが、二人を感傷的な気持ちにさせていた。
「最近、よく昔のことを思い出すんだ。ここに来たばかりのこととか」
ギルがポツリと言う。
「どうして?」
ヒーナは少し驚いてギルに振り向く。
ヒーナも最近一人でいるときはよく昔のことを思い出していた。バケじぃと出会う前の日々、そのとき一緒に過ごしていた人たちのことを思い出し、寂しい気持ちになることがよくあった。バケ屋敷に来てからの様々なことも思い出しては懐かしい気持ちになるのだった。
ギルは自分の気持ちを確かめるような、そんなどこか遠くを見るような眼差しで少し考えてから、
「たぶん、明日がどうなるかわからないからだと思う」
そうしみじみと答え、寂しく笑うのだった。
「・・・」
ギルのその言葉があまりにも的確で、ヒーナは何も応えることができなかった。
「蛮兵を斬った以上、もう後戻りはできないし、この世界に立ち向かうってことは、命を捨てるってことだからな」
ギルはそう言って横目でチラリとヒーナを見る。
「うん。わかるよ」
ギルの言葉はヒーナの胸に深く響いていた。
ギルの言う通りだ。もう後戻りはできない。私は世界を変えるためにこの命を捧げるって決めたんだから・・・
ヒーナに後悔はない。
ギルは夜空を眺めながら思い出に浸る。
「来たばかりの頃はわけもわからずバケじぃにしごかれて大変だったよな。あれだけ嫌な毎日だったのに、今となってはあの頃がとても懐かしいんだ。ヒーナもさ、初めて会った頃は女の子って感じで、可愛かったんだけどな」
ギルがしみじみそう言うと、
「なんだよ、それ。今はそうじゃないみたいな言い方だね」
ヒーナは不満顔で口を尖らせるが、その顔は恥ずかしさで赤くなっていた。
そんなヒーナをギルは可愛く思う。
「ふふ。そう聞こえるか」
ギルはそう言って笑う。
「聞こえるさ」
ヒーナが口をへの字に曲げると、
「そういや、お前、最近生き生きしてるよな」
ギルは話の流れを変えた。
突然そう言われ、
「なに、それ」
ヒーナはギルの意図がわからず目をパチクリさせた。
そんなヒーナの虚を突くように、
「タヌと一緒に行動することが多いからか」
ギルはそう言ってニヤリとするのだった。
タヌの名前を出され、ヒーナは明らかに動揺した。
「それは関係ない」
ヒーナは顔を赤らめ、きっぱりとそれを否定する。
嘘がつけない真っ直ぐな性格。
それがヒーナだった。
「顔に書いてあるぞ」
ギルが指摘すると、
「書いてなんかないだろ」
そう反論するヒーナの顔が恥ずかしさで真っ赤になる。
ギルはそんなヒーナを見て胸が締め付られるような切なさに襲われるのだった。
ギルは自分の感情を押し殺し、
「ヒーナ、お前はわかりやすいんだよ」
と笑顔で言い、
「ふん」
そっぽを向くヒーナに、一つ深呼吸をしてから切り出した。
「だけどよ、タヌに深入りしたら傷つくだけだぜ」
ギルは思い切ってそう告げ、その言葉に、
「えっ」
ヒーナは驚き、そして動揺した。
「どういうことだよ」
ヒーナは反射的にギルに向き直り、そう聞き返していた。
ヒーナのその目が、答えを聞くことに怯えていた。
ギルはヒーナのその眼差しをしっかりと受け止め、「ふぅ」と短い息を吐く。
それから夜空に目を向け、
「タヌにはずっと想い続けてる人がいるんだ」
そうポツリと言うのだった。
「うそっ」
ヒーナは思わず声を上げ、頭が真っ白になる。
そして、胸が抉られるような痛みを感じるのだった。
ヒーナは目を見開いたその表情のまま動かない。
そうだよね・・・
ギルに言われるまでもなく、そんな感じがしていた。
タヌの心の奥には誰かいるって、なんとなくわかっていたのだ。
そんなヒーナの気持ちが手に取るようにわかるギルは、ヒーナを優しく見つめ、
「タヌのことを慕うのはいいけど、恋をしちゃ、傷つくのはお前だぜ」
そう優しく言い聞かせるのだった。
ギルのその優しい口調、その優しい眼差しに、ヒーナは泣きそうになる。
これが失恋ってものなのかな・・・
ヒーナは心の中でそう呟いた。
失恋って、こんなにも辛いんだな・・・
ヒーナの心は泣いていた。
「お、大きなお世話だよ。誰がタヌのこと好きって言ったよ」
ヒーナはそう強がりを言うと、怒った振りをして寝返りを打ち、ギルに背中を向けた。
そんなヒーナのいじらしい姿が、ギルの胸を打つ。
ヒーナの微かに震える背中に、ギルは話しかけた。
「ヒーナ、俺たちの命なんて、儚く散っていくものだ。誰かと結ばれることを夢見るのは苦しみでしかない。これが俺たちの宿命だ。でもさ、たとえ結ばれることがなくても、相手を想う気持ちは大切にしていいんじゃないかな。その想いのために、生きていくことはできると思うから」
ギルはそう言い、そう言う自分に苦笑いする。
俺は誰に言ってるんだろうな・・・
ギルは自分に呆れ、大の字になって夜空を眺めた。
「ヒーナ、夜空がきれいだぞ」
ギルはそう優しく声をかけ、「ふーっ」と大きく息を吐く。
これでいい・・・
ギルはそう自分に言い聞かせるのだった。
夜空には星々のきらめき。
その一つひとつの星の瞬きが、一人ひとりの命の瞬きのように見える。
生きることの儚さが胸に沁みる。
庭木の枝葉がさわっと風に揺れ、微かな音を立てた。
夜は、静かに更けていく。




