〇五三 さよなら、ナーラ
献上の儀式当日の朝。
朝の清々しいはずの空気がピリピリとした緊張感を漂わせると、市街地の南の入り口である門から爬神族使節が入って来た。
ザッ、ザッ、ザッ・・・
爬神族使節は蛮兵たちに先導され、その威厳を示しながら大通りをゆっくりと教会に向かって行進する。
その数およそ三百。
神兵は上半身裸で、下半身は白色の布を巻いて隠し、腰に巻いたベルトに剣を下げ、そして裸足だった。
そのザラザラとした体毛のない緑色の皮膚。
その体は鋼のような筋肉に覆われ、隆々と盛り上がった腕や足の筋肉は、この世界を支配する者に相応しい絶対的な力を示しているのだった。
兎人にとって神兵たちは分厚く高い壁のように見え、その威圧感は、沿道の人々に腹の底から湧き起こる恐怖と、畏怖の念を抱かせるものだった。
神兵は前と後ろの二つの隊に分けられ、その間を、台車に載せられた白と金を基調とした美しい輿が威風堂々とゆったりと進んでいる。その美しい輿にゆったりと胡座をかいて座り、沿道の霊兎たちを見下すように眺めているのが、黄色の肌色をした爬神官だった。
沿道で爬神族使節を迎えている人々の多くは、年寄りや女性、子供たちだった。
ただし、乳飲み子を抱えた母親はいない。
赤ん坊が泣いて行進の威厳に傷をつけてはならないからだ。
ザッ、ザッ、ザッ・・・
爬神族使節が南側の大通りから教会前広場に近づいて来ると、教会前に集まる住民たちにも緊張感が漂い始める。
その住民たちの中に、タヌとラウルの姿はあった。
テムスとラーラは教会堂の入り口前に設置された檻の近くで、近くとは言ってもそれなりに離れてはいるのだが、できるだけナーラの近くにいたいということで、二人は教会堂近くの人混みの中から檻の中のナーラを見つめているのだった。その顔に至福の笑みを浮かべて。そこに、愛する娘の幸せを祝福しようとする親の想いがあった。
タヌとラウルはそんな二人の姿が見ていられず、二人から離れ、広場全体が見渡せる場所を探して人混みを掻き分けていた。
その間も爬神族使節は教会に一歩一歩近づいて来る。
「あれ、今の人・・・」
人混みの中ですれ違った人物に、タヌはただならぬものを感じて振り返った。
「なんだ、今の」
ラウルも何か感じたようだ。
「もの凄い殺気だった」
そう言って後ろを振り返り、人混みの中の一点を見つめるタヌの目には、薄汚れた老人の背中が映っていた。
「あのじぃさんだよな」
ラウルも同じ人物の背中を見つめている。
「大丈夫かな」
タヌはふと心配になる。
「うーん」
ラウルが判断しかねていると、突然、
「おい、お前ら!タヌ、ラウル!また会ったな!」
人混みの中から呼びかけられ、声に振り向くと、そこに人混みを掻き分けギルが現れた。
その後ろにはヒーナの姿もある。
「あっ」
タヌは驚いて目を丸くした。
あのときの亜麻色の霊兎に、こんなところで会えるとは思ってもみなかった。
「ギルじゃないか」
ラウルはすぐに声をかけた。
「こんなところで会えるとはな」
ギルはそう応えて気さくな笑顔をみせる。
人の縁とは不思議なものだ。
あれ以来初めて会うというのに、もう旧知の仲のように言葉を交わしている。
ヒーナはタヌと目が合うと、頬を赤らめて恥ずかしそうに俯いた。
二人は仲間と一緒だった。
一緒にいるのはパパン、グラン、キーナの三人だ。
タヌとラウルが三人に軽く右手を上げて挨拶をすると、三人も愛想笑いを浮かべ、右手を上げてそれに応えた。
「ギルも見物?」
タヌが訊くと、
「ああ」
ギルはそれを認め、それから、
「それよりお前たち、険しい顔してたけど何かあったのか?」
と尋ねた。
その質問にタヌは真顔になると、
「今、ものすごい殺気を放っている人とすれ違ったんだ」
と答えて表情を曇らせ、
「あれはちょっとまずいと思う」
ラウルも眉間に皺を寄せる。
「献上の儀式だぞ。そんな奴がいて大丈夫なのか」
ギルは二人の深刻な表情に危機感を覚える。
「うーん」
タヌは宙を睨む。
そして、
「大丈夫じゃないような気がする。あれは死を覚悟した殺気だと思う」
タヌが難しい顔をして告げると、
これは大変だ・・・
ギルはそう直感した。
「献上の儀式どころじゃないな」
ギルが言うと、
「うん」
タヌは頷き、
「やばいと思う」
ラウルは事態の深刻さを口にする。
時間がない・・・
それは三人の共通の認識だった。
「どんな奴だ?俺たちも探すから」
ギルは二人にそう言いながら、ヒーナ、パパン、グラン、キーナに目配せをする。
みんなでその人物を見つけ出すぞ・・・
そういう目配せだった。
「くすんだ灰色の、よれよれのおじぃさん。でも、その殺気からすると只者じゃない」
タヌがそう説明すると、ギルはピンと来てヒーナと目を合わせた。
ヒーナもすぐにピンと来たらしい。
二人の後ろに立つ三人も「あっ」と小さな声を上げて顔色を変えた。
「どうしたの?」
タヌが尋ね、
「知り合いか?」
ラウルがそう言ってギルを真っ直ぐに見つめると、
「たぶん、知り合いだ」
ギルはそう答えて深く頷いた。
その横でヒーナも頷いていた。
「まじ?」
タヌとラウルは驚いて目を見張る。
「ここは俺たちに任せてくれ」
ギルはそう言うと、
「そのじじぃは、どっちに行ったんだ?」
すぐさまその老人の向かった先を尋ねた。
二人が「あっち」と言いながら、すれ違った先を指差すと、ギルは急いで老人を追い、その後をヒーナと仲間たちが続いた。
その一連の流れの中で、ヒーナはタヌの姿を確かめるかのように、一度後ろを振り返ってから、ギルの後を追って人混みの中に消えていったのだった。
そんなヒーナの仕草にタヌはまったく気づいていなかった。
爬神族使節が広場に入って来ると、教会堂入り口の階段下で整列していた兎神官たちは視線を下げ、礼の姿勢で使節一行を迎えた。
イスタルの統治兎神官であるコンランだけは座ったままだ。
爬神族使節は檻の前で真ん中に通路を作って整列し、その通路を通ってやって来た輿が檻を前にして止められる。
爬神官の乗るその輿を運んでいた神兵たちが下がるのを確認してから、コンランは椅子から立ち上がるのだった。
その様子を、バケじぃは広場の人混みの最前列で、じっと睨みつけるように見ていた。
時は近い・・・
バケじぃは深い呼吸をし、気持ちを鎮める。
爬神官はゆっくりと輿から降り、無表情で檻の前に立った。
それから教会堂の入り口に立つコンランに視線を向ける。
コンランはしっかりと爬神官と目を合わせ、静かに礼を返す。
二人のやりとりはこれで終わりだった。
特に言葉を交わすこともない。
タヌとラウルは教会堂前の様子が良く見える、広場沿いの三階建ての建物の屋根に登って、そこから見下ろすように儀式の様子を眺めていた。
檻の前に立つ護衛隊隊長が一歩前へ出て、
「ドラゴンへ捧げる献身者を、ここに献上いたします」
そう声を張り上げ、深々と頭を下げた。
爬神官は目で微かに頷いて応える。
檻の中の白装束の献身者たちは、うつろな眼差しで爬神官を見つめていて、その中に、ナーラの姿はあった。
ナーラの顔に感情はなく、精気も感じられない。
あの表情豊かなナーラの面影はどこにもなかった。
献身者たちは献上の儀式のために一ヶ月前から身を清められる。
それは体を清めるだけでなく、感情を、心を奪うものだった。
一ヶ月、たった一ヶ月のことなのに、人はこうも変わり果ててしまうのか。
タヌは檻の中でぼーっと突っ立っているナーラを見て愕然とした。
—タヌー、ラウルー!
思い出すのはナーラのあの可愛らしい柔らかな声、そして誰にでも優しい人懐っこい笑顔だった。
タヌの心はかけがえのないものを失ってしまった悲しみで張り裂けそうだった。
五年前、ラドリアの惨劇のあの日、タヌはラウルの父ハウルが檻の中に飛び込み、迷わず一人の女性を斬り殺す瞬間を目の当たりにしていた。
その女性は今のナーラと同じように、精気のないぼーっとした顔に笑みを浮かべているだけだった。
それがラウルの母ミーヤに違いなかった。
ハウルがどういう想いで愛する者を斬ったのか。
その理由がわかった気がした。
ハウルはそうすることで、この世界を拒絶したのだ。
あれから五年が経っても、世界は何も変わっていない。
今、タヌは教会前の光景を見つめていて、その目に映る人々はいつも通りの人々で、爬神族を畏怖し、そして、嬉々として崇めているのだった。
—ドラゴンと爬神族に身を捧げる喜びが、天国の門へと導いてくれる。
誰もがそう信じて疑わないのだ。
教会前広場に集まる群衆は、誰もが檻の中の白装束の人々を〝神に選ばれし者〟として祝福している。
みんな笑顔だし、喜びの涙を流している者までいて、〝献身者〟に選ばれた人々を妬んでいる者さえいるほどだ。
おかしいよ、こんなこと。絶対、おかしいよ。なぜ誰も気づかないんだ。この世界はこんなにも狂っているというのに・・・〝当たり前〟が真実を見ることを邪魔している。思い込みが俺たちから感受性を奪い、思考を停止させ、この狂った世界を当然のこととして受け入れさせているんだ・・・
タヌは怒りの眼差しで神兵たちが整列する教会前広場の光景を睨みつけていた。
でも、このままでいいはずがない!この世界は間違ってる!みんなが当たり前だと思っているこの世界は、絶対に当たり前なんかじゃないんだ!・・・
タヌはこの憤りをどこにぶつけていいかわからなかった。
ラウルも想い一緒だ。
その眼差しは怒りに満ち、そして悲しみで溢れていた。
ラウルは行き場のない怒りに体を震わせながら、ナーラの姿をその目に焼き付けていた。
二人はナーラからもらったバンダナを、震えるほどの力で握り締めていた。
「生命の水を」
爬神官がそう告げると、すぐさま、
「生命の水を降ろせ!」
爬武官は後方で待機している神兵たちに向かって叫んだ。
その指示により、生命の水の入った樽の山が、神兵数人がかりで荷車から降ろされる。
群衆はその光景を静かに見守っている。
荷車に載せられた樽がすべて降ろされると、爬神官は献身者たちに向かって言葉をかける。
「神へ命を捧げるその行いは尊い。その清らかな心が、神の使いであるドラゴンの血となり肉となるのだ。世界はいつまでも平和であるだろう」
爬神官はそう告げると両手を天高く掲げ、目を閉じ、神への祈りを捧げた。
コンランは爬神官に向かって深く礼をする。
それが献上の儀式の終わりの合図だった。
儀式はこの後、献身者が袋に詰められて終わることになるのだが、その前に、爬神官は輿に乗り、ゆっくりと引き上げていった。
そして最後に、神兵たちによって献身者が袋に詰められることになる。
バケじぃは目を閉じたまま、腰に下げた剣の柄にさりげなく手を掛けた。
いよいよじゃ・・・
バケじぃは覚悟を決め、パッと目を見開いた。
「よっしゃー!」
そう叫びながら、バケじぃは鬼の形相で人混みから飛び出した。
ドサッ!
飛び出した瞬間、バケじぃは足をかけられ、顔から地面に叩きつけられていた。
「おい、じじぃ、『よっしゃー!』じゃねえんだよ」
そこにいたのはギルだった。
その横に、ヒーナ、パパン、グラン、キーナも立っている。
「お前たち・・・」
バケじぃは顔を地面に強かぶつけ、鼻から血を流していた。
バケじぃは痛みに顔をしかめ、子供たちから顔を背ける。
「じじぃ、何考えてんだ?」
ギルがそう言うと、バケじぃは我に返ったのだろうか、その顔がみるみる恥ずかしさで赤くなる。
子供たちに見透かされてしまっては死に様をみせるどころではなかった。
わしはマヌケじゃ、なんてマヌケなんじゃ・・・
バケじぃは心の中で自分を罵り、自分の間抜けさを恨んだ。
「うるさいわ!」
バケじぃはそう怒鳴ると、ギルたちに顔を向けることなくヨロヨロと立ち上がり、そのまま肩を落として人混みの中に消えていった。
その落胆したバケじぃの背中を、ギルたちはほっとした様子で見つめるのだった。
献上の儀式は最後の作業に入っていた。
神兵の持つ袋に献身者が一人ずつ詰められていく。
その袋は生命の水によって清められた袋だった。
その袋に詰められた霊兎は、神聖さを保ったままリザド・シ・リザドへ運ばれるということだった。
「ナーラ!」
教会前の人混みの中から、テムスの声が聞こえた気がした。
そのとき、一人の神兵が片手でナーラの両足を鷲掴みにすると、ナーラを逆さにして高々と掲げてから、ゆっくりと袋の中に詰め込んだのだった。
ナーラは無表情な顔の口元に微かな笑みを浮かべたまま、嫌がることなく袋の中に消えていった。
タヌとラウルはそのナーラの最後の姿を、激しい憤りと共に目に焼き付けていた。
「絶対に、許さない・・・」
タヌは怒りで声を震わせた。
「この世界を、ぶっ壊してやる・・・」
ラウルは吐き捨てるようにそう言って、ナーラからもらったバンダナを強く握り締めるのだった。
これが二年前、タヌとラウルに起こった出来事だった。




