〇五一 その幸せは幸せといえるのか
眺める景色は柔らかな陽射しの下でいつもと何も変わらない。
そよ風に木々の枝葉が微かに揺れていて、見上げる空は青空で、千切れた雲がのんびりと風に吹かれ流れていく。
タヌとラウルはヒシリウ川の土手に横になって、言葉なく雲の流れを目で追っていた。
肌を撫でるそよ風の感覚。
陽射しは暖かで、ぽかぽかとした陽気は人を幸せな気分にさせるものだ。
しかし、この日の二人の胸に溢れるのは寂しさだった。
「明日にはナーラ、いなくなっちゃうんだね」
タヌがポツリと呟く。
ラウルはそれには応えず、ただ空を眺めている。
一ヶ月後の献上の儀式に備えるために、ナーラは明日から施設にある神殿で生活することになっている。
だからこの日がナーラにとって親子水入らずで過ごせる最後の日だった。
タヌとラウルは、テムス、ラーラ、ナーラの三人に、親子だけの時間を過ごしてもらおうと朝早く家を出たのだった。
「俺はナーラを祝福する」
突然、ラウルがそう宣言した。
「えっ」
タヌが驚いてラウルに視線を向けると、
「俺たちにできることは、それくらいだよ」
ラウルはそう言って空を睨むように見る。
タヌは何か言いたいのだけど、言葉が出てこなかった。
ラウルは言葉を続け、
「ナーラが天国に行けるのなら、それはやっぱり祝福すべきだと思うんだ。ナーラと会えなくなるのは寂しいことだけど、ナーラの幸せそうな顔を見ていると、やっぱり喜んで送り出すべきだと思う」
と、自分に言い聞かせるように言うのだった。
ラウルの言いたいことはよくわかる。
しかし・・・
タヌは目を閉じ、呼吸を整える。
そして声を絞り出すように、
「俺には、ナーラの死を、祝福することなんてできない」
そう言って、ぐっと歯を食いしばるのだった。
絶対に、祝福することなんてできない・・・
風はそよそよ川面を渡る。
時間は静かに流れてゆく。
タヌはじっと考える。
タヌは今まで胸に秘めていたことを、今、ラウルに伝えるべきだと思った。
「ラウル」
タヌは空に向かって呼びかける。
「なに?」
ラウルも空に向かって返事を返す。
「実は俺、ラウルの父さんに会ったことがあるんだ」
タヌは努めてさらりと言う。
「えっ」
それは驚きというより、衝撃だった。
今までタヌの口から父ハウルのことを聞いたことがなかったからだ。
だから、聞き違いじゃないかとさえ思った。
ラウルは唖然とした顔でタヌを見つめた。
そんなラウルを横目に見て、タヌはふと笑みを浮かべる。
「あの献上の儀式の前に、一度だけ」
タヌはその時のことを思い出すように空を見つめる。
「嘘だろ・・・」
タヌが嘘をつくとは思わないけど、それでも信じられないことだった。
「ラウルの父さんが使った剣は、俺の父さんが打った剣なんだ」
タヌは誇らしげにそれを伝えた。
それを聞いて腑に落ちるものがあった。
「そっか・・・それで謎が解けたよ。あの剣を父さんがどこで手に入れたのか気になってたんだ」
ラウルはずっと心のどこかで引っかかっていた謎が、こういう風に解けるとは思いもしなかった。父ハウルがタヌの父ナイの打った剣で戦ったと思ったら、得体の知れない感情に胸が震えるのだった。
そしてなにより、タヌが自分の父親を知っていることが嬉しかったし、それでいて恥ずかしような、そんなくすぐったい気持ちにさせられるのだった。
「それで言葉を交わしたことがあるんだ」
タヌはしみじみとした口調で、ハウルとの出会いをラウルに話して聞かせた。
タヌはそのときのことを思い出す。
—もし、君がいつかラウルって名前の男の子に出会うことがあったら、仲良くしてくれるかな。
ハウルの優しい笑顔。
—ラウルと君なら、きっと同志になれると思う。
頭を撫でるハウルの大きな手。
—君とラウルが一緒なら、きっと世界を変えられると思う。
ハウルの深い眼差し。そして、その想い。
今ならわかる。ハウルが自分に託した想いが何なのか。
ラウルはタヌの口から父ハウルのことを聞かされ、驚くとともに、今まで自分が父ハウルに対して持っていたわだかまりが解けていくのを感じるのだった。
「父さんは本当に、俺とお前なら世界を変えられるって言ったのか」
ラウルが目を潤ませ、空に向かって尋ねると、
「うん」
タヌは空に向かって頷いた。
ラウルの胸に熱いものが込み上げてくる。
—いいか、お前はお前の体を流れる血のために戦うんじゃなくて、お前の信じるもののために戦えばいいんだ。
父ハウルの穏やかな笑顔が目に浮かんでくる。
その声音の温かさに、あのときは気づくことができなかった。
—お前が心の底から守りたいものができたとき、何を信じればいいかわかる。
その言葉の奥にある父ハウルの想い。
今ならわかる。
言葉じゃなく、命懸けで世界に立ち向かう己の姿を通して、何かを感じて欲しかったということが。
そしていつか、世界の本当の姿を目にしたとき、そのとき、自分の信じるもののために戦って欲しい。
父さんはそう願っていたに違いない・・・
ラウルの目に、父ハウルの覚悟を決めた悲愴な眼差しが浮かんでくる。
「父さんは、気狂いなんかじゃなかったんだな。命を懸けて、この世界を変えたいと願っていただけなんだな」
そう思うと、ラウルは父ハウルを誇らしく思わずにはいられなかった。
それは、あの日以来初めて感じる父ハウルへの尊敬の念だった。
「俺の父さんもそうだった。この世界の理不尽さに憤っていたんだ。だから、父さんはハウルさんのことを同志だって言ってた。だから、一緒に戦うんだって」
タヌはあの日の父ナイの姿を思い出していた。
—タヌ、強くなれ。いいな。お前にはお前に与えられた宿命がある。そのために生きるんだ。
父の覚悟を決めた姿。
そこにあるタヌへの想い。
タヌの目から涙がこぼれる。
「あはは。ダメだ。父さんのことを思い出すと涙が出ちゃうよ」
タヌは照れ笑いを浮かべ、涙を拭う。
それは、ラウルも同じだった。
ラウルもそっと涙を拭い、タヌの方を向いて笑顔をみせた。
「俺もタヌの父さんに会ってみたかったな」
ラウルが残念そうに言うと、
「俺も会ってもらいたかったよ。俺にも同志ができたんだって言いたかった」
タヌはそう応え、同じように残念そうな顔をする。
「俺も父さんに伝えたかったなぁ・・・」
ラウルはしみじみとそう呟くと、胸に熱いものが込み上げて来るのをぐっと堪え、
「タヌ、話してくれてありがとう。俺、今まで父さんのことを受け入れられてなかったんだ。でも今は思う。父さんに謝りたいって。今まで父さんのことを信じることができなくてごめんって」
と、父ハウルへの想いを口にするのだった。
「ラウル、世界を変えよう」
タヌは力強くそう言いながら、体を起こした。
「うん」
ラウルも頷きながら体を起こす。
そのとき、ひゅーっと風が吹き渡り、土手に生える灌木の茂みがザワザワッとうるさく音を立てた。
それはまるで、ナイとハウルが二人の子供たちを祝福しているかのようだった。
暗くなってから、二人はテムスの家に戻った。
家の中に入ると、四角いテーブルの奥にナーラが座り、その左にテムスが、右にラーラが座っていて、にこやかに談笑していた。
二人が家の中に入ってくると、テムスは嬉しそうに声をかけた。
「ナーラと過ごす最後の夜なんだから、お前たちも一緒に話そう」
そう言って、テムスはテーブルの空いている一方に椅子を二脚並べておいた。
二人は素直に椅子に腰掛けた。
タヌとラウルの二人にとっても、ナーラと過ごす最後の夜なのは間違いなかった。
ナーラと過ごす時間は大切な時間だった。
「ナーラは小さい頃から優しい子で、天使みたいだったんだよ」
テムスは自慢げに言う。
「そうね。ナーラはまちがいなく私たちの天使だったわ」
ラーラも誇らしげに胸を張る。
タヌとラウルには、そんな二人の明るさが健気に見えた。
「そうかしら」
ナーラは照れ笑いを浮かべ、
「私は結構、悪戯ばっかりしてたと思うんだけどな」
そう言って肩をすくめる。
そんなナーラを愛おしそうに見て、
「それも可愛らしかったんだよ」
テムスはしみじみと言う。
「ナーラは私たちの自慢の娘。いつまでも永遠に私たちの自慢の娘よ」
ラーラもしみじみとした笑みを浮かべ、ナーラを包み込むような眼差しで見つめるのだった。
タヌは笑顔でその光景を見つめていた。胸を締め付ける悲しみをぐっと堪え、この穏やかな雰囲気を壊してはいけないと思った。
ナーラが幸せを感じている以上、ラウルの言う通り、嘘でも祝福すべきだと思った。
ナーラと過ごす最後の夜は、優しい笑顔と温かな想いに包まれ、たしかに祝福されたものになった。
別れの日の朝。
朝食後、テムスはナーラを抱きしめる。
「ナーラ、私たちはいつまでも一緒だからな」
テムスはナーラに笑顔をみせた。
テムスの温かな眼差し。
その滲み出る優しさ。
「ナーラ、あなたが私たちの娘で本当によかった」
ラーラも娘を抱きしめ、その抱きしめた腕の力に想いを込める。
「あなたと暮らした時間は、私たちにとってかけがえのないものよ」
そう言ってラーラは微笑んだ。
そのラーラの目からは止めどなく涙が溢れ出していた。
ナーラは二人に優しく微笑み返す。
子供の頃の無邪気な日々。パパとママの自分を見つめる愛情一杯の眼差し、そして笑顔。どれもがキラキラと輝いている。ソドスを紹介したときのテムスの狼狽える様子は今思い出しても微笑ましい。共に生きた時間。家族であることの喜び。かけがえのない思い出。パパとママの娘として生まれて来て本当に良かった。二人と過ごした時間は私の宝物。
「パパ、ママ、ありがとう」
微笑むナーラの目からも涙が溢れていた。
「タヌ、ラウル、パパとママのこと、よろしくね!」
ナーラは涙を流しながらも、最後まで無邪気な笑顔をみせた。
「心配いらないからね」
タヌは込み上げてくる感情をぐっと抑え、力強く胸を張ってみせた。
「うん」
ラウルはただ頷くことしかできなかった。
これはあのときの光景だ・・・
ラウルの胸は震えていた。
これは、母ミーヤとの別れの日の光景だった。
あのときの泣きじゃくる自分の姿。あのとき感じた胸を締めつける悲しみ。それでも、天国に行けるからと母ミーヤを祝福していた自分。
テムスおじさん、ラーラおばさん、そしてナーラ。これでいいの?本当にこの別れは正しいことなの?天国なんて行かなくても、ここで一緒に過ごす時間こそ幸せなんじゃないの?
それはあのときの自分たちに対する言葉でもあった。
ラウルは握った両の拳に力を込める。
「俺、外の様子見てくるね」
ラウルはいたたまれなくなって、外に飛び出した。
タヌはラウルの様子がおかしいことに気づき、
「ラウル」
と、その背中に向かって声をかける。
ラウルにはそんなタヌの声も耳に入らなかった。
ラウルは家の裏手にある雑木林の中を、当て所なく無我夢中で走った。
涙で景色が霞んでくる。
俺が信じていたのは、こういうことだったんだな。天国に行けるから幸せだって、馬鹿みたいに思い込んでいたんだな、俺は・・・
ラウルは母ミーヤの温かな笑顔を思い浮かべ、そして、父ハウルの逞しい眼差しを思い出していた。
貧しくても、幸せだった日々。
父さん、母さん・・・
ラウルの目から涙が溢れ出し、もう何も見えなくなる。
ラウルは倒木にぶつかって落ち葉の中に倒れ込むと、頭を抱えるようにしてうずくまり、声を上げて泣いた。
「パパ、ママ、天国に先に行ってるね」
ナーラは明るくそう言って笑う。
それはとびきり可愛らしい笑顔だった。
「ナーラ、パパが天国に行ったら、ちゃんと見つけてくれよ」
テムスは笑みを浮かべ、ナーラの美しい白髪をやさしく撫でる。
ラーラは気持ちを落ち着けるように大きく息を吸ってから、
「ママのこともちゃんと見つけてね」
満面の笑顔でそう言葉をかけた。
「もちろんよ。パパとママが来たらすぐに会いに行くわ。私が天国を案内してあげる。だから、パパもママも私のことちゃんと覚えていてね」
笑顔のナーラの目から涙が溢れ出す。
「もちろんだとも」
そういうテムスの目からも涙が溢れ出した。
「ナーラのこと、忘れるわけないじゃない」
ラーラはそう言うと、娘を抱きしめ、肩を震わせ泣き出した。
そして、教会の使者がやってきて、ナーラはテムスの家からいなくなった。




