〇四〇 心に突き刺さった棘
五年間も逃げ続けている霊兎も驚きだが、その霊兎を五年間も監視団が追い続けているということに、タケルは何か大きなものを感じた。
いったい何をしたんだ、その霊兎は・・・
「逃げた霊兎といっても、その頃はまだ子供だったんだよ。五年かかってもその逃げた子供二人を見つけられないんだから、蛮兵たちがイライラするのもわからなくもないねぇ。今更見つかるとは思えないんだけどさ。ご苦労なものだねぇ」
老婆はそう説明し、蛮兵たちを憐れんでみせた。
「へぇー、子供なら見逃してやればいいのに」
タケルは子供が大それた罪を犯すとは考えられず、その逃げた二人が五年も追われていることに首を傾げる。
老婆はそんなタケルの解せない顔を見て笑顔になると、「それがさ」と言って手招きをするような仕草をしてから、訳知り顔で、
「七年前にラドリアの惨劇ってあっただろ。噂では逃げた霊兎ってのが、あの気狂い二人の子供なんだってさ」
と、嬉々として逃亡した霊兎の素性を知らせるのだった。
「えっ・・・」
タケルは耳を疑った。
あのラドリアの惨劇の霊兎にまつわる話を、この飴売りの老婆の口から聞くことになるとは思ってもみなかったからだ。
あの二人の霊兎には子供がいた・・・
そのことにタケルは驚いた。
あの惨劇には続きがあったのだ。
タケルの後ろで話を聞いていたアジとサスケも驚いていた。
驚き、宙を睨む三人を見て、老婆は自分が何か言ってはいけないことを口走ってしまったのではないかと不安になる。
「私、なにか悪いこと言ったかい?」
老婆は恐る恐る尋ねる。
タケルは老婆のその怯えた声に我に返ると、
「いや、そうじゃないんだ。ラドリアの惨劇はあれで終わりだと思ってたから、ちょっと驚いただけなんだ」
そう説明し、老婆に優しく微笑んだ。
タケルの笑顔に老婆は胸を撫で下ろす。
「おばちゃん、その二人の子供は何で追われてるの?」
タケルは淡々と尋ねる。
平静を装ってはいるものの、内心は穏やかではなかった。
七年前、ラドリアの惨劇のことを知らされたときの、あの衝撃を思い出し胸が熱くなっていた。
「詳しくは知らないんだけどね、二人は罪を犯して、それで、監獄に移されるってときに、蛮兵を何人も斬り殺して逃げたんだってさ。気狂いの子供はやっぱり気狂いなのかしらね。恐ろしい話だよ」
老婆は大袈裟に怯えながらそう言い、そう怯えてみせることを楽しんでいるように見えた。
ラドリアの惨劇の二人。
そして、逃亡者として追われる二人の子供たち。
それは老婆にとっては現実味のない話であって、あくまで他人事として楽しむような話でしかないのだろう。
「その二人の子供たちがイスタルにいる可能性があるんだね」
タケルはワクワクしながら確かめる。
「さぁ、どうだろうねぇ・・・そうかも知れないし、そうじゃないかも知れない。それは私には何とも言えないねぇ。私は蛮兵がピリピリしていることにも気づかなかったくらいだから、蛮兵が何にピリピリしているかなんて、想像もつかないよ」
老婆は自分の無知を恥じるようにそう答え、小刻みに首を横に振った。
「そうですよね」
タケルが優しく老婆に微笑むと、その背後から、
「おばちゃん、その逃亡中の子供たちの髪色は何色なの?」
アジが興味津々の眼差しで二人の髪色を尋ねた。
アジのその質問にタケルの表情がパッと明るくなる。
さすがアジだ。
いいところを突いてくる。
二人が何色の霊兎かわかれば、どこかですれ違ったときに気づくことができるかも知れない。
「それを聞いてどうするのさ」
老婆は怪訝な表情でアジに目を向ける。
「もし見つけたら、監視団に知らせるのさ」
アジが迷わずそう応えると、
「なるほどねぇ」
老婆はあっさりと納得し、
「一人は赤毛で、もう一人は薄灰色らしいよ」
そう二人の髪色を教えてくれた。
その老婆の言葉に、タケルの後ろ、アジの横でそれを聞いていたサスケは顔色を変えた。
朝、新世界橋でギルとすれ違ったとき、一緒にいた二人の霊兎は只者ではなかった。そして、髪色は赤褐色と銀色だった。
もしかしたら・・・
サスケは真顔で宙を睨んだ。
「あんたたち、もし見つけたら、わたしにも知らせておくれよ」
老婆は下品な笑みを浮かべ、タケルはそれに「もちろんだよ」と応える。
老婆に訊くことがなくなった三人は、リモン水を一気に飲み干して竹筒を老婆に返すと、その場を後にした。
「いやー、驚いた。あの二人の霊兎に子供がいたなんて。しかも、逃亡中だなんて凄いよなぁ。そんな大胆なことができるのはやっぱり血のなせる技だよな」
タケルは興奮気味に今の気持ちを言葉にする。
そんなタケルを、
「タケル、お前、気狂いの子供に興奮してどうするんだ。蛮兵たちに聞かれたら背信の罪で連行されるぞ」
アジが冗談めかしてたしなめると、タケルははっとして我に返り、
「あっ、そんなつもりじゃなかったんだけどな」
そう言ってバツが悪そうに頭を掻き、それから、
「たしかにアジの言う通りだ。俺たちにとってどうでもいいことだ。興奮するなんてバカげてる」
と、狂人の子供の逃亡劇に興奮したことを後悔した。
すると、
「俺は興奮したけどな」
タケルに自己分析までさせておいて、アジはあっさりそう言って悪戯っぽく笑う。
「おい!」
タケルは声を上げてアジの肩を叩き、
「アジはひどいよなぁ」
とサスケに同意を求め振り返ると、サスケはそれには応えず、
「もしかしたら、見たかも知れない」
宙を見つめ、そうポツリと呟くのだった。
「なにを?」
タケルはのんきに尋ね、サスケはタケルと目を合わせることなく、
「二人を」
と答えたのだった。
タケルとアジはその言葉に目を丸くして驚き、足を止めた。
「二人って気狂いの子供のことか?」
タケルは興奮して思わず大きな声を出してしまう。
「ああ」
サスケは頷き、
「嘘だろ」
アジは信じられないといった顔でサスケを見つめた。
「朝、新世界橋ですれ違った荷馬車の荷台に、あの亜麻色の霊兎を見たんだ」
サスケが朝の出来事を話し始めると、
「えっ」
タケルはまたしても驚いた。
「その亜麻色の・・・」
サスケが話を続けようとすると、タケルはそれを遮ってサスケの胸ぐらを掴んだ。
「サスケ!お前、亜麻色の霊兎って、あの霊兎だろ!なぜそのときに教えてくれなかったんだ!」
タケルは唾を飛ばしてサスケに怒りをぶつけた。
タケルは亜麻色の霊兎と聞いて我を忘れていた。
タケルにとって亜麻色の霊兎ギルから受けた屈辱は、あの日からずっと心に突き刺さって消えることのない棘だった。
七年前受けたその屈辱を、タケルは一日たりとも忘れたことはなかった。
いつか必ずもう一度ギルと戦って、その雪辱を果たさなければならない。
タケルにはそれしか自分の心に突き刺さった棘を抜く方法がなかったのだ。
そのためにこの七年間、厳しい修行を自らに課し、アジと共に武術の腕を磨いて来たのだ。
屈辱を晴らす千載一遇のチャンスだったのに、サスケはなぜすぐに教えてくれなかったのか。
タケルは憤り、狂人の子供のことなどどこかに吹き飛んでいた。
「サスケ、バカ!ほんとにバカだ、お前は」
タケルはいつもの落ち着きを失って、まるで子供のようにサスケをなじった。
アジも亜麻色の霊兎にボコボコにされた一人ではあったが、タケルほどの屈辱は感じていなかった。アジは亜麻色の霊兎と戦ったという実感がないくらいに、あっという間に倒されたからだ。
それよりも、サスケが見たという狂人の子供たちの方が気になっていた。
「タケル、落ち着け」
アジはタケルをなだめ、
「・・・」
サスケはタケルが落ち着くのを待った。
サスケがタケルの高ぶる感情に動じることはなかった。
サスケがそれをタケルに教えなかったのは意図したことだったからだ。
亜麻色の霊兎に対する屈辱はあくまでタケルの私怨であり、蛮兵の様子を窺うという本来の目的を果たすことが優先されるからだ。
黙って何も言わないサスケに、
「何か言ったらどうだ」
タケルが促すと、
「うん」
サスケは頷き、タケルの目をしっかりと見つめ、
「帰りに伝えるつもりだったんだ。どうせあいつはウオチにいるんだし、新世界橋で待っていれば間違いなく会えるだろうから」
と、朝伝えなかった理由を穏やかな口調で説明した。
サスケのその落ち着いた眼差しにスーッと吸い込まれるように、タケルはいつもの冷静さを取り戻す。
「ごめん」
タケルは取り乱したことを謝罪し、
「それもそうだな」
と、サスケの言い分に納得した。
タケルが機嫌を直すのは一瞬だ。
理解が早いし、理解すると態度を変えるのも早かった。
タケルが落ち着いたところで、
「お前が見たっていう二人のことを聞かせてくれ」
アジがそう言って逸れた話題を狂人の子供たちの方へ引き戻した。
「うん」
サスケは頷き、
「亜麻色の霊兎と一緒に二人の霊兎がいた。その二人がもしかしたら、あの二人かも知れない」
サスケは慎重に答える。
「その根拠は?」
タケルの表情が無意識に厳しくなる。
「俺が見た二人は子供じゃなかったし、赤褐色の霊兎と銀色の霊兎だった。だから断言はできないけど、逃亡から五年経ってたら、見た目も変わるだろうし、あの普通じゃない気配からすると、あのラドリアの惨劇の二人の子供と見ていいんじゃないかって思うんだ」
サスケは朝の光景を思い出しながら、その根拠を示し、
「そっか」
タケルはポツリと応え、片頬に微かな笑みを浮かべた。
亜麻色の霊兎と狂人の子供が一緒にいるなんて、まるで俺のためにお膳立てされたようなものじゃないか・・・
タケルはそう思った。
そして、背筋がゾクゾクッとするのだった。
七年前、亜麻色の霊兎から受けた屈辱と、ラドリアの惨劇から受けた衝撃は、タケルの心に屈折した形で跡を残していた。
霊兎族に対する複雑の思いは、霊兎族に対する憎しみを増長させ、霊兎族を蔑む気持ちを強くさせたのだった。
兎人を下等な存在だと見なしているタケルにとって、亜麻色の霊兎に恨みを晴らし、あの狂人の子供たちを自らの手で処分することは、心に突き刺さった棘を抜くことを意味するものだった。
七年という歳月は、多感な少年時代にあったタケルにとって、屈折するには十分長い時間だった。
「それじゃ、今すぐウオチに戻ろう」
タケルはそう言うと、踵を返して来た道を市場に向かう。
乗って来た荷馬車を市場の駐車場に停めてあるからだ。
「蛮兵たちのことはいいのか?」
アジがタケルの背中に向かって声をかけると、タケルは振り返り、
「ピリピリしてるのはあの狂人の子供たちのせいだろ。だから、もういいんだ」
と答え、背中を向けてさっさと歩き出す。
そんなタケルに、
「やる気満々だな」
アジは肩をすくめ、
「困ったものだ」
サスケは苦笑いし、二人は急ぎ足でタケルの後を追うのだった。
三人は新世界橋を渡りウオチ(サムイコク側)の検問所に預けていた剣を受け取ると、新世界橋の中央辺りまで引き返し、そこで亜麻色の霊兎と狂人の子供たちを待つことにした。




