〇三八 嫉妬の炎
「ムニム市場?」
セジは目を丸くしてタケルに聞き返す。
その顔は明らかに嫌そうだ。
アジとサスケも驚いたものの、表情を変えずにタケルの意図を探る。
クミコはヘイタの居眠りの方に気を取られていて、タケルの言葉を聞いていなかった。
「ああ。兎人の市場だ」
タケルはセジの嫌そうな顔を無視して爽やかに答える。
「なんで?」
セジは突然の話に困惑した。
今日畑仕事を頑張れば、しばらくは治安部隊の仕事に集中できると思っていたからだ。
セジは第十五部隊の隊長としての仕事にやりがいを感じているので、野良仕事や行商に時間を使うよりも、できるだけ武術や戦術の勉強に時間を使いたいのだ。
「俺たちの作った野菜が育つのには時間がかかるからな。今はとりあえず、人の作ったものを売りに行くしかないじゃないか」
タケルが平然と答えると、セジの頬がピクピクッと引きつった。
「そんなこと訊いてないよ。そんなことじゃなくて、俺たちは百姓じゃないし、商売人でもないんだよ。なんでそんな毎日毎日空いた時間を見つけて、余計なことしなきゃいけないんだよ」
セジは納得できない気持ちを不機嫌にタケルにぶつけた。
セジにとって畑仕事はそれなりに楽しくはあるけれど、それでも、治安部隊の仕事の方が重要だった。
セジのイラついた声に、セジの隣でウトウトしていたヘイタが目を覚ました。
「そうだよなぁ」
タケルはため息交じりにそう応え、セジの不満を受け止める。
タケルもセジの気持ちがわからないわけではない。
セジが農作業よりも治安部隊の仕事を優先したがるのは理解できる。
しかし、セジは治安部隊の一つの部隊を率いる隊長だ。
住民の生活を理解し、心を理解しなければ、事に当たって正しい判断を下すことはできないだろう。
タケルはそう考えているから、セジの不満は理解しつつも、自らの考えを撤回することはない。
タケルは必要のないことをやらせるような人間じゃない。
アジにはそれがわかっている。
だから、
「セジ、タケルにはちゃんと考えがあるんだ。今は無駄に思えることも、いつか、必要なことだったってわかる時がくるさ」
アジはそう言って理解を求め、それにに合わせ、サスケが左手でセジの右肩を軽く揉んでセジの気持ちの高ぶりをなだめるのだった。
三人がかりで丸め込もうとしても無駄だ・・・
セジは心の中でそう吐き捨て、サスケから顔を背けてヘイタの方に顔を向ける。
すると、ヘイタはキョトンとした顔でセジを見つめているのだった。
「なんだ、ヘイタ」
セジが思わず声をかけると、ヘイタはニンマリと笑顔になる。
「セジ兄ちゃん、子供みたい。ダメだよぉ、駄々こねちゃ」
そう言ってヘイタはニヒヒッと笑う。
セジはそれに言い返すことができず、目をパチクリさせるだけだった。
それを見たみんなは声を出して笑った。
「あはは」
「ははは」
「うふふ」
その場が笑いに包まれ、場の空気が明るくなる。
セジはヘイタにたしなめられたことが恥ずかしくて顔を赤くした。
「ヘイタ、セジは駄々をこねてるわけじゃないんだぞ。他にも仕事があって忙しいから、そっちの仕事がしたいだけなんだ」
タケルがセジをフォローすると、
「そう。俺には他に大切な仕事があるんだ。だから駄々をこねてるわけじゃないんだよ」
セジはすかさずヘイタにそう言い聞かせる。
しかし、
「ふーん」
ヘイタは気のない返事を返すだけだった。
そんな和やかな空気の中、
「で、何か気になってるんだろ」
アジがそう言ってタケルに目を向け、
「この間の話か?」
と投げかけた。
最近、イスタルでは夜しか巡回していなかった蛮兵たちが昼間もウロウロしているという。アジはタケルと一緒にその話を執務室で聞かされていた。
「うん。なぜ蛮兵たちがピリピリしているのか、それが気になるんだ」
タケルは正直にそう答え、
「そう想ったよ」
とアジは納得した。
そのことは当然、セジやサスケも知っている話だ。
「なるほど。そういうことか」
サスケが相槌を打つと、
「サスケはどう思う?」
と、タケルは意見を求めた。
「そうだな・・・」
サスケは俯きがちに宙を睨み、少し考えるようにしてから顔を上げてタケルを見つめると、右手で顎を擦りながら、
「うまく言葉にできないんだけど、何か嫌な予感はするかな。それが俺たち賢烏族に影響することかはわからないけど」
と、自らの感じることを率直に伝えた。
「うん」
タケルはその意見に感謝するように頷き、
「いずれにしろ、橋を渡れば雰囲気から何かを感じることができると思うんだ。商人たちから上がって来る情報だけでは空気感は伝わってこないからな」
と、イスタルへ渡ることの意義を強調した。
「それなら視察許可を取った方が早いよ」
セジはすかさずそう提案する。
たしかにセジの言う通り視察許可を取れば、わざわざ果樹園でミコンの収穫作業をする必要もないし、市場でそれを売るふりをする必要もないわけだから、そっちの方が断然早いし効率的ではある。
「視察で入ったら警戒されるからダメだ」
そう反論したのはアジだった。
「まったくその通りだ」
タケルはアジに同意して頷く。
「そっかなぁ」
セジは納得できずに首を傾げる。
そんなセジにタケルは厳しい目を向ける。
「それはそうだろう。兎人は未だに俺たち烏人を信用していないんだからな。視察で行ったら、奴らは我々を疑いの目で見るはずだ。しかもそれで顔を覚えられたら、その後ムニム市場に行商人として入ることも難しくなる。そんなことになったら元も子もないだろ。今後もますますイスタルとの交易が大切になってくるのは間違いないんだし、兎人をうまく利用するためにも、兎人に疑われないようにすることが重要なんだ。知るためには、その空気の中に溶け込まなければならない。そのための行商だ。あいつらは臆病で我々に対しての警戒心が強いから、安易に視察なんてやったらダメだ。生きた情報を得るには、それだけ手間を掛けなきゃ」
タケルはそう熱く語り、
「さすがタケルだ」
アジは感心したが、セジはそれでも納得できなかった。
「利用するために相手を知るとか、めんどくさいよ。言うこと聞かない奴は力でねじ伏せればいいじゃないか。それが爬神教の教えだろ。いちいち兎人の顔色を窺ってコソコソやるのは力のない奴がすることじゃないのか。コソコソ情報収集するより、治安部隊を強化する方が正しいと思うけどね」
セジはそう反論した。
「なるほど」
タケルはそう言うだけで言い返すことはしなかった。
たしかにセジの言い分もわからなくもない。
しかし力を振りかざせば、相手はそれを警戒し、表向き協力しているようにみせて、実際はこちらを欺くことをするだろう。力でねじ伏せれば、相手は従う振りをして、こちらの足を引っ張るような行動を取るはずだ。
相手をこちらの意のままに動かしたかったら、相手の懐に入り、こちらの意図に気づかれないようにして、相手を導かなければならないのだ。
セジは人の心を見ていない。
タケルはその点を今この場でセジに指摘しようとは思わなかった。
今のセジには何を言っても通じないような気がしたからだ。
タケルが黙ると、気まずい沈黙が訪れた。
その気まずい沈黙をどうにかしようと口を開いたのはクミコだった。
「お兄様、私たち烏人は、兎人と素直に仲良くすべきだと思いますわ。同じ人間じゃないですか。利用するとか、力でねじ伏せるとか、そんなんじゃなくて、お互い助け合って生きていくべきだと思います」
クミコは女性の視点でそう意見を述べた。
クミコは兎人が嫌いではなかった。
賢烏族と霊兎族ではいろいろ違うところはあるけれど、同じ人間なんだし、お互いを理解し合うことができれば、お互いを好きになることができるはずだ。
クミコはそう信じているのだった。
タケルはクミコの優しい性格を嬉しく思いながらも、
「人間とはいえ、あいつらは下の下だからな。爬神様に飼いならされた家畜と言っても過言ではないだろう。そんな下等な奴らは利用する価値はあっても、助け合う存在ではない」
そう言って、あっさりとクミコの意見を一蹴した。
タケルはそもそも兎人を人間だと思っていないから、タケルの心にクミコの言葉が響かないのも無理はなかった。
「お兄様、それはひどい言いようだわ」
クミコは悲しい目をして言い返す。
クミコのその非難の眼差しに、タケルは気まずくなってアジに助けを求める。
「アジ、お前もそう思うだろ?」
タケルが同意を求めると、
「思わん。クミコの言う通りだ」
アジはきっぱりと答え、それからクミコを見て悪戯っぽく笑うのだった。
「おい!」
タケルは思わず声を荒げる。
「ほら、お兄様、アジもそう言っています。心を改めてください」
クミコは笑顔でタケルに改心を求める。
クミコの純真な笑顔にはタケルも敵わない。
「アジはひどいなぁー」
タケルはそう嘆いてアジを恨めしそうに見るのだった。
「七年前、俺はあの亜麻色の霊兎に手も足も出なかった。だから、あまり兎人をバカにしたことは言えないんだ」
アジが情けない自分を笑いながら、そんな風に言い訳をすると、
「それを言うなら俺もそうだけどな」
タケルはそう応じ、そして、七年前のあのときの光景を思い浮かべるのだった。
それはタケルにとって許しがたい屈辱の光景だった。
—悔しいか。俺ならいつでも相手になってやる。俺の名前は、ギルって言うんだ。しっかりと覚えておきな。
薄れゆく意識の中で、あいつは吐き捨てるようにそう言うと、高笑いしながら野次馬の人混みの中に消えていった。
その光景を思い出す度に、タケルの胸にあのとき感じた屈辱感が蘇ってきて、そしてそれは激しい怒りへと変わるのだった。
「俺たちだって、爬神様に飼いならされた家畜と変わらないさ・・・」
突然そう呟いたのはサスケだった。
その言葉にタケルは強く反発した。
「それは違うだろ。俺たちは爬神様の力の信奉者であって、自分たちの意志をちゃんと持っている。兎人の献身者たちはただドラゴンに捧げられる存在だが、我々の奉仕者たちは自らの意志をもって神に仕えているんだ。烏人には意志があり、兎人にはそれがない。実際、賢烏族はそれぞれの国が独立し、それぞれに意思決定を行っている。だからこそ、それぞれの国の間で摩擦も起こる。しかし、霊兎族にはそれがない。ラドリアにいる最高兎神官とやらが、爬神様の意向を忖度してすべてを決め、民はそれに盲目的に従うだけだ。意志を持たない奴らは家畜と呼ぶに相応しい存在だ。俺たち烏人を家畜呼ばわりするのはサスケでも許されないぞ」
タケルは強く主張し、怒りの眼差しでサスケを睨む。
だが、サスケが動じることはない。
サスケは静かにタケルを見返すと、
「七年前、ラドリアで二人の霊兎が爬神様に剣を抜いた。そして、数十名にもおよぶ爬神様と蛮兵が斬り殺された。俺たちにそれができるだろうか」
穏やかな表情でそう投げかけ、
「それは・・・」
タケルはそれに反論することができなかった。
—それは気狂いだからできたことだ。
そう応えられない自分がいた。
押し黙るタケルに代わって反論したのはセジだった。
「そんなことできるわけないじゃないか。爬神様を襲った二人の霊兎は頭がイカれてたんだから。サスケ、それは愚問だよ、愚問」
セジはそう言って二人の間に割って入り、サスケの問いかけを鼻で笑った。
サスケは呆れたようにセジを一瞥しただけで、何も言わなかった。
「そんなことよりさ」
セジは場を和ませるような軽い口調で切り出し、
「聞きたいことがあるんだけど」
そう言ってクミコに目を向けた。
「なに?」
クミコも場の空気を察して明るく返事を返す。
「東地区の元老家と縁談があるってほんと?」
それはクミコにとって予期しない質問だった。
クミコは横目でチラッと隣に座るアジを見てから、
「知らないわ」
顔を赤くしてそう答え、セジにそっぽを向いた。
そんなクミコに代わって、
「クミコは縁談に見向きもしないんだ」
とタケルが返事をし、困ったような顔をする。
セジは嬉しさを隠さない笑みを浮かべ、
「クミコ、今嫁に行かないと誰ももらってくれないぞ」
そう言ってクミコをからかった。
「セジったら、嫌なこと言うわね」
クミコはへそを曲げる。
そんなクミコの隣で、
「でも、クミコが嫁に行ったら寂しくなるな」
アジはしみじみとそう呟いた。
子供の頃からずっと一緒で、兄妹のように過ごしてきたクミコが嫁に行ってしまうのは、やはり寂しいものだ。
ただでさえ美しくなったクミコを見るたびに、クミコが嫁に行く日のことを想像し、もう二度と会えなくなるんだなと、そんなことを思って寂しい気持ちになるというのに、実際にクミコに縁談の話題が持ち上がると、それが現実味を帯びて感じられ、しみじみとした気持ちになるのだった。
「ほんと?」
クミコは嬉しそうにアジに振り向き、その顔を近づける。
アジはその美しい顔を目の前にしてドギマギとしてしまう。
「ほんとだよ、な」
アジは照れ隠しにそう答えながら、セジやサスケに同意を求めるのだが、胸を打つ鼓動の高鳴りがみんなに聞こえてしまうんじゃないかと、心中穏やかではなかった。
恥ずかしそうにするアジを見て、クミコはなんだかくすぐったい気持ちになり、
「じゃ、アジが私をお嫁さんにして」
そう思わず口走ってしまうのだった。
「あっ・・・」
言ってから自分で驚くこともある。
クミコは頭が真っ白になって固まってしまう。
「えっ」
アジが驚いた顔でクミコを見ると、クミコは我に返り、
「冗談よ、冗談。本気にしないでよね」
顔を真っ赤にしてそう言い訳し、いたたまれなくなったのか、
「そろそろ帰ろうかしら」
そう言うと、慌てた様子で空になったカゴを手にして立ち上がるのだった。
「水筒は置いてくね」
クミコはそう言い残し、みんなに背を向けさっさと歩き出す。
クミコのその慌てようは可愛らしいものだった。
「ヘイタ、お姉ちゃん行っちゃうぞ」
タケルがウトウトしているヘイタに声をかけると、ヘイタはびっくりして目を覚ました。
目を開けたヘイタに、
「ほら」
タケルがそう言って去りゆくクミコを指差すと、
「お姉ちゃーん!」
ヘイタは慌ててクミコの後を追って駆け出すのだった。
タケルは微笑ましく二人を見送り、それから、
「アジ、どうするんだ?」
そう言ってアジをからかった。
だが、
「あれは冗談だから」
アジはそう言い返し、どことなく寂しそうにするだけだった。
元老家の娘は他地区であれ他国であれ、同じ家格の家に嫁ぐのが習わしだった。
それはクミコ自身わかっているはずだ。
だから、アジがクミコの言葉を本気で受け止めることはなかったし、クミコはアジにとって可愛い妹のような存在であることに変わりはなかった。
そんな中、セジはきつい目つきでアジを見て、その頬を引きつらせていた。
「よーし、それじゃ、種蒔きするぞ!」
タケルが気合いを入れて立ち上がると、
「よし、やろう!」
そう応えてサスケも立ち上がる。
「アジ、セジ、行くぞ」
サスケが声をかけると、二人は別々の意味ではっとして我に返るのだった。
それから二人は立ち上がって鍬を取り、畑に向かう。
日は傾き始めているが、急いでやれば種蒔きは日が暮れるまでには終わるだろう。
川からの風が、ひゅーっと畑の上で軽い土煙を巻き上げながら吹き抜けていく。
巻き上げられた土煙はゆるい渦を巻きながら霧散する。
俯き、畑に向かうセジの足取りは重かった。
その顔を覗き込むと、そこには鬼の顔があった。
「兄さんさえいなければ・・・」
セジはそう呟いて、前を歩くアジを憎しみの目で見つめるのだった。




