〇三七 豊かさの代償
「イスタルとの交易は成功だったが・・・」
ムサシは執務室にいて、トノジを前にため息をつく。
イスタルとの交易が始まってからというもの、西地区を中心にサムイコク全体が豊かになったのは間違いない。
しかし、豊かさには代償もあった。
「他の地区、他国からの流入民によって風紀が乱れつつある」
トノジはムサシの言葉を継いで、そう問題点を口にした。
新世界橋ができ、サムイコクが豊かになると、ガルスコク、キノコクなど他の国々から、貧民たちがその豊かさを求めてサムイコクに流入するようになった。
特に西地区に流入民の多くが集まっていた。
人口が増えることは悪いことではない。
むしろ、人口が増えることによって消費も増え、新しい仕事も生まれる。
実際、それによって西地区の豊かさは増していった。
しかし、流入民は土着の住民と違い、地域との繋がりが薄いだけに恥を知らない。
周りの迷惑を考えず騒ぎ出す者や、堂々と性を売り物にする者たちも現れていた。
盗難も増え、そして喧嘩も絶えなかった。
とはいえ、ムサシやトノジが最も問題にしているのは別のところにあった。
「流入民の享楽的な生活が土着の住民に悪影響を与えているのは間違いない」
ムサシが厳しい表情をみせると、
「ミノルは享楽的な価値観によって人々から信仰心が失われていくことを危惧していたな。人は豊かになると、神の恩恵を忘れて目の前の快楽に心が奪われてしまうんだそうだ」
トノジはミノル・タヌカの懸念を持ち出し、問題の本質を指摘する。
「たしかにミノルの言う通りだ。実際に悪い影響がすでに現れている」
ムサシは深く頷いてため息をつく。
「近年の志願者数の激減は、我々にとって深刻な問題だ」
トノジは真顔でそれを口にし、
「ここ数年、目に見えて志願者の数は減っている。サイノ市場ができる前は今の十倍はいた。そのことを考えれば、危機的状況だと言っていい。このままでは来年にも志願者の数が不足することもあり得る」
と説明し、厳しい表情を浮かべるのだった。
ムサシやトノジが懸念しているのは、まさに忠誠の儀式における奉仕者の数だった。
奉仕者は信仰心の厚い者ほど相応しいとされ、毎年志願者を募った上で、ミノル・タヌカによって選別されているのだが、イスタルとの交流が始まってからというもの、その志願者の数が年々減っているのだった。
「豊かさの代償か・・・」
ムサシはそう呟き、トノジは黙って頷くだけだった。
ムサシは目を閉じ思案する。
執務室にはムサシとトノジの二人しかいない。
その二人の間に重苦しい沈黙が流れる。
しばしの沈黙のあと、窓から吹き込む風が微かにムサシの頬を撫でると、それをきっっかけにムサシは静かに目を開けた。
「豊かさに目がくらんだ民衆が神の偉大さを忘れたとき、神はその力をみせつけるだろう。そうならないように、民を導くのが我々の仕事だ」
ムサシはそう言って窓外の景色に目をやった。
目に映るイスタルの光景。
その向こうに見えるゴーゴイ山脈の山並み。
穏やかに見えるはずの景色を眺めながら、ムサシは何か嫌な胸騒ぎを覚えるのだった。
ザクッ、ザクッ、ザクッ・・・
そよそよと、そよ風が吹いている。
空からは燦々と陽の光が降り注ぎ、大地からは土の匂いがした。
ザクッ、ザクッ、ザクッ・・・
大地を耕す鍬の、気持ちのいい音も聞こえてくる。
サイノ川沿いの道をスラム街から上流にしばらく行ったところに、広々とした畑があった。
そこにタケル、アジ、セジ、サスケの四人がいて、区分けされた畑をそれぞれが分担して耕しているのだった。
そろそろお昼休みの時間だ。
「アジ、こっちはもう終わるぞ!」
タケルは隣の畑を耕しているアジに声をかけた。
上半身裸のタケルの身体は鍛え抜かれた筋肉が逞しく、日に焼けたその顔つきは精悍で男らしい。
「こっちももうすぐだ!」
そう言いながら白い歯をみせるアジも大人の男になった。
治安部隊の指揮官である父トノジのもとで鍛えあげた頑強な体が汗で濡れている。
「俺ももう終わるぜ!」
訊かれもしないのに応えたのはセジだ。
アジと一つ違いのセジもアジに負けないくらい逞しい体つきになっている。
「了解!」
タケルはセジに右手を上げて応えてから、
「サスケはー?」
と、大きな声でサスケの様子を尋ねた。
畑は四面に分かれていて、サイノ川に近い西側の二面をタケルとアジが耕していて、奥の東側の二面をサスケとセジが耕していた。
セジがちょうどタケルとサスケの間くらいの位置にいたので、タケルはセジにサスケの様子を訊いたのだった。
セジはタケルに返事をせずに、
「サスケ!」
そう大声を出して、黙々と畑を耕しているサスケに声をかけた。
サスケがその声に振り返ると、
「終わるー?」
セジは大声で叫び、
「ああ、もう終わるぞ!」
サスケは口に手をあて大きな声で答えた。
サスケの茶色の髪は以前よりも明るくなっていた。
その髪色はサスケの陽に焼けた面長の顔に似合っていて、サスケの意志のある鋭い眼差しを優しい雰囲気に変えていた。
サスケは引き締まった体をしているが、逞しいというより、しなやかな体つきをしている。
だから、畑を耕す姿もなんとなく軽やかに見えるのだった。
「もう終わるって!」
セジがタケルに向かって叫ぶと、
「ありがとう」
タケルは右手を上げ、満足した表情で礼を言った。
ザクッ、ザクッ、ザクッ・・・
お昼前の最後のひと仕事を終え、
「よし、俺もそろそろ終わりにするか」
アジが額の汗を拭った瞬間、セジの声が聞こえてきた。
「よーし、終った!」
セジは一番乗りを宣言するかのように大きな声でそう言うと、
「いい汗かいたなぁ」
そう満足げに呟き、鍬を肩に担いでみんなの荷物が置かれている一本松の下に向かった。
一本松は畑の北側、タケルが耕している面とセジが耕している面の間にあり、一本松の向こう側は斜面になっていて、その下を名もなき小川が流れているのだった。
ちょうどそこに、クミコが昼食の入ったカゴを手に提げてやって来た。
クミコももう十八になった。
女性らしいふくよかな身体のライン、艶のあるきれいな黒髪に白く透き通るような肌は美しさを増していて、人目を惹かずにはおかない魅力を放っている。
当然のことながら、クミコにはひっきりなしに縁談の話が持ち上がっては消えているような状態だった。
クミコが手に提げるカゴの中には根菜と卵を炒めた料理に、香辛料で味付けした牛肉を葉野菜のラタスで巻いた料理、それからサラダにライ麦パンが入っていて、パンに塗るものとしてハチミツとジャムが用意されていた。
それらはテドウ家の使用人が作ったものではあるが、ライ麦パンはクミコが焼いたものだった。
そのクミコの後ろをついてくる男の子が九歳になるヘイタだ。
ヘイタは紐のついた水筒を首から三つ提げていて、「おもーい、おもーい」と口づさむように言いながらニコニコしている。
水筒の重さを嫌がるよりも、クミコを手伝っていることの方が嬉しいようだ。
ヘイタは兄のタケルを尊敬していて、クミコのことが大好きだった。
だから、こうしてクミコと一緒にタケルに会いに行けることを毎回楽しみにしているのである。
一本待つの木陰に敷物が敷かれていて、
「あー、疲れた」
クミコはその上にカゴを置いて腰を下ろす。
ヘイタは首から提げた水筒を敷物の上に置くと、
「お姉ちゃん、飲んでいい?」
クミコに水筒のリモン水をねだった。
リモン水には少量の砂糖が入っているので、汗をかいて疲れた体にはそのまろやかな甘酸っぱさが染み入るように美味しいのだ。
「ヘイタ、これはお兄様たちの分なの」
クミコがそう告げると、
「えーっ、飲めないの?」
ヘイタは泣きそうな顔になる。
「そんなことないわ。お兄様たちが飲んだ後ならいいわよ」
クミコがニコッと笑顔をみせると、
「じゃ、我慢する」
そう言ってヘイタは素直に納得するのだった。
「お腹空いたぁ」
そう言ってやって来たのはセジだった。
「お疲れ様」
クミコが声をかけると、
「クミコが焼いたパンを食べるために頑張ったんだからね」
セジは爽やかな笑顔で言いながら、肩に担ぐ鍬を後ろにおいて敷物の上に座った。
「そう言ってもらえると嬉しいわ」
クミコはセジの言葉を素直に喜んだ。
作業を終えたタケルたちもやって来た。
「わざわざ悪いな」
タケルがクミコに声をかけると、
「お兄様、お疲れ様」
クミコはそう返し、昼食の入ったカゴと水筒を敷物の真ん中に移動させた。
タケルの後ろにいたアジもクミコに声をかける。
「クミコ、なんだか悪いね。重かっただろ?」
アジが申し訳なさそうにすると、
「全然平気よ」
クミコは笑顔で応え、そんなクミコの笑顔に癒されながら、
「ありがとう」
アジは礼を言ってクミコの隣に腰を下ろした。
サスケはクミコに何も言わず笑顔で右手を上げて挨拶をし、クミコはそんなサスケに笑顔を返すのだった。
みんながそれぞれに腰を下ろすと、
「さぁ、召し上がれ」
クミコは冗談めかしてそう言いながら、カゴを覆う布を取り去った。
カゴの中の料理が姿をみせると、その匂いが辺りに広がり、みんなの食欲が刺激された。
「美味そう」
セジはそう言ってパンに手を伸ばす。
「僕もちょうだい!」
ここぞとばかりにヘイタがおねだりすると、
「ヘイタったら」
クミコは呆れ、
「どーぞ」
セジは笑ってヘイタにパンを渡した。
みんなは一本松の下で車座なってクミコの持ってきた昼食に舌鼓を打つ。
タケルの左にクミコが座り、アジ、サスケ、セジ、ヘイタの順に座るのがいつものことだった。(タケルの正面がサスケで右がヘイタになる)
特に意識しているつもりはないのだが、自然、そういう順番になっていた。
テドウ家の人間を守るようにジベイ家の人間が座るのは無意識の行動だった。
「お兄様、結構進みましたね」
クミコが耕された畑を見て感心する。
「うん。今日中に終えるつもりだ」
そう応え、タケルは水筒のリモン水をゴクゴクと飲んだ。
「さすがお兄様。仕事が早い」
クミコはタケルを持ち上げてから、左に座るアジに顔を向けると、
「アジも頑張ったのね」
そう声をかけて微笑むのだった。
「もちろんさ」
アジは笑顔で応える。
「それじゃ、はい」
クミコはカゴの中から肉料理を取ってアジに手渡した。
ラタスの葉に包まれているので手が汚れることはない。
「ありがとう」
アジは嬉しそうにそれを受け取ると、すぐに一口食べ、
「美味い!」
目を丸くして大袈裟に喜んでみせる。
「アジ、大袈裟すぎるわ」
クミコが笑いながらツッコミを入れると、
「大袈裟かも知れないけど嘘はない。テドウ家の使用人は一流だ」
アジはまじめにそう言って、もう一口頬張った。
美味しそうに料理を頬張るアジを、クミコは嬉しそうに見つめるのだった。
その二人のやりとりをタケルは微笑ましく見、セジは不機嫌な顔をして見ないようにしていた。
サスケは黙々と昼食を食べ、ヘイタはパンを食べ終え満腹になったのか、目がトロンとし始める。
耕し終えた畑の向こうに雑木林があり、雑木林の向こうに高台の住宅地が見え、その中でも一際目立って見えているのが、テドウ家の三階建ての塔だった。
その塔の屋上には鐘が取り付けられていて、夜明けと日没を知らせる鐘の音は、ウオチに住む人たちにとって生活の一部となっていた。
テドウ家の塔はウオチのシンボルだった。
青空の下の光景は穏やかで、何も問題がない。
タケルの発案でスラム街近くの原っぱを開墾し、農作物を育て、それを市場で売ることになった。
得たお金の使い道は決まっていないが、ウオチの為に何かできればと考えている。
原っぱの雑草取りを始めてからこの日までに、二ヶ月ぐらいの時間が掛かっていた。
みんな仕事があるので、仕事の合間を縫っての作業だった。
「嘘だろ」
セジはタケルから畑の話を聞いたとき嫌な顔をした。
しかし、アジとサスケの二人が二つ返事で参加を決めたので、セジはみんながやるのに自分だけやらないわけにはいかなくなり、渋々付き合ったのだった。とはいえ、セジは体を動かすのが嫌いじゃないので、今ではそれなりに楽しんでもいる。
そんなわけで、タケル発案の畑仕事は四人にとってそれなりに充実したものになっていた。
そもそも農作物を作って市場で売ることの目的は、市井の人々の現実を肌で感じることだった。商人として町の人々と触れ合うことができれば、色々な情報を得ることができるはずだ。
それがサイノ市場なら、何か不穏な動きがあればそれを未然に防ぐことができるし、人々の不満がどこにあるのかわかれば、それに対処することもできる。
それがムニム市場なら、兎人たちの生の声を聞くことで、霊兎族を理解することができるだろうし、兎人たちが何を求めているかわかれば、そこにつけ入ることもできるはずだ。
そういった肌で感じる情報を得ることこそ、市場に入り込む真の目的だった。
そのことをアジやサスケもわかっていたから、タケルが畑を作ると言い出したとき、喜んで協力することを申し出たのだった。
すべては西地区のため、ひいてはサムイコク全体の利益のためなのである。
セジもそれは理解するのだが、そういう情報は両市場に出入りする商人から得れば済む話だった。
現在、タケルは父ムサシの補佐官として西地区の行政を手伝っていて、アジは治安部隊指揮官補佐という役職で父トノジを補佐し、治安部隊全体を見ていた。
セジは治安部隊の第十五部隊の隊長を務めている。
サスケは第十二部隊の隊長だ。
いずれタケルはムサシの跡を継いで元老になり、アジはトノジの跡を継いで治安部隊指揮官を任されることになる。
その時が来れば、アジはセジを副指揮官に指名し、サスケを指揮官補佐に指名するつもりだ。
この三人でタケルを支えることができれば、西地区だけでなく、サムイコク全体も安泰だ。
アジはその考えをタケルにもすでに伝えていて、タケルはそれを喜んだ。
実際に治安部隊の部隊長より上の役職を任命するのは元老の権限なので、アジの描く未来はタケルによって約束されたと言っていい。
しばらく昼食を黙々と食べていると、
「明日の午後はゴンベさんの果樹園でミコンを収穫して、それを明後日、ムニム市場に売りに行こう」
突然、タケルがそう提案した。
ミコンとは黄色い柑橘系の果物で、コクのある甘みが特徴の果物のことだ。




