〇三四 五年の歳月
目を閉じると思い出す光景があなたにはあるだろうか。
冷たい風がそよそよと吹く土手に寝転がって、ぽかぽかとした太陽の暖かな日差しを受けながら、静かに目を閉じてみる。
目を閉じた瞼の裏が太陽の光を透かして赤く見える。
その温かな色。その心地良さ。
自然と瞼に浮かんでくる光景があって、それが胸を締めつけることはないだろうか。
懐かしいな・・・
その懐かしさは、恋人との甘く切ない思い出かも知れないし、家族と過ごした幸福な日々なのかも知れない。子供の頃の楽しい時間、何かにひたむきに打ち込んだ日々。思い出す光景は人それぞれで、込み上げてくる気持ちは自分だけのものだ。
—そうだよー。タヌは私のお気に入り!嬉しいでしょ。
マーヤの屈託のない笑顔。
懐かしいな・・・
—タヌ、おっはよ!
背中にしがみついて嬉しそうにしているマーヤの無邪気さ。
その明るい声。
思い出すマーヤはどれも笑顔で、そして無邪気だった。
元気にしてるかな・・・
タヌは切ない気持ちで胸が一杯になる。
「タヌ、寝たのか」
ラウルの声だ。
そっか。俺は今、ここにいるのか・・・
タヌはラウルの声に我に返り、自分がイスタルにいて、今ヒシリウ川の土手で寝転がっていることを思い出す。
肌に感じる日差し、背中に感じる雑草の感触、意識が現実に引き戻される。
タヌは静かに目を開く。
真上から降り注ぐ太陽の光が眩しくて、思わず手で目を覆う。
「ちょっとウトウトしただけだ」
そう言いながら、タヌは上体を起こす。
タヌの横には逞しい体つきに成長したラウルが座っていて、銀色の髪とその精悍な顔つきは父親のハウルにそっくりだ。
「昨日はけっこう忙しかったからな。わかるよ、眠いの」
ラウルがそう声をかけて笑う。
「まぁ、でも、疲れてるわけじゃないから」
タヌはそう応えて笑顔を返す。
その赤褐色の髪色と優しい顔立ちは、父親であるナイ譲りのものだ。
タヌももう大人の体つきになっていて、その半袖の服からのぞく引き締まった腕が逞しい。
イスタルに来て五年の歳月が流れていた。
二人はラドリア護衛隊隊長ミカルのツテで、イスタル郊外で農園を営むテムスという男の元で暮らしていた。
二人がミカルからの手紙を持って現れたとき、テムスはその手紙に目を通すと、何も言わず二人を預かることに決めたのだった。
テムスには妻と一人娘がいたが、喜んで二人を受け入れてくれた。
ムニム市場の活況もあり、人手不足だったテムスの農園にとって、二人の男の子は働き手として有難い存在でもあった。
テムスは庭にあった小屋を改築して離れを作り、二人に部屋をあてがった。
それ以来、二人はテムス家の家族の一員として過ごしてきたのだった。
「昨日頑張ったから、今日はゆっくり休みなさい」
と言うテムスの計らいにより、この日二人には休みが与えられ、朝の時間をこうしてヒシリウ川の土手に来てのんびり過ごしているのだった。
何もすることがないと、思い出すのはラドリアでの日々だった。
タヌはマーヤのことを想い、ラウルはシールのことを想った。
「みんな、どうしてるかな」
ラウルがポツリと呟く。
「会ってもわからなかったりして」
タヌがそんな冗談を口にすると、
「俺は絶対にわかる自信あるんだけどな」
ラウルはそう返して寂しそうに笑う。
その目に浮かんでくるもの。
シール・・・
ラウルは心の中でそう呟く。
ラウルの目に浮かぶシールの姿は五年前のままだ。
ラウルは今のシールを知らない。
この五年という歳月の中で、自分も変わったし、シールも変わっただろう。
色んなことがあっただろうし、今この瞬間だって、自分の知らないシールが自分の知らない時間を過ごしている。
会えない時間がどんどん二人を引き離しているような気がして、ラウルはやるせない気持ちになるのだった。
もしかしたら、もう二度と会えないかも知れない・・・
そう思うと、このまま時間が過ぎ去っていくことが恐ろしかった。
「そうだね。絶対わかるよね」
タヌだって自分の知らないマーヤを思えば、焦りの気持ちがないわけじゃなかった。
マーヤ・・・
その名を口にすると胸が苦しくなる。
タヌの脳裏に、
ータヌ、わたし、待ってるからね!
そのときの光景が浮かんでくる。
悲しみを隠そうと明るく別れを告げるマーヤの姿が、タヌには今でも忘れられなかった。
「ラドリアに戻れる日は来るのかな、本当に」
ラウルがそんな愚痴をこぼすと、
「来る。絶対に来る」
タヌはそう言ってラウルを励ますのだった。
「いつになるやら」
ラウルは肩を竦め、
「焦ってもいいことないからね。俺たちは監視団から追われている身だし、今は体を鍛えつつ、その時が来るのを待つしかないと思う」
タヌは前向きな気持を忘れない。
「ま、そりゃそうだけど」
ラウルはそんな相槌を打ち、
「それにしても、向こう岸は呑気に見えるよな」
そう言って話題を変えた。
「向こうから見たらこっちこそ、呑気に見えてるのかも知れないぞ」
タヌはそう応えて口元に笑みを浮かべ、
「こっちは呑気どころか、あいつらのせいでイザコザが絶えないんだけど」
ラウルは納得できない顔でその不満を口にする。
ラウルは傍らの草をブチッと千切り、その草を川に向かって投げつける。
草は風に吹かれて散っていく。
新世界橋ができて十年。
イスタルとサムイコクの交流は深まっていた。
許可制ではあるが、今では霊兎族、賢烏族ともに大勢の人が両岸を行き来している。
人の往来が激しくなると、その中には色んな人間がいて、礼儀を知らない者もいるし、自分勝手な者もいて、ムニム市場周辺では兎人と烏人との間でイザコザが頻発するようになっていた。それらのすべてが、霊兎族を下等と見下す横柄な賢烏族の輩が、おとなしい兎人にふっかけたものだった。
たとえ烏人が兎人に暴力を振るったとしてもお咎めを受けることはなかったし、兎人を殺すことさえしなければ、リザド・シ・リザドも特にそれを問題にしなかった。
力がすべてのこの世界では、強い者が弱い者をいたぶるのは当然のことだからだ。
ちなみに烏人が兎人を殺すことを許されていないのは、もちろん、兎人がドラゴンや神人にとって食の対象だからである。
「いい迷惑だよ、ほんとに」
ラウルは苦虫を噛み潰したような顔をする。
タヌは頷き、
「あいつらはたしかに俺たち兎人を見下している。それは許せないことだけど、新世界橋や市場を造った技術はやっぱり凄いと思う。なによりあの大きなドーム型の屋根と、水道の技術を目の当たりにしたら、あいつらが俺たちを見下すのもわからなくもない」
と、冷静に賢烏族の技術を評価するのだった。
それはラウルも感じていることだった。
霊兎族も決して技術力が低いわけではない。しかし、賢烏族のそれと比べたら見劣りしてしまうのが現実だった。
「バケじぃも烏人のこと気にしてるよな」
ラウルはそう言ってタヌを見る。
「うん。技術力が高いだけに、敵には回したくないんだと思う」
タヌがそう応えると、
「まぁ、それはわかる」
ラウルはそう言ってうんうんと頷くのだった。
澄み切った青空から降り注ぐ日差しが世界を優しく浮かび上がらせ、その世界は作り物のようにキレイに見える。
土手を吹くそよ風。
ヒシリウ川のゆったりとした流れ。
対岸のサムイコクの長閑な光景。
時の流れは穏やかで、世界は静止しているようにさえ見える。
しかし、時の流れは静かに、そして確実に、すべてを変えていく。
「そろそろ行くか」
ラウルがそう言って立ち上がると、
「遅れるとギルがうるさいからな」
タヌもさっと立ち上がり、二人は仲間の元へ向かった。




