〇三二 ラドリアの惨劇
「お兄様、ご機嫌いかがですか」
そう声をかけながら、クミコがタケルの部屋に入ってきた。
「まぁまぁ・・・かな」
タケルは窓際のイスに腰掛け、空を見上げていた。
あの日、亜麻色の霊兎ギルにコテンパンにされてからというもの、思い出す度に自分の不甲斐なさが悔しくて、部屋にいるときはその悔しさを紛らわすために良く空を見上げていた。
「お兄様、最近、元気ないですよ」
クミコはそう言ってタケルの顔を覗き込む。
タケルがクミコに視線を向けると、そこにクミコの屈託のない笑顔があった。
でもその眼差しは、タケルのことを心配しているのが良くわかるものだった。
タケルはクミコに優しく微笑んでからまた空を見上げ、
「ヘイタの相手をしてなくていいのか」
空を見上げたままそう声をかける。
新世界橋建設中に生まれた男の子は、もうすぐ四歳になる。
クミコは母親を手伝いながら、ヘイタの遊び相手にもなっていた。
ヘイタはクミコにとても懐いていて、クミコにとって目に入れても痛くないほど可愛い存在だった。
「ヘイタは今お昼寝中よ。だからお兄様の話し相手になってあげようかなぁって思ってやって来たの」
クミコはそう言って茶目っ気たっぷりの笑顔をみせる。
クミコは優しい子だ。
誰かが落ち込んだり傷ついたりしていると放っておけない性格だった。
今もクミコは意図的に明るく振る舞っていて、クミコなりにタケルを元気づけようとしているのがよくわかる。
タケルはクミコに振り向くと、
「俺なら大丈夫だ。心配はいらない」
そう笑顔で応え、
「ありがとう」
そう言ってクミコの背中を優しくポンッと叩く。
「それならいいですけど。思い出して嫌な気持ちになることは思い出さなくていい。忘れてしまえって、いつかサスケが言っていましたよ。だから、お兄様も嫌なことは忘れてくださいね」
そう励ましの言葉をかけて微笑むクミコに、タケルは素直に「うん」と頷くのだった。
その後、クミコと他愛のないお喋りをしていると、
ドン、ドン、ドン、ドン・・・
乱暴な足音が近づいてきて、タケルの部屋の前で止まった。
「タケル様、ムサシ様がお呼びです」
部屋の外から家僕の声が聞こえ、その声の持つ厳しさが急ぎの用だと告げていた。
タケルはすぐに塔に向かい、三階にある執務室へ上がった。
執務室に入ると、そこにはすでにトノジとアジがいて、厳しい表情で会議のテーブルに着いていた。
ムサシは部屋の奥側の席に窓に向かって座り、ムサシの右にトノジ、そして左に一つ席を空けてアジが座っていた。
ムサシとアジの間の席が、タケルの席だった。
タケルは室内の緊迫した空気に驚いた。
タケルは一礼してから席に着く。
「何かあったのでしょうか」
タケルが尋ねると、ムサシは眉間に皺を寄せ、ふーっと長い息を吐いた。
それから真顔でタケルを見、重々しく口を開いた。
「霊兎族の都市ラドリアにおいて、献上の儀式の最中に騒動が起こったらしい」
ムサシは厳しい表情を崩さず、霊兎族の都市で起こった異変を告げた。
「えっ?どういうことですか」
タケルは思わず聞き返していた。
霊兎族が行う献上の儀式といえば、賢烏族が行う忠誠の儀式よりも格式が高く、絶対に失敗が許されないものだと聞かされてきたから、その献上の儀式で騒動が起こることなど、タケルにとってありえない話だった。
「二人の霊兎の手によって、神兵および蛮兵、それぞれ数十名も斬り殺されたということだ」
ムサシの隣に座るトノジが険しい表情でそれを伝える。
タケルの横に座るアジも真剣な面持ちでそれを聞いていた。
「えっ、霊兎が?爬神様を?」
タケルには何が何だかわからなかった。
兎人が爬神様を殺すなんてことがありえるのだろうか。
兎人はドラゴンと爬神様に命を捧げるためだけに生まれて来たはずだ。
それが兎人たちにとって当たり前のことで、喜びでもあるはずだ。
そんな兎人に、爬神様を殺すことなんてできるはずがない。
そもそも兎人がどうやって爬神様を殺すというのだ。
〝爬神様が数十名の兎人を殺した〟の間違いではないのか。
タケルはまったく混乱していた。
「お前が混乱するのも無理はない。私も未だに混乱している」
ムサシが穏やかにそう言って微笑むと、タケルも少しは落ち着くことができた。
「兎人が爬神様を斬り殺したというのは間違いないのでしょうか」
タケルは自分なりに起こった出来事を理解しようとする。
「献上の儀式における出来事はあくまで噂としてイスタルに伝わり、それから我々に入った情報ではあるが、確かなこととして、現在ラドリアでは夜間外出禁止令が出されているそうだ。そのことからも、兎人が爬神様を斬り殺したという噂は、実際に起こったことと考えて間違いないだろう」
ムサシは厳しい表情でそう告げると、窓外に見えるイスタルの風景を睨むように見つめた。
「信じられない・・・」
タケルは唖然としてそう呟いた。
「頭のいかれた霊兎が二人、剣を持って突然儀式に乱入し、暴れたということだ。そんな狂った霊兎がいるなんて誰が想像できようか。護衛隊においても、そういう事態を想定していなかったはずだ。それゆえ、多くの犠牲を出すことになったのだろう」
トノジはそう説明し、その目に怒りの色を浮かべる。
しかし、その説明にタケルは納得できなかった。
「頭のいかれた兎人に、屈強な神兵や蛮兵を殺せるものでしょうか。そんなことができるのでしょうか」
タケルはそう疑問を投げかけた。
たとえどんなに優れた霊兎であったとしても、兎人に蛮兵が倒せるだろうか。
兎人にあの巨大で皮膚の硬い神兵を斬り殺せるだろうか。
たとえ斬りかかったとしても、簡単に返り討ちにされるだけではないのか。
まして狂った霊兎に、そんな大それたことができるだろうか。
それが、タケルの疑問だった。
「それができた。だから、惨劇は起こった。今ある情報ではそれくらいのことしか言えない。ただ、少なくとも、頭がいかれているからこそ、そんな恐ろしいことができたのだ。少しでもまともな考えができる霊兎なら、爬神様に剣を抜くことなんてできるはずがない。まともな霊兎なら、爬神様に睨まれただけで恐れ慄き震え上がってしまうだろう。爬神様に刃を向けるなど、気が触れていなければできないことだ」
トノジはきっぱりとそう答え、
「たしかに・・・」
タケルは納得するしかなかった。
タケルがどんなに疑問を投げかけようとも、起こった出来事がその答えだった。
「ラドリアに対する処罰はいずれ下されるだろう。私としては、我々に影響がないことを祈るだけだ」
ムサシはそう言ってため息をつく。
ムサシが恐れているのは、イスタルとの交易への影響だった。
「爬神様の命が奪われることなど今まであっただろうか。これは信じ難い大惨事だ。ラドリアなど滅ぼされてしまえばいい」
トノジは怒りの表情で吐き捨てる。
トノジの頭の中はイスタルとの交易よりも、献上の儀式を混乱に陥れ、この世界の秩序に挑戦した狂った霊兎への怒りで一杯だった。
トノジにとって、秩序を乱すことが何より許せないことだった。
西地区の治安を守ること、事が起こればサムイコク全体の治安を守ることがジベイ家の使命であるがゆえに、平穏な日常を破壊し、治安を揺るがすような行為はとうてい許されることではなかった。
秩序を乱す者への憎しみがそこにはあった。
だが、ムサシは違った。
「ラドリアで起こった出来事は、たまたま気が狂った二人の霊兎によって引き起こされた凶行であり、これはイスタルとはまったく関係がない。この点を見失ってはならない。我々にとってイスタルとの交易は死活問題であり、そしてまだ緒についたばかりである。これからが大切な時期なのだ。イスタルとは良好な関係を維持する必要がある」
ムサシはイスタルとの交易の重要性をそう告げたうえで、
「今できることは状況を正確に把握することだ。イスタルに渡る商人たちに命じ、イスタルに入ってくる情報をできるだけ多く集めさせろ」
と指示を与えた。
狂った兎人のことなど、もうどうでも良いことのようだ。
「どんな些細な噂でも収集するよう、商人たちに厳命するとしよう」
トノジはそう言って頷いた。
そして、ムサシに感心していた。
さすがムサシだ・・・
そう思った。
私は秩序を乱した霊兎族に対し、ただ憤っていただけだが、ムサシは違った。ムサシは常に現実的だ。そこが、元老として西地区を長年治めてきたテドウ家の血なのだろう・・・
トノジはムサシを頼もしく思う。
タケルはそんな二人のやりとりを見ていて、改めて自分は子供なのだと思い知らされていた。
ムサシは目先の感情に流されず、常にサムイコクにとって何が最善かを考えている。
そして、トノジがそれを行動に移すのだ。
この二人が世界を動かしているように見えて、タケルは二人に対して素直に尊敬の念を抱くのだった。
いつか俺も父上のように正しく物事を見つめ、正しく決断できる人になりたい・・・
タケルはそう思った。
「ラドリアで起こった騒乱は、世界が変わることの前触れなのかも知れない。我々は常に変化に対応しなければならないということを、肝に命じておくように」
ムサシはその言葉を、タケルとアジに向かって投げかけた。
二人が頷くと、
「変わりゆく世界で正しい判断を下すためには、常に変化に対応する柔軟さが必要だ。変わることを恐れる者は、ただ取り残されていくだけだろう。人は歳を重ねると、それまでの経験やそれまでに得た知識にしがみついて、物事をあるがままに見ることができなくなってしまう。お前たちはそうならないように、今から気をつけるんだぞ」
ムサシはそう言って二人に微笑むのだった。
「わかりました」
タケルはムサシの目を真っ直ぐに見て頷き、ムサシの言葉を胸に刻んだ。
「アジ、お前もだぞ」
トノジが言うと、
「はい。私も常に柔軟な心で、しっかりとタケルを補佐したいと思います」
アジはそう応えて胸を張る。
「うん。それでいい」
トノジは頼もしくアジを見て微笑んだ。
ムサシも嬉しそうに微笑み、それから、ふと窓外のイスタルの景色に目を向けた。
イスタルの長閑な風景が、なぜだか強くムサシの心を惹きつける。
思い出すのは、イスタルの風景をじっと見つめる父デスケの、あの真剣な眼差しだった。
日差しを浴びて活き活きと輝くイスタルの、その豊かな土地を見つめながら、ムサシは声にならない声で呟いた。
「もしかしたら、あの土地が手に入るかも知れないな・・・」
それはムサシの根拠のない直感だった。




