〇一七 父への想い
アクと揉めた日から半月近くが経ち、体の痛みがほとんど気にならない程度にまで回復すると、二人はすぐに体力づくりを始めた。
「ふんっ、ふんっ、アクなんかに、負けてたまるか、ふんっ、ふんっ」
ラウルは腕立てをしながらそう言い、その隣で競うように腕立てをしながら、
「ふんっ、ふんっ、強くなりたい、アクより、強くなりたい、ふんっ、ふんっ」
タヌはそう言って歯を食いしばる。
二人にとってアクにまったく歯が立たなかったことは恥ずかしいことだった。
剣術のクラスでは相手がいないほどに、剣の技術には自信を持っていた。上のクラスに上がれないのは体力や体格の問題だけでしかないはずで、正直なところ、その体力と体格の差も技術で超えられるものと確信していた。
その考えがアクの登場によって打ち砕かれたのである。ゆえに、アクとの揉め事で露わになった自分たちの弱点を克服するために、技を磨くだけでなく、筋力をつけることにも力を入れることにしたのである。
「ふんっ、ふんっ、あーっ、もう限界!」
タヌはそう言うとドサッとうつ伏せに倒れ、それから寝返りを打って仰向けになった。
背中に触れる土がひんやりして気持ち良かった。
「タヌ、まだできるだろ、ふんっ、ふんっ」
ラウルは必死の形相で腕立てを続ける。
「無理。腕も足もプルプルして力が入らないよ」
タヌは大の字になったまま動こうとしなかった。
「ふんっ、ふんっ、根性ないなぁ、ふんっ、ふんっ」
ラウルはそう言ってタヌの根性のなさを嘆いたが、すぐに、
「ふ、ふんっ・・・俺も・・・、ふんっ、げ、限界だ・・・」
腕をプルプル震わせながら、
ドサッ!
地面にうつ伏せに倒れたのだった。
「あー、疲れたぁ」
そう言いながら寝返りを打って仰向けになると、
ジジ、ジジ・・・
急に虫の声が聞こえてくる。
二人がいるのは中庭の森にいくつかある井戸の、森の中央付近にある井戸の近くで、そこは暗くなると誰も近寄ることがなく、そこなら水もすぐ飲めるので、体を動かすにはもってこいの場所だった。
寝転がって夜空を眺めると、満天の星に心を奪われる。
「俺たちは何のために生まれてきたのかな・・・」
タヌがボソッと呟くと、
突然、なんてこと言うんだ・・・
ラウルはそう思った。
「なんだよ、急に」
ツッコミを入れると、
「なんとなく」
タヌは苦笑いを浮かべる。
とはいえ、
—何のために生まれてきたのか。
それはあの日以来ラウルが自問していることでもあった。
「俺だって、何のために生まれて来たのかって、考えることあるよ」
ラウルが照れくさそうにそのことを告白すると、
「そっか」
タヌは〝そうだろうな〟って感じで相槌を打ち、その相槌に促されるように、
「俺たち霊兎族は、神に命を捧げるために生まれてきたと思うんだ。神を崇め、ドラゴンに身を捧げる。そして、天国に迎え入れられる。それが幸せなことなんだって、俺はそう思いたい」
ラウルはそんな風に自らの思いを吐露したのだった。
それはラウルの正直な気持ちだった。
だからこそ、父ハウルに対して複雑な想いを抱いているのだ。
あの日見た父ハウルの姿。
神の民である神兵に剣を抜いたその姿は、あまりにも衝撃的だった。
ラウルは未だにそのハウルの背信行為が理解できなかったし、その姿を受け止めることができないでいた。
「俺たちは神様のために生かされてるってわけか・・・」
タヌはため息交じりにそう応える。
タヌのその言い方は、神のために生きることに納得していない者の言い方だった。
「タヌは信仰心が足りないなぁ」
ラウルが呆れて視線を夜空へと向けると、
「あのドリルが高位兎神官なんだよ」
タヌはドリルの名を持ち出して言い訳をした。
タヌがそうしたのは、ラウルが嫌うドリルこそ、爬神教そのものの存在だということを伝えたかったからである。
しかし、爬神教に疑問を持たないラウルには、そのタヌの想いは届かない。
「俺が大切にしているのは神への信仰と、コンクリ様への忠誠心。それだけだ。ドリルのクソ野郎なんてどうでもいい」
ラウルはそう言ってタヌの言い分を受け付けなかった。
「はは。ラウルらしいな」
タヌは笑うしかなかった。
「ほんと、タヌは信仰心が足りないよ。このままじゃ、護衛隊に入ってもいい隊士にはなれないぞ」
ラウルはそう言ってタヌを戒める。
「そうだね」
そう返し、困り笑顔を浮かべるタヌに、ラウルは改めて自らの想いを語った。
「霊兎は神のために命を捧げる。俺はそう教えられてきたし、二年前、母さんは献身者の一人に選ばれて、本当に幸せそうだったんだ」
そう言うラウルの胸に、別れの日のあの悲しさが込み上げてくる。
「だったらなんで、ラウルの父さんは神兵に剣を抜いたんだろう」
タヌがさらりとその疑問を口にすると、ラウルは険しい表情でふーっと大きく息を吐いた。
「俺にはわからないんだ。今でも信じられない。神のために生きることを教えてきた父さんが、なぜ爬神様に剣を抜いたのか。あの日の前の晩、父さんは言ったんだ・・・」
ラウルはそこまで言うと、あの日の父ハウルの姿を思い出し、込み上げてくる得体の知れない感情をぐっと堪えるのだった。
「なんて言ったの?」
ハウルが何を伝えたのか、そのことにタヌは強い興味を持った。
「バカな霊兎の血が流れていたとしても、お前がバカにならなければいい。お前はお前の体を流れる血のために戦うんじゃなくて、お前の信じるもののために戦えばいいんだって・・・」
ラウルはそう言うと悔しそうに唇を噛んだ。
バカな霊兎の血。
それが何を意味しているのか、訊かなくてもその血が流れているタヌにはわかることだった。
タヌはあの日のハウルの姿を思い出していた。
ハウルおじさんは何のために戦ったのか・・・
神兵の群れに斬り込んでいくハウルの勇ましい姿。
ラウルは言葉を続ける。
「それなのに、父さんは血に負けたんだ。ラドリアの戦士の血に呪われて気が狂ってしまったんだ。そうでなきゃ、狂ったように爬神様に斬りかかるなんてありえない。あの混乱の中で母さんは死んでしまって、ドラゴンに捧げられることもなく蛮兵たちの餌にされてしまったんだ・・・」
ラウルの目に涙が滲む。
そのラウルの悲しみがタヌの心に沁みてくる。
「母さんは何のために死んだんだ?献身者に選ばれて、天国に行けるって喜んでいたのに、結局蛮兵たちの餌にされたんだぞ。父さんのせいで母さんの魂は地獄へ落ちてしまったんだ。俺は許せない。父さんが許せない」
ラウルは悔しさと怒りで声を震わせ、父ハウルを責めるのだった。
「ラウルの父さんは狂ってなんかないよ」
タヌは優しく言葉をかける。
「いいよ。慰めなんていらないよ」
ラウルはそう言って涙を隠すように右腕で目を覆う。
「ラウルの父さんだって、自分の信じるもののために戦ったんじゃないかな」
タヌは自信を持ってハウルの行為をそう解釈してみせる。
タヌはあの日、あのとき、ハウルがラウルの母親であるミーヤを斬る瞬間を見ていた。
そのときのハウルは気が狂っているようには見えなかった。
その悲愴な姿には、しっかりとした覚悟があった。
「なんだよ、父さんが信じてたものって。俺は父さんから爬神教を信じろって教わってきたんだぞ」
ラウルは吐き捨てるように言って、タヌの言葉を拒絶した。
「それについては何とも言えないけど、ラウルの父さんは自分の死に様をみせることで、ラウルに何かを伝えたかったんじゃないのかな」
タヌはそう言いながら、父ナイのことを想っていた。
死に様を見せて死んでいった父ナイ。
—私の最期の姿を目に焼き付けるのだ。
そう告げたときの、ナイのあの覚悟を決めた悲愴な眼差しを、タヌは思い出していた。
ラウルの父ハウルも、ナイと同じ気持ちだったはずだ。
タヌの心に、父ナイを想う気持ちが込み上げてくる。
父さん・・・
ナイの厳しくも温かい眼差しが恋しかった。
「父さんが何のために剣を抜いたのか、俺にはわからない。ただ、母さんが蛮兵たちの餌にされたことだけは間違いのない事実だ」
ラウルはそう自分に言い聞かせるように言い、口を一文字に結ぶ。
ラドリアの惨劇のあの日、遺体として見つかった献身者はミーヤだけだった。
そして、その亡骸は蛮狼族監視団に引き渡され、蛮兵たちの餌にされたのだった。
ラウルにはそれが許せなかった。
大好きだった母ミーヤを、地獄に落とした父ハウルが許せなかった。
そんなラウルの隣で、タヌはハウルと出会ったときのことを思い出していた。
—ラウルと君なら、きっと同志になれると思う。
そのハウルの眼差し。
言葉は柔和でその笑顔は優しさに溢れていた。
その目に溢れる息子への愛。
この人は深い人だ・・・
タヌは子供ながらにそう思った。
だから、ラウルに言いたかった。
〝ラウルの父さんは素晴らしい人だったんだよ〟と。
「ラウル、いつか俺たちが大人になったら、理解できることもあるんじゃないかな」
タヌにとって、それが今のラウルにかけられる精一杯の言葉だった。
ラウルにはハウルと言葉を交わしたあの日のことを伝えていない。
ハウルを憎むラウルに、そのことをどう伝えれば良いのかわからないからだ。
でもいつか、ラウルが父親のことを理解しようと思う日が来るのなら、そのときはちゃんと自分の見たハウルの姿を伝えようと思う。
「俺は父さんのような真似はしない。俺は血に負けない。立派な隊士になって、コンクリ様に仕え、神に身を捧げるつもりだ」
ラウルは父ハウルへの想いを断ち切るかのように、力強くそう宣言すると、体を起こしてさっと立ち上がり、その決意を示すかのように両手の拳を握り締め、力強い足取りで部屋に戻っていった。
ラウルが去ったあとも、タヌはしばらく夜空を眺めていた。
夜の空気はひんやりとして気持ちいい。
夜風が木々の葉を揺らし、その微かな葉擦れの音が耳に心地よかった。
父さん・・・
タヌは心の中でそう呟いて、父ナイと過ごした日々を懐かしむのだった。