〇一五 死ななくてよかった
タヌは静かに目を開けた。
そこは暗闇だった。
どこだ、ここは・・・
微かに体を動かすと、全身に痛みが走った。
「くっ」
タヌは顔をしかめる。
顔をしかめると、今度は顔中に痛みが走り、口の中がひどいことになっている事と、顔が熱を持って腫れていることがわかった。
なんだっけ・・・
タヌは自分の置かれた状況が理解できない。
痛みが引くのを待ってしばらくじっとしていると、暗闇に目が慣れ、見覚えのある天井の縁取りが見えてきて、タヌは自分が自分のベッドに横になっていることに気づいた。
タヌはゆっくりと、慎重に隣のベッドに顔を向け、そこに顔を腫らしたラウルを見てなんともいえない気持ちになる。
部屋の中は暗く静まり返り、他の子供たちもベッドで横になっているようだ。
そっか。アクにやられたんだっけ・・・
タヌは昼間の出来事を思い出した。
タヌは体の具合を確かめようと腹筋に力を入れてみる。
すると、
「うっうう・・・」
腹筋だけではなく、体の節々に痛みが走り、タヌはベッドにぐたっと体を預けて力を抜いた。
ダメだ・・・
タヌは起き上がることを諦めると、静かに呼吸をして痛みの感覚を手放していき、そのまま眠りにつくのだった。
「タヌ、朝だよ!」
この声は・・・
「タヌ、起きないかなぁ・・・」
マーヤ?
「もう一回だけ呼んでみようかなぁ」
マーヤがなんでここに?
「タヌ、起きて!」
マーヤは元気だなぁ。
タヌの意識がはっきりとしてきて、
「う、ううん」
と、声を漏らす。
「あ、タヌ、起きた?」
マーヤのその声を近くに感じて、タヌは目を開けた。
目を開けると、そこにマーヤの顔があった。
タヌがびっくりして目を大きく見開くと、
「起きた!」
マーヤは嬉しそうに叫ぶのだった。
「マーヤ、なんで?」
タヌはポツリと呟いた。
顔が近いのだ。
タヌの顔が赤くなる。
「えへへ」
マーヤは満面の笑顔で笑うと、後ろを振り向き、
「お姉ちゃん、タヌ起きたよ!」
と嬉しそうに声をかける。
それからまたタヌに向き直って顔をぐーっと近づける。
そして、タヌの顔の目と鼻の先で、
「心配してたんだからね」
マーヤはほっとした様子でそう言って、ニコッと微笑むのだった。
「あ、ありがとう・・・」
タヌがドギマギしながら感謝の気持ちを伝えると、
「三日間も寝てたのよ!」
マーヤは指を三本立て、タヌを見舞いに来た日数を強調した。
「えっ」
タヌは驚いた。
三日も寝てたのか・・・
「心配してたんだからね」
マーヤが泣きそうな顔でそう言うと、
「ごめん」
タヌは素直に謝った。
「でも、タヌが目を覚ましてよかった」
マーヤは安堵のため息をつき、目に浮かぶ涙を拭った。
マーヤはいい子だなぁ・・・
タヌはつくづくそう思う。
マーヤの自分を見つめる温かな眼差しに、タヌはなんとも言えない安らかな気持ちになるのだった。
いつの間にかマーヤの後ろにシールが立っていた。
「おはよう」
シールはほっとした笑顔でタヌに声をかける。
「おはよう」
タヌは笑顔を返しながら、ベッドの上で上半身を起こした。
「結構、すごい顔してるわよ」
そう言ってシールが笑うと、
「お姉ちゃん、ひどーい」
マーヤは口を尖らせ、
「だろうね」
タヌはそ自分の顔を想像して笑う。
それから、
「あっ」
小さな声を上げ、
「ラウルは?」
と言いながら隣のベッドを見て安堵の表情を浮かべるのだった。
ラウルは既に上半身を起こしていて、こっちを見て笑っていた。
「俺ならもう起きてるよ」
そう言うラウルの顔は腫れていて、アザだらけだった。
「いつ起きた?」
タヌが訊くと、
「俺もついさっき」
ラウルはそう答えて微笑んだ。
「そっか。でも、ラウルもすごい顔してるなぁ」
タヌはそう言いながら、自分の顔もああなんだろうな、と想像して苦笑いを浮かべる。
まだ顔全体に痛みを感じるし、喋るたびに口の中が痛み、血の味がした。
「大丈夫なのか?」
タヌが心配すると、
「うん。痛みの感じからすると、見た目ほどは酷くないかな。そんなにダメージは受けていないと思う」
ラウルはときおり痛みに顔をしかめながらも、至って平然とした感じで答えた。
タヌにはラウルの言っていることがよくわかる。
タヌが感じている自分の体の状態もそんなものだったからだ。
痛みはまだ残っているけれど、それは表面的な痛みだけで済んでいて、どこにも致命的な損傷の兆候はない。そんな感じだ。ただ口の中が切れて酷いことになっているのが、ちょっと気になるくらいだった。
「俺も同じだ。治るのに時間は掛からないと思う」
タヌはそう応えて笑みを浮かべる。
口の中に痛みは強く感じるものの、体の反応とそれを切り離し、痛みを顔に出さない。
「あっという間だな」
ラウルはそう言ってタヌに同意した。
今までも怪我なんてしょっちゅうしてたし、その度にタヌとラウルは驚異的な回復力をみせつけてきたのだ。
今回もきっとすぐに治るだろう・・・
タヌとラウルは楽観的だった。
二人の会話を聞いていたマーヤは、
「えー、すぐに治っちゃうの?わたし毎日来るつもりだったのになぁ」
そう言って大袈裟に残念そうな顔をした。
「マーヤ、バカ言わないの」
シールが呆れ顔でたしなめると、
「だって・・」
マーヤは後ろを振り返り、拗ねた顔でシールを見上げるのだった。
「だって、じゃないの」
シールはそう言いながら、マーヤのほっぺをぷにぷにとつまむ。
すると、
「むぇー」
マーヤは白目を向いて意味不明な声を漏らすのだった。
その顔が面白くてタヌは「くくっ」と笑う。
「ありがとう、マーヤ。でも、もう大丈夫だよ。痛みはもちろん残ってるけど、なんとか動くことはできるから」
タヌはそう言ってマーヤの頭を撫でるのだった。
タヌに頭を撫でられ、マーヤの顔はぱっと明るくなる。
「タヌ〜」
マーヤはタヌに抱きつく素振りを見せるが、はっとしてその動きを止めると、すぐさま後ろを向きシールに抱きつくのだった。
タヌに抱きつけない分、シールに抱きつくその腕に力を込める。
「マーヤったら」
シールはそんなマーヤを可愛らしいと思う。
その微笑ましい光景をタヌは笑顔で見つめ、ラウルは優しく見つめた。
タヌは自分たち以外誰もいないことに気づいた。
「みんなは?」
と尋ねると、シールがそれに答えた。
「朝ごはんよ。みんなはまだ食堂にいるわ」
朝食の時間なら誰もいなくて当然だった。
「そうなんだ。二人はごはん食べないの?」
タヌが素朴な疑問をぶつけると、
「食べて来たの。お姉ちゃんと二人でもうガツガツ急いで食べて来たのよ!タヌとラウルのたーめーに!」
マーヤは得意げな顔で〝タヌとラウルのために〟の部分を強調して言い、シールはちょっと恥ずかしそうに肩をすくめるのだった。
タヌとラウルのベッドの間にある腰高の棚の上に、朝食のスープとパンが置かれていた。
シールはそれを目で示して、
「ちゃんと二人のご飯も持ってきたのよ。偉いでしょ」
と、茶目っ気たっぷりに言うのだった。
いつもはトマスとマーヤの姉としてしっかりしているシールも、まだ十二歳の可愛らしい女の子だった。
シールの飾らない性格は誰からも愛されるものだ。
「ありがとう」
タヌはその気遣いに感謝する。
それから、
「スレイとトマスは大丈夫?」
二人の様子を訊くと、
「トマスは無傷だったのよ。スレイは顔の骨が折れてたんだって。だからしばらくは教護室で安静にする必要があるみたい」
シールは二人の状態をそう説明した。
「そっか。トマスは無事なんだね」
タヌは胸を撫で下ろす。
「トマスは元気よ。トマスのせいで二人がひどい目に合ったのに、自分だけぴんぴんしてるわ」
マーヤはそんなトマスに呆れ、
「それならよかった。な、ラウル」
タヌはほっとしてラウルに声をかけた。
トマスが無事ならそれでいい。
「ああ、ほんとよかったよ」
ラウルも同じ気持ちだった。
ものわかりのいい二人にマーヤが眉を吊り上げる。
「よくない!二人が甘やかすから調子に乗るんだよ!わたしがちゃんと叱っといたからね!」
マーヤはそう言ってタヌとラウルを叱った。
「マーヤは厳しいなぁ」
タヌがそう言うと、
「みんなが優しすぎるから、わたしが厳しくしないといけないの!」
マーヤは腰に手を当てそう憤慨してみせてから、
「わたしって損な役回りよねー」
と、自分を憐れんで嘆くのだった。
そんなマーヤが可愛らしくて、みんなは自然笑顔になるのだった。
「そろそろみんな帰ってくる時間だから、わたしたち行くね」
シールはそう言うと、
「えー、もう少し大丈夫だよ」
そう言って駄々をこねるマーヤの手を引っ張って部屋を出ていった。
二人を微笑ましく見送るタヌを一瞥し、
「あれだけボコボコにやられたのに、悔しくないんだよなぁ」
ラウルはそう呟いた。
それはタヌも同じだった。
「あれだけコテンパンにやられたから悔しくないんじゃないかな。実力が全然違ったから」
タヌは自分なりに解釈してため息をつく。
「うん。実力が違いすぎた」
ラウルもそれを認め、
「あんな奴、初めてだよ」
と、アクの凄さを口にするのだった。
「死ぬかと思った」
タヌがしみじみとした声を漏らすと、
「ほんと、死ぬとこだったな」
ラウルはそう応え、生きていることを不思議に思うのだった。
そして、
「死ななくてよかった」
タヌはマーヤを思い、
「俺も」
ラウルはシールを思う。
「それにしても、トマスって何者なんだろうな。あれだけアクが怒ってるのに『おじさん、おじさん』だもんな」
タヌはあのときの光景を思い出し「ぷっ」と吹き出して笑う。
「いたた・・・」
口の中が切れてて笑うのがつらい。
「確かにあれは笑える」
ラウルも恐れを知らないトマスを思い出して笑った。
そんなトマスのお陰でアクという男を知ることになったのは間違いない。
「あんなに凄い奴がいるなんて思わなかった。俺たちはまだまだ未熟だ」
タヌは自らの未熟さを実感するのだった。
「未熟かぁ・・・ほんとそうだな」
ラウルはしみじみと言い、馬乗りなってパンチを繰り出すアクの、その凄みを思い出していた。
このままではいけない。もっと力をつけなければ・・・
タヌとラウルはそれぞれに技を磨き、それぞれの術を極めること、そのために身体を強くすることを深く心に期すのであった。
ラウルがベッドの上に座ったまま、
「食べるか」
そう言って、棚の上のスープとパンに目配せすると、
「口の中が切れてて食べられそうにないや」
タヌはそう応えて苦笑いを浮かべた。
「そっか」
ラウルは同情の眼差しでタヌを見て、
「それじゃ、俺は食べさせてもらうよ」
そう言うとベッドからそろりと立ち上がり、棚の上のパンに手を伸ばした。
タヌはベッドに横になる。
「うわ、いたたっ、でも、美味い」
ラウルは口の中の痛みに耐えながら、パンを頬張った。
ラウルが棚の前で立ったまま朝食を食べていると、部屋の外がガヤガヤと騒がしくなり、食事を終えたみんなが戻ってきた。
「ラウル、ご飯持ってきたよ!」
トマスが嬉しそうに部屋に入ってくる。
トマスに続いて、
「持ってきたよ」
木のトレイに朝食を載せて入ってきたのはエラスだった。
エラスはラウルが手にパンを握り、口をもぐもぐさせている姿を見て驚いた。
「あれ、誰が持ってきたの?」
エラスは反射的に尋ねながら、ピンとくるものがあった。
「あ、誰だろうな。起きたら置いてあったんだ」
ラウルはそう惚けて首を傾げる。
生真面目なエラスのことだ。
男子寮であるこの部屋に女子であるあの二人が入ったことを知ったら怒るんじゃないか。
そう思ったからだ。
「嘘つきー」
そう言ったのはトマスだった。
「へ?」
ラウルが目を丸くして目を向けると、
「僕らが食堂に行く前、もう起きてたじゃないか。だからラウルの朝ごはん持ってきたんだよ」
トマスは〝信じられない〟と顔し、肩をすくめる。
確かにそうだった・・・
だからこそ、それを聞いたシールがラウルの朝食を持ってきてくれたのだ。
ラウルには返す言葉が見つからなかった。
「嘘が下手だなぁ」
トマスは呆れ、そのトマスの横でエラスの顔は引きつっていた。
「はは」
ラウルはバツが悪そうに笑う。
そのとき、
「ありゃ!」
トマスが突然素っ頓狂な声を上げ、
「タヌ!目開いてる!」
ベッドで寝ているタヌを指差し、驚きの声を上げた。
「おはよう」
タヌはトマスの驚きように苦笑いを浮かべ、そこにいるみんなを見て軽く右手を上げた。
「タヌ、起きたのか」
「おお、よかった」
トンテやガスクがそんな安堵の声を漏らし、
「やった!」
「タヌ、起きた!」
年少組もそう言って喜んだ。
エラスはタヌと目が合うと何の反応も示さずにタヌから目を逸らし、
「マーヤが来たんだね・・・」
真顔でボソッと呟いた。
気まずい空気が流れ、ラウルはそれをどうにかしようと、
「エラス、ありがとう」
笑顔でそう言い、半ば強引にエラスから食事の乗ったトレイを受け取った。
そして、
「タヌ、お前も食えよ」
と声をかける。
「えっ」
タヌは一瞬驚いた顔をしたが、覚悟を決めると、
「うん。おなかすいてたんだ。ありがとう、エラス」
そう言ってエラスに感謝した。
この場の雰囲気を和ませるには、口の中がどんなに痛かろうが、エラスの持ってきた食事に手をつけるしかないのだ。エラスの機嫌次第ではシールやマーヤに火の粉が降りかかる恐れもあるのだから。
「別に無理して食べることないよ」
エラスは力なく笑みを浮かべると、朝の授業の準備のために自分のベッドに向かった。
「ありがとう」
ラウルは改めてエラスに感謝の言葉をかけた。
「さ、食べようかな」
タヌは気持ちに気合いを入れ、体にはできるだけ力を入れないようにして上体を起こし、痛む体をゆっくりと動かしながらベッドの端に座ると、
「パン、取って」
ラウルからパンを受け取り食べるのだった。
できるだけ小さく手で千切り、慎重に食べる。
「美味しいな」
タヌはエラスに聞こえるようにそう言い、エラスに見えないように痛みに顔をしかめる。
みんなは授業のために部屋を出て行ったが、二人はゆっくりと食事を進めた。
タヌは口でふぅーふぅーと息を吹きかけ、スープを冷ましながら啜ると、温かな液体のまろやかな食感と共に、コクのあるタムネギの甘さが口の中に広がって、なんとも言えない喜びを感じるのだった。
その喜びが体全体に広がっていく。
「美味い、美味い」
タヌは知らず知らずに何度もそう言いながら、スープを飲み干していた。
体にエネルギーが戻ってくるようだった。
エラスに気を使って食べた朝食だったが、それが結果的にタヌの回復を早めることになったのである。
食後、二人で部屋の外に出てみると、朝の清々しい空気が二人を祝福してくれているかのようだった。
身体の痛みは痛みとしてそこにあるのだが、朝の陽射しが目に映る世界を活き活きと輝かせ、澄んだ空気を胸一杯に吸い込むと、体の痛みを忘れるほどの幸福感に包まれるのだった。
それは、三日間意識を失った後の、一日の始まりとして申し分ないものだった。