〇一二 暴力
ドスッ!
トマスは見事、アクの仰向けの腹の上に勢いよく落ちた。
「うぉっ!」
アクは叫び声を上げて飛び起き、飛び起きた拍子にアクの腹の上に落ちたトマスは弾き飛ばされ雑草の上を転がった。
「なんだ、なんだ?」
アクは何が起こったのか理解できず、状況を把握しようとキョロキョロと辺りを見回し、ベンチの横で転がるトマスの姿を見つけたのだった。
「いたたっ」
トマスは顔をしかめて立ち上がり、服やズボンについた草や土埃を手で払う。
「なんだお前は!」
アクはトマスを怒鳴りつけたが、トマスはまったく動じず、
「僕はトマスだよ」
仁王立ちになって自分を見ろすアクにそう笑顔で答えるのだった。
そこにタヌとスレイが追いついた。
まず謝ったのはアクを知るスレイだった。
「アク、ごめん!悪気はないんだ」
スレイは恐怖に顔を引きつらせながら、平身低頭、トマスの行動を詫びた。
アクはスレイに顔を向け、ペコペコ頭を下げている生徒がスレイだと気づくと、ふんっと鼻で笑うような仕草をみせた。
「スレイ、久しぶりだな」
アクは冷たい笑みを浮かべ、スレイを見下ろした。
「あ、うん・・・」
スレイはアクに睨まれ怖気づいてしまう。
「お前がこのチビ助の責任を取るってことか?」
アクが意味深な笑みを浮かべると、スレイはどう答えて良いかわからず顔を強張らせたまま固まってしまうのだった。
するとスレイの後ろから、
「僕はチビ助じゃなくてトマスだよ!」
と、トマスの抗議の声が聞こえてくる。
「黙れ!」
アクはトマスを睨んで怒鳴りつける。
「ごめんなさい。こいつ、悪気はないんです」
タヌはトマスを後ろから抱えるようにして立っていて、トマスの頭を撫でながらアクに頭を下げる。
この人、本気で怒ってる・・・
タヌはアクの怒り方に危機感を覚え、誠心誠意謝り何とか許してもらうしかないと思った。
「悪気がないで済むわけないだろ。俺を誰だと思ってるんだ」
アクがそう言ってタヌを睨みつけると、
「知らなーい」
無邪気なトマスが元気に答えた。
アクのこめかみがピクリと動き、
「トマス、ちょっと静かに」
タヌは慌ててトマスの口を塞ぐ。
アクから漂うオーラは、タヌが今まで感じたことがないくらいどす黒いものだった。
このままじゃ、まずことになる。
スレイは後ろを向いてアクについての情報をタヌに伝えた。
—この男は乱暴者で問題を起こして追放されるような奴だから、これ以上怒らせたら大変なことになるぞ。
そんな風に説明したら、殺されしまうだろう。
だから、アクの機嫌を損ねないように説明するしかなかった。
「こいつはアクっていうんだ。歳は俺と同じでまだ十五歳なんだけど、二年前、まだ十三歳という若さで剣術の腕を認められて、教官としてイスタル精鋭養成所に移ったほどの実力者なんだよ」
スレイがそう説明すると、
そっか。俺たちと入れ違いでここを離れたのか・・・
タヌは自分がこの黒緑色の霊兎を知らない理由に納得した。
そして、このがっちりとした体の大きな霊兎がまだ十五歳と聞いて驚いた。
「スレイ、俺をこいつ呼ばわりとは偉くなったものだな」
アクがドスの利いた声で凄むと、スレイははっとしてアクに振り返り、ぎこちない愛想笑いを浮かべ、
「いや、だって、お、俺たち同い年だしさ、わ、悪気はなかったんだ」
声を震わせそう言い訳をするのだった。
アクはバカにした目つきでスレイに改めて確認する。
「とにかく、お前がこのチビ助の責任を取るってことでいいんだな」
アクがそう念を押すと、
「あ、いや・・・」
アクのその目の奥にある殺気にスレイは恐怖を感じ、返事をすることができなかった。
その時またしても、口を押さえるタヌの手を除けて、トマスが声を出した。
「僕はチビ助じゃないよ。おじさん、物覚え悪いねー」
トマスは呆れ顔でアクの物覚えの悪さを非難した。
このチビ助、俺をからかってやがる・・・
アクの表情が変わった。
その目に冷たい殺意が宿る。
「調子に乗りすぎたな」
アクはそう吐き捨てると、スレイを押しのけてトマスに近づき、トマスとトマスを後ろから抱えるタヌの前に立った。
まずい・・・
タヌはアクの殺意に身構える。
「本当にごめんなさい。こいつはまだ子供なので許してください」
タヌが頭を下げると、
「ふん」
アクは鼻を鳴らしてそれに応え、おもむろにトマスの顔面めがけて平手打ちを食らわせた。
バシーッ!
頬を張る激しい音と共に、トマスとトマスを後ろから抱いていたタヌは一緒に吹っ飛んで雑草の上を転がった。
井戸の周りでガヤガヤとしていた生徒たちも、いつしか黙り込み、ハラハラしながら事の成り行きを静かに見守っているのだった。
だが、アクから漂う凄まじい殺気に身がすくみ、誰も三人を助けようとしなかった。
トンテはアクのことを良く知っているので、止めに入ることが逆効果だとわかっていたから、エラスとガスクを使ってダレロに助けを求めに行かせ、ダレロが早く来ることと、アクの怒りが鎮まることを、ただ祈るしかなかった。
そんな中、ラウルは冷静に状況を見ていた。
アクがトマスに平手打ちを食らわす瞬間、タヌがトマスの顔を手で庇い、アクの平手打ちを自分の手の甲で受けながら、その力に逆らわずに跳び、トマスを守るように抱えて地面を転がったのを、ちゃんと見ていたのだ。
さすがだなぁ、タヌは・・・
そう感心したし、〝タヌならなんとかしてくれる〟という安心感から、ラウルは井戸の側から動かずに様子を見守ることにしたのだった。
トマスを張り倒したはずのアクは自分の右手を見つめて首を傾げる。
どういうことだ・・・
平手打ちを食らわせた感触はあるのに、何かが違う。
転がった二人を見ると、殴ったはずのチビ助の顔は赤くなっているどころか、手が触れた形跡さえもない。
チビ助は笑みさえ浮かべているではないか。
アクは納得がいかなかった。
「アク、やめろよ!」
スレイは勇気を振り絞ってアクに詰め寄った。
トマスが張り倒されたのを見て、体が勝手に動いていたのだ。
「雑魚が・・・」
アクは怒りの矛先をスレイに向ける。
アクに睨まれたスレイは一瞬恐怖に駆られるが、そこで怖気づくことなく、
「もういいだろ?許してやれよ」
と、しっかりとした口調で訴えた。
スレイの目は必死に恐怖心と闘っている者の目だった。
アクはニヤリと笑うと、
「お前が責任取るんだな?」
そう言ってスレイの被っている布袋の首のあたりを鷲掴みにして絞り上げる。
「小さい子供のやったことなんだから、許してやれよ・・・」
スレイは恐怖心に負けそうになりながらも、タヌやトマスの前で、お兄さんの役割を果たそうと勇気を振り絞るのだった。
そんなスレイを、
「ふん」
と鼻で笑い、
「小さい子供だろうがなんだろうが、俺はバカにされるのが嫌いなんだよ。お前もそれはわかってるだろ」
アクは怒りの眼差しでそう吐き捨て、スレイを思いっきり殴りつけた。
ボコッ!ボコッ!ボコッ!
アクはスレイが倒れないように、布袋の首のところを左手でしっかりと握り締め、右手で二度、三度とスレイの顔面を力を一杯殴りつけた。
スレイの口の端から血が流れ、鼻からも血が流れ出す。
「やめてくれ、アク・・・」
スレイが涙を流して懇願しても、
「責任を取るんだろ」
アクはそう言って何度もスレイの顔を殴った。
ボコッ!ボコッ!ボコッ!
その殺意に満ちた目は、スレイを殺すことに躊躇のない目だった。
スレイがぐったりすると、
「これが最後だ」
アクは拳を振り上げ、
「死んで償え!」
そう叫び、思いっきりスレイの顔面に拳を振り下ろす。
だが、それと同時に、
ドンッ!
アクの横っ腹にタヌが体当たりを食らわせたのだった。
「くっ!」
アクはバランスを崩し片膝を突いて倒れてしまう。
気づいたらその手からスレイは離れていて、スレイは赤毛の少年と一緒に地面を転がっているのだった。
ちっ・・・
「またお前か」
アクは怒りの眼差しで赤毛の少年を睨みつける。
「俺はタヌっていうんだ」
タヌは立ち上がりながら自分の名を名乗った。
「お前、いい度胸してるじゃないか」
アクがそう言うと、
「度胸なんてないよ。でも仲間は助けるものでしょ。そんなことより、同じ養成所の仲間同士でケンカはやめようよ」
タヌは親しみを込めた笑顔でそう返すのだった。
その余裕な態度が気に食わない。
ふざけるな・・・
「だいじょーぶぅー?」
そう言いながらタヌに駆け寄るトマスをアクは苦々しく見、
「そのチビ助をこっちによこせ。二度と減らず口を叩けないようにしてやる」
そう言ってトマスを引き渡すよう要求した。
「それはできないよ」
タヌがきっぱりとその要求を拒否すると、トマスはタヌの後ろに隠れ、それからアクをからかうように顔だけ出して、
「だ、か、ら、おじさん、ト、マ、ス、だよ、僕」
呆れ顔でそう言い、
「ダメだなぁ」
と、ため息まじりに言うのだった。
トマスは恐れを知らないし、場の空気も関係なかった。
これにはタヌの顔も引きつった。
「しっ、トマス」
タヌが焦ってトマスに黙るように言っても、トマスは平気な顔でアクを見上げていた。
それはまさに火に油を注ぐ行為だった。
「バカにするのもいい加減しろ!」
アクの怒りは沸点に達した。
「トマス、離れて!」
タヌがそう叫んで後ろに立つトマスに目を向けた、その一瞬の隙をついて、
「死ね!」
アクは素速い動きで前に跳び、
ボコッ!
タヌの左頬へ強烈な一撃を見舞ったのだった。
「ぐはっ」
タヌは飛ばされ、気づいたら地面を転がっていた。
アクのその動きはあまりにも俊敏で、あのタヌが防ぐことができないほど素速いものだった。
くっそ・・・
タヌは地面に肩と腰をしたたかぶつけ、その痛みにすぐには動けなかった。
その様子を井戸の近くから見ていたラウルはアクの動きの速さに驚愕し、
「やばい・・・」
そう声を漏らすと同時に駆け出していた。
「まずは貴様を殺してやる!」
アクはタヌを逃がさない。
敏捷な動きでタヌに馬乗りになる。
アクが馬乗りになるとその迫力は凄まじく、そののしかかる体重に体が押さえつけられ、タヌは身動きが取れなくなる。
「くそっ・・・」
なんとか逃れようと体を動かそうとするが、どうにもならなかった。
「調子に乗りやがって・・・」
アクは怒りに燃えた目つきでタヌを睨みつけ、
「殺してやる!」
そう叫ぶと、タヌの顔面に向かって拳を打ちつけた。
ボコッ!ボコッ!ボコッ!
タヌは両腕を顔の前で構えてアクの拳を防ごうとするが、アクはそんなことお構いなしに殴り続けるのだった。
アクは只者ではなかった。
ボコッ!ボコッ!ボコッ!
タヌは顔面に何発もの拳を食らい、意識が飛びそうになる。
そんな中でも、タヌはアクのパンチのひとつひとつを手の動きや首の動き、上半身の微妙な動きを使って受け流すようにし、その威力を半減させることに意識を集中させるのだった。
しかし、ダメージを軽減するだけではすぐに限界がやってくる。
すでに口の中はズタズタに切れ血の味がしているし、鼻血で鼻が詰まって息も苦しくなっていた。
「げほっ」
タヌの口から血が溢れ出し、それを見てアクは殴るのをやめた。
「ぐぅ、う、う・・・」
顔を腫らし、うめき声を漏らすタヌに、
「くそが」
とアクは吐き捨て、
「トドメだ」
そう言って右の拳をぎゅっと握り締めるのだった。