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ラビッツ  作者: 無傷な鏡
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〇九九 エラスの困惑


 早朝のラドリア。


 精鋭養成所の裏に広がる野菜畑が、朝靄に濡れている。


 朝早く、エラスはジウリウ川の土手に座ってボンヤリしていた。


—何にも(とら)われずに物を見て、自分の心の声に耳を傾けるのも、悪いことじゃないと思うよ。


 シールにそう言われたあの日以来、寝付けない日が続いていた。


「はぁ・・」


 エラスはため息をついて頭を抱える。


「エラス、どうしたの?」


 エラスは突然背後から声をかけられ、ビクッとして振り返ると、そこにトマスが立っていた。


「びっくりしたぁ」


 エラスはほっとして胸を()で下ろす。


「えへへ」


 トマスはエラスの驚き方がおもしろくて愉快な気分になる。


「どうしたんだよ、まだ寝てる時間だろ」


 トマスを咎めるようにそう言ってエラスは口を尖らせる。


「それを言うならエラスの方こそどうしたの?」


 言いながら、トマスがエラスの横にちょこんと座ると、


「別に、早く目が覚めちゃったから」


 エラスはトマスの方を見ないで川に向かって答えるのだった。


 その暗い表情。


「嘘だー。早起きしたんじゃなくて、夜、寝られないんでしょ」


 トマスはそう言ってエラスの顔を覗き込む。


 トマスとエラスはベッドが隣同士なので、エラスが寝付けていないことはバレバレだった。


「バレてたのか」


 エラスはため息交じりにそう言う。


 そんなエラスの肩をポンと叩き、


「元気ないね」


 トマスが優しく微笑むと、エラスはチラッとトマスに目をやってから、胸に詰まっているものを吐き出すように、


「なんか、父ちゃんのこと思い出すんだ」


 しみじみとそう言い、寂しそうに笑うのだった。


「エラスのお父さんの話って、今まで話してくれたことなかったよね」


 トマスの言うように、これまでエラスが自分の父親の話をすることはなかった。


 母親についてはエラスが小さい頃に病気で亡くなったということを一度だけ聞いたことがある。


「うん」


 エラスはコクリと頷く。


「エラスのお父さんってどういう人だったの?」


 トマスはエラスの父親に興味を持った。


「僕の父ちゃんは家具職人で、とにかく真面目な人だった。爬神教の熱心な信者でさ。献身者に選ばれて天国に行くことを夢見てた人なんだ」


 エラスは川の向こうにある果樹園を眺めるようにしながら、その目には父親の姿を思い浮かべていた。


「でも、献身者に選ばれることはなかったんだ」


 エラスは悲しそうにポツリと言う。


「そうなんだ・・・」


 そう相槌を打つトマスの目には何も映っていなかった。


 そのトマスの変化にエラスは気づいていない。


「あのラドリアの惨劇が起こった日、僕と父ちゃんは爬神族使節を迎えるために大通りの沿道に出てたんだ。使節が通るときは静かにしてなきゃいけないのに、僕は爬神官に向かって指をさして、『あの人だれ』って声を出してしまったんだ。そしたら、その声が爬神官に聞こえたみたいで・・・」


 エラスはその時の光景をありありと思い出し、声を詰まらせると、苦しそうに目を閉じ、ギュッと拳を握るのだった。


 その苦しそうな横顔。


「それで?」


 トマスは淡々とエラスに先を促す。


 エラスは呼吸を整えるように、ゆっくりと深呼吸をしてから続きを話し始める。


「爬神官が行進を止めて・・・気づいたら父ちゃんが爬武官に鷲掴みにされてて・・・・」


 その時の光景を思い出すことは、エラスにとって辛いことだった。


 それでも、エラスは言葉を絞り出す。


「父ちゃんは僕を見て言ったんだ。『すべては神の計らいなのだから、それを受け入れることで、父ちゃんは天国に行ける。エラス、父ちゃんを祝福するんだよ』ってさ。その父ちゃんの顔が目に焼き付いて離れないんだ。無理に笑顔を作ってさ。それでいて悲しそうな目をしてるんだよ」


 そこまで話すと、エラスの目からつーっと涙がこぼれ落ちた。


「・・・」


 トマスはじっとエラスの話を聞いている。


「僕は無我夢中で『父ちゃん、父ちゃん』って泣き叫んでた。その僕の目の前で、父ちゃんは爬神官に頭から食べられたんだ」


 エラスは寂しそうに宙を見つめ、


「ひどいね」


 トマスは抑揚のない声で相槌を打つ。


 エラスはその言葉に反応してトマスに振り向いた。


「ひどいと思う?僕はひどいとは思わなかった。とても悲しかったけど、でも、父ちゃんは天国に行ったんだって、そう信じ続けてた。あの父ちゃんの顔を思い出す度に、父ちゃんは天国へ行ったんだって、爬神官に食べられて本当に良かったんだって、心からそう思ってたんだ。だからこそ、僕は父ちゃんのためにも、爬神教にすべてを捧げて、立派な兎神官になろうって、そう思って生きてきたんだ」


 エラスは苦しげに想いを語り、頬を伝う涙を拭った。


「ふーん」


 トマスは淡々と相槌を打つ。


「でもさ」


 エラスは自分に呆れるような顔でトマスに話しかけ、苦笑いを浮かべた。


「なに?」


 トマスは聞き返し、無表情にエラスを見る。


「トマスがこの前僕に言っただろ。自分の目で見て、自分の頭で考えてるかって」


 エラスはトマスから視線を川へ戻し、お尻の横の草を千切った。


「うん、言った」


 トマスは淡々と応える。


「あれ、ショックだった」


 そう言ってエラスが千切った草を川に向かって投げると、草はひらひらと目の前で散っていった。


 トマスは黙ってエラスの横顔を見つめている。


「今までの僕にとって、爬神教の教えを守ることがすべてだった。何を見るにしても、教えに従って見たし、考えるときだって、教えに背いてないか、教え通りか、そればっかりだった。朝起きてから寝るまで、僕は爬神教の教えに従うことに満足していたし、教えから離れることを恐れていた。この前言われて気づいたんだ。どこにも僕自身が存在しないってことに。僕は爬神教の目で見て、爬神教の教えに従って考えているだけの、空っぽな人間だって気づいたんだ。シールは言ってたよね。何にも囚われずに物を見て、自分の心の声に耳を傾けるのは悪いことじゃないって」


 エラスは切々と語る。


「うん」


 無表情に頷くトマスの目に力が宿る。


「でも、怖いんだ」


 エラスがそう言って苦渋の表情を浮かべると、


「何が怖いの?」


 トマスは抑揚のない声で問う。


「自分の心の声を聞くのが怖いんだ。トマスやシールに言われたあの日から、父さんの顔を思い出す度に、胸が苦しいんだ。悲しみが込み上げてくるんだ。今までは、父さんは天国に行ったんだって、そう思って納得できてたはずなのに・・・」


 エラスは目を閉じ、苦しげに顔を歪めた。


「それでいいんじゃない?」


 トマスの声には感情がない。


 だからこそ、エラスの胸にすっと入ってくる。


「でも・・・」


 エラスにはどうしていいかわからない。


「それが心の声だとしたら、怖がらずに耳を傾けることだよ」


 トマスのその淡々とした口調、無表情な顔、でも、その眼差しは虚ろでいて厳しい。


 エラスはトマスがいつものトマスじゃないことに気づいていない。


「わかってるよ。でも、父ちゃんは天国に行ったんだって信じていたからこそ、爬神様に食べられて良かったって、自分に言い聞かせることができたんだよ。もし、そうじゃないとしたら・・・父ちゃんは僕のせいで、ただ大勢の人の前で惨めに殺されただけだったとしたら・・・僕のせいで・・・そうだとしたら、僕は耐えられないよ・・・」


 エラスの心に、今まで見ないようにしてきた感情が溢れてくる。


「う、うう・・・」


 手で顔を覆い、肩を震わせて泣くエラス。


 そのエラスに、


「エラスがどう思おうが、真実は変わらない」


 トマスは冷たく言い放った。


「えっ」


 トマスの冷静な言葉に、エラスははっとした。


 トマスは容赦なく言葉を続ける。


「真実を見ることは辛いかも知れないけど、きっと答えはそこにしかないよ。真実をちゃんと見ないと、正しい道がどこにあるのかわからないよ」


 その感情のこもらない冷たい声、抑揚のない言い方、それなのに、その言葉はエラスの胸に優しく響いた。


 厳しいけれど、そこに希望の光が見えるような気がした。


「僕に答えは見つけられるかな」


 エラスはトマスにすがるように問いかける。


 トマスは虚ろな目でエラスを見て、そして、優しい笑みを浮かべた。


「エラスは自分のことを、空っぽな人間だって言っただろ。空っぽでいいじゃん。空っぽな心にしか答えは見えないはずだから」


 トマスが淡々とそう言うと、その言葉は淡々とエラスの胸を打った。


「・・・」


 トマスの言葉に驚いて目を見張るエラスに、トマスは語りかける。


「色の着いていない透明な心だけが、あるがままに物事を見ることができるんだ。真実に色は着いていない。色を着けるのはそれを見ている人の、色の着いた心なんだから」


 トマスの自分を見つめる虚ろな眼差し。


 そしてその語る言葉。


 エラスは言葉にならない不思議な感覚に包まれていた。


「トマス・・・」


 それだけ言うのが精一杯だった。


「だから、空っぽでいいんだよ」


 トマスは機械的な動きでエラスの肩に手を置いて、その口元に笑みを浮かべた。


 その眼差しは虚ろだが、たしかにエラスに向かって微笑んでいる。


「うん」


 エラスはトマスを見つめ返し、こくりと頷いた。


 朝の光に照らされたエラスのその顔は、憑き物が落ちたような、そんな穏やかなものだった。


 その日のお昼、エラスはトマスと一緒に食事を摂りながら、朝の出来事の話をしたのだが、トマスはいつもの元気なトマスでしかなくて、そのことをまったく憶えていなかった。


 エラスは首を傾げ、「ま、いっか」そう呟いて、深く考えることはしなかった。


お読みいただきありがとうございます。

面白いと思っていただけましたら、ぜひ、高評価とブックマークをお願いします。

できるだけ多くの人に読んでほしいので。

よろしくお願いします。

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