〇〇九 生真面目なエラス
精鋭養成所において色々学ぶことはあるけれど、最も重要なのが爬神教の教えとその成り立ちであり、霊兎族の信仰の歴史だった。
特に何度も何度も繰り返し教えられるのが、ドラゴンにその身を捧げることの尊さであり、献身者がいかに祝福され、神に愛される存在かということだった。
神の使いであるドラゴンや、神民である爬神族に命を捧げることは、霊兎族にとって最上の喜びであり、それが天国に入る道だということが、子供の頃からその魂に刷り込まれていくのだ。
そして罪を犯した霊兎は蛮狼たちの餌食となり、地獄の炎の中へ落とされるという恐怖心も同時に植え付けられるのだった。
兎人にとってドラゴンや神人に食べられることは至福の喜びであったが、それと同じくらいに、狼人に食べられることは恐れられ、忌み嫌われることだった。
それらは街のいたる所にある教会でも教えられ、霊兎族のすべての人間が深く学ばなければならないものだった。
タヌやラウルも精鋭養成所に入る前は、そうした街の教会で爬神教の教えを学んだのだった。
精鋭養成所では授業で学ぶこと以外にも飼育棟での餌やり、施設裏の畑や果樹園での農作業、施設内の清掃など、子供たちにはいろいろな仕事が与えられた。
午後の早い時間に授業を終えると、そういった奉仕活動をするのが生徒たちの大切な日課だった。
奉仕活動のすべてが爬神教の教えを学ぶ修行だった。
すべての作業を神への感謝の心を持って行うこと。
辛くても不平不満の心を持たないこと。
心の成長は苦しみを通してしか成し遂げられないこと。
それ以外にも、多くのことを生徒たちは日々の奉仕活動を通して学んでいるのだった。
養成所施設の裏には、川幅二十メートルほどのジウリウ川が東から西に向かって緩やかに蛇行しながら流れていて、川を挟んで施設側に野菜畑が作られ、向こう側は広々とした果樹園になっていた。
タヌとラウルは同部屋のエラスと共に水汲み用の桶のついた天秤棒を担ぎ、施設の北西にある門から外に出ると、あぜ道を通ってジウリウ川に向かった。
この日は対岸の果樹園での水撒きが仕事だった。
晴天の空から降り注ぐ陽光が、エラスの明るい茶色の髪をさらに明るくみせているにも拘わらず、エラスの表情はその明るい髪の色よりも明るいのだった。
「奉仕活動のときはいつも楽しそうだな」
タヌはそう声をかけ、エラスに感心する。
「だってこれは神に捧げる行為なんだよ。当然でしょ」
エラスは胸を張って応え、それから、
「ラウルならわかるよね?」
と、タヌの向こうを歩くラウルに目を向ける。
突然同意を求められたラウルは、
「あ、ああ」
どこかぎこちなく同意するのだった。
そのぎこちなさは、〝エラスほどわかっているか〟と問われれば、自信をもって〝はい〟と答えられないところから来ていた。
「二人とも偉いなぁ」
奉仕活動をあくまで日課としてしか捉えていないタヌは素直に感心する。
畑に植えられたラタスやネラなどの葉野菜が、陽光を受けて気持ち良さそうにそよ風に揺れていた。
対岸の果樹園の木々も幸せそうに風に吹かれている。
いい天気だなぁ・・・
タヌがそう思って空を見上げたら、
「タヌー!」
背後から元気な声が聞こえてきた。
三人が同時に振り返ると、視線の先にはマーヤがいて、マーヤはニコニコと嬉しそうに駆けてくるのだった。
マーヤの肩にのせた天秤棒の、両端にぶら下がる桶が乱暴に揺れている。
川へ向かう他の生徒たちも女の子の元気な声を耳にして振り返り、そこにマーヤの姿を見てクスッと笑ってしまうのだった。
〝いつものおチビちゃん〟と言った感じで、みんなは微笑ましい目でマーヤを見ていた。
そのみんなの目がタヌには恥ずかしかった。
「そんなに大声出さなくてもいいのにな」
タヌがボソッと呟くと、
「マーヤらしくていいじゃないか」
ラウルはそう言ってマーヤのマーヤらしさを微笑ましく思う。
一方、エラスはマーヤの態度をよく思っていなかった。
でも、それをマーヤに直接言うことはない。
だから、
「タヌがデレデレしてるからだよ。みっともない」
エラスは不愉快な顔をして嫌味を言うのだった。
「みっともないかぁ・・・」
タヌはそうため息交じりに呟いて、マーヤに目を向ける。
マーヤは屈託のない笑顔で駆けてくる。
その無邪気さを拒否するのは難しい。
タヌは諦め顔で肩をすくめると、笑顔でマーヤが追いつくのを待った。
「気にするなよ」
ラウルはそうタヌに声をかける。
そのラウルの口振りが、エラスには気にくわなかった。
「気にすべきだよ」
自分の正しい意見にちゃんと耳を傾けない二人に苛立ちを覚える。
「僕たちは神に仕える者として、立派な振る舞いを心がけなきゃいけないんだよ。女の子にデレデレするなんて、信仰心が足りないからだよ」
エラスはタヌの態度をそんな風に非難した。
信徒は一心に神に仕え、ドラゴンを崇めなければならない。
霊兎はその命さえ捧げなければならないというのに、タヌはあまりにも呑気すぎるのだ。
「そうかもしれないな」
タヌは言い返すことなく素直にそれを認め、
「ほんとにわかってる?」
エラスが念を押すと、
「どうだろ」
そう返して苦笑いを浮かべるのだった。
エラスは二人と歳が一緒で精鋭養成所に入った日も近かった。
エラスの父親はもう亡くなってしまっていたが、信仰心に厚く、エラスが兎神官になることを夢見ていたという。
だからこそ、厳格で立派な兎神官になることが父親の願いを叶えることだと信じて疑わないエラスが、狂信的に爬神教を信奉するのは当然のことだった。
爬神教の熱心な信奉者であるラウルには、エラスの言いたいことはよくわかる。
だが、エラスはほど狂信的ではなかった。
単純に、ラウルにとって仲が良いことは良いことだった。
「たしかに俺たちは立派な信徒になるべきだと思う。命を捧げる。それもわかるよ」
ラウルはエラスの考えに理解を示し、それからタヌに向かって嬉しそうに駆けてくるマーヤの活き活きとした笑顔を目で指し示し、
「でも、だからといってあのおチビちゃんの笑顔を拒否しろってのは、無理があると思う」
そう言ってエラスに理解を求めた。
しかし、エラスはマーヤの無邪気な笑顔を苦々しく思うような複雑な表情を浮かべると、
「タヌは優しすぎると思う。タヌが護衛隊に入って立派な隊士になりたいんだったら、やっぱり今は自分を磨くことだけを考えるべきだよ。たとえマーヤを傷つけることになったとしても、きっぱりと拒絶すべきだと思う。神への想いの方が大切なんだから」
と、改めてタヌを批判したのだった。
タヌは微苦笑を浮かべるだけで、それを黙って聞いた。
そんなタヌに代わって、
「エラス、お前は真面目すぎるよ」
ラウルはそう言い、エラスの頑なな態度に呆れるのだった。
マーヤは三人に追いつくと、
「はぁ、はぁ・・・」
息を切らせながら、
「待っててくれてありがとう!やっぱりタヌは優しいな」
そう言って目を輝かせるのだった。
「待たなかったら怒るだろ」
タヌがそう返すと、
「そりゃ怒るよー」
マーヤほっぺを膨らませて怒った顔を作ってみせるのだった。
そのマーヤの顔にはそばで見ているラウルもつい笑ってしまう。
マーヤのそういう無邪気さがタヌは好きだった。
「ははは。怖い怖い」
タヌは嬉しそうに笑う。
エラスはそんな二人のやりとりを苦々しく思ったし、それが顔にも表れていた。
そんなエラスの様子にマーヤは全然気づかなかったし、タヌは気づいていたけど気づかないふりをした。
タヌの横でラウルはマーヤの来た道にシールを探すが、シールの姿はどこにもなかった。
「シールは?」
ラウルが訊くと、
「マーレ様に呼ばれたから先行っててって言われたー」
マーヤはシールに言われた言葉をそのまま伝え、シールが来ないことに、
「そうなんだ・・・」
ラウルは明らかに落胆した。
マーレは兎神官になるためのクラスを教えている初老の教官だ。物わかりの良いおおらかな性格と、女性らしい落ち着いた物腰から、生徒たちから慕われていて、ラウルもマーレには好感しか持っていなかった。
しかし、マーレは教官という職とは別に、教会での役割として、ドラゴンに捧げられる献身者の管理を任される高位の兎神官でもあった。
まさか、シールを献身者に・・・
なんてあり得ないことを考えてしまう。
宙を見つめ黙り込むラウルに、
「ラウルはお姉ちゃんのことが大好きなんだね」
マーヤがそう言ってからかうと、
「ち、違う!」
ラウルは顔を真赤にしてそれを否定するのだった。
「そうなんだぁ」
マーヤはからかうようにラウルを見、それからすぐに、
「タヌ、行こ!」
そうタヌに声をかけると、天秤棒を担いでスタスタと歩き出すのだった。
マーヤにとってラウルがシールのことを好きなのは、まったくもって恥ずかしがることではなかった。
いつも一緒にいるんだから、当然だよね・・・
って感じだ。
タヌは微笑ましくラウルを一瞥してから、
「うん」
と頷いてマーヤの後を追った。
「ま、待てよ」
ラウルも慌てて後を追う。
エラスはマーヤの背中に向かって、
「だらしなさすぎる」
そう小声で吐き捨て歩き出すのだった。
マーヤは先頭を歩きながら、近くで水汲みをしているトマスを見つけ声をかける。
「トーマースー!」
でも、トマスはそれに気づかず、
「聞こえないのか・・・」
マーヤは残念そうにそんな独り言を言い、それから後ろを歩くタヌに、
「トマス、がんばってるね」
なんていって笑うのだった。
六歳のトマスは同じ年頃の子たちと畑に撒く水汲みを行っていて、トマスの桶を担ぐ足取りはふらついていて覚束ないが、その顔はニコニコしていて楽しそうだ。
「お、お、お」
なんて言いながらよろめいている様子を見ると、わざととしか思えない。
そんなことしたら、ほんとに転んじゃうよ。
みんなそんな目でトマスを見ていて、案の定、
「あっ」
トマスは足がもつれ、前につんのめって転んでしまう。
ドタッ!
それでも、トマスは桶の水だけはこぼすまいと、桶を地面にちゃんと置いてから、胸から落ちたのだった。
「トマス!」
トマスのすぐ後ろを歩いていた男の子が声を上げると、前を行く子供たちは一斉に足を止めトマスに振り返った。
トマスの後ろを歩いていた黒髪の男の子の名をレレといい、トマスとは部屋が一緒で、白髪のトマスとは白黒コンビと呼ばれるほど仲良しだった。
「とほほ・・・」
トマスはバツが悪そうに苦笑いを浮かべながら立ち上がり、上着とズボンについた土埃を払う。
「とほほ、じゃないだろ」
レレが呆れると、
「むへへ」
トマスは口をへの字にし、目を白目にして笑ってみせる。
トマスの周りには同じグループの子供たちが集まってきて、
「なんだよ、その顔」
「おもしろーい」
なんて言って笑うのだった。
トマスを中心に楽しそうにしている子供たち。
でも、仕事の途中だ。
「おーい、そこ!さっさと水を撒きに行きなさい!」
遠くから教官の声が聞こえると、
「行こ、行こ」
誰ともなしにそう言い、子供たちは列を作ってネラ畑に向かって歩き出すのだった。
それはそれは長閑な光景だった。
子供たちは一生懸命奉仕活動に汗を流した。
そのうち日は傾き始め、その日の奉仕活動は終わる。
結局、この日の奉仕活動にシールは姿をみせなかった。