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野ざらしを心に風のしむ身哉

 貞享元年(1684年)8月秋、松尾芭蕉は江戸深川の芭蕉庵を立って、「野ざらし紀行」の旅に出た。門人の千里(ちり)と共に。

 芭蕉41歳の時である。

 二年前の天和二年(1682年)十二月二十八日に、江戸駒込の大円寺を火元とする江戸大火で芭蕉庵が全焼した。

 が、天和三年(1683年)の40歳の冬には、門下の弟子や知人ら五十二名の協力で「第二次芭蕉庵」が再建され、芭蕉は世の儚さと人の情の温かさを体験した。

 その生命の危機といえる体験と母親の墓参りも兼ねて、郷里の伊賀に里帰りの旅に出る決心をした。


 当時の旅は行き倒れになって髑髏(ドクロ)を野に晒すような覚悟が必要だったとも言えるが、「野ざらし紀行」の最初に詠んだ「野ざらしを心に風のしむ身哉」という句はちょっと大げさなようにも取れる。

 これは芭蕉の俳諧師(はいかいし)としての覚悟であり、この旅の中で何か確固たる自分の作風を掴みたいという想いが込められているように感じる。

 

「良忠さまは私を許してくれるかな」


 そんな悲壮な覚悟の旅であったが、芭蕉の胸には共に俳諧を学んだ伊賀国の侍大将の藤堂家の嗣子(しし)(跡取り)である良忠の思い出が蘇っていた。

 1644年(寛永21年、正保元年)伊賀国上野村で生まれた芭蕉の本名は松尾宗房である。

 松尾家は平氏の末流で苗字帯刀を許されていたが、身分は農民で農家の次男として生まれた。 

 13歳で父を亡くし、兄の半左衛門が家督を継ぐ事になった。

 宗房は伊賀国の侍大将の藤堂家に出仕し、料理人などを務め、二歳上の子息の良忠と共に京都の俳諧師の北村季吟に俳諧を学ぶことになった。 

 が、その良忠は寛文6年(1666年)に24才で急逝する。


「良忠さまに貰った命、俳諧の道に使わせて頂いてます」


 良忠の死因は何らかの毒に当たった事だったが、料理人である宗房が責められる事を怖れて、死ぬ前に遺言書をしたためていた。

 毒に当たったのは偶然ではない。

 「22歳で最も親しい者を殺す」という伊賀の里の百地家の非情な掟があった。

 そうやって生き残った者だけが一人前の忍びになっていく。

 宗房の母方が百地家であり、宗房が忍びの道を継ぐことになっていた。

 後継ぎである兄の半左衛門は農家になり、その掟は免除されていた。

 良忠は薄々、それを知っていて、遺言書まで残しておいたのだ。

 宗房は本当は良忠を殺めた罪で死ぬつもりだった。

 だから全く逃げていなかった。

 だが、良忠の遺言書には「自死」であると書かれていたという。


 あの時、貰った命は良忠の好きだった俳諧に使うことにした。

 「野ざらしを心に風のしむ身哉」という句には宗房、俳諧師(はいかいし)となった松尾芭蕉のそんな想いも込められていたかもしれない。

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