大好きなあなたへ、大嫌いだったよ。
「別れよっか。」別れたくないよ。
「他に好きな人が出来たんだよね。」あなたが大好きだよ。
「あなたの部屋にある私の物、全部捨てちゃっていいから。」私を忘れないで。
日曜日の昼下がり、8月上旬にしては涼しく感じた。だって、こんなにも手が震えてるんだから。久しぶりのデートは、カフェで待ち合わせた。「今日どこ行く?」なんていう、楽しみでたまらないというような表情をした彼への返事が別れの言葉じゃあ、そんな顔にもなるよね。
まだ私の言葉を上手く飲み込めていないのか、口を半開きにしてこちらを見つめる彼。
「お会計は私がしとくから、じゃあね。」
「え、いやちょっと待てって!」
私の腕を優しく掴む彼の手を振り払い、早足でその場を後にした。上手く笑えていただろうか。
彼が追ってこないのを確認してから、歩を緩める。
「せっかくスニーカーにしてきたのに、意味ないじゃん。」ぽろっと言葉がこぼれたのと同時に、涙も溢れ出る。
最後くらい追ってきてくれるかもしれないという淡い期待は、どうやら虚しく消えたようだ。
喧嘩して私が家を飛び出した時、追ってきてくれたことなんて無かったもんね。そんなところが、大嫌いだったよ。
涙でぐちゃぐちゃな顔。マスクも、もう無いに等しいくらい濡れてしまった。
バッグからキャップを取り出し深くかぶる。
どうか誰も気づきませんように。
この大都会で、周りを注意深く見てる人などいないだろう。そんなことは分かっている。分かっているけど。
人が行き交うこの街で、突然ひとりぼっちになった気がして、悲しくなる。彼からの連絡が怖くて既に電源を切ってしまったスマホを、あたかもいじっているように装って、下を向いて帰宅した。
真っ黒な画面は自分の醜い顔を写していた。
真っ赤な顔してナンパしてきたあなたが大嫌いだった。それについて行く私も嫌いだった。
初対面なのに馴れ馴れしく私の髪を触るあなたが嫌いだった。それなのに、自慢の髪を褒められて嬉しくなる私が大嫌いだった。
いつも大事に優しく接してくれるところが、慣れてそうだなって、嫌だった。それを、大事にしてくれてるんだなって、一喜一憂する私が嫌いだった。
女友達が多いところが、本当は嫌だった。でもそれを言い出せなくて、「行ってらっしゃい」って笑って見送る自分が嫌いだった。
何も無い日に、映画見ようって、ケーキやお菓子を買ってきてくれるあなたが、好きだった。その花のような笑顔が、大好きだった。
お風呂上がりに、自分のことはそっちのけで、私の髪の毛を丁寧に乾かしてくれるあなたが、大好きだった。不器用なりに頑張ってくれているところが、大好きだった。
私の知らない世界を、たくさんたくさん見せてくれたあなたが、本当に、本当に大好きだった。
必死に嫌いなところを見つけて、忘れようとする私が大嫌いだ。気づいたら、大好きなところを見つけてしまう私が、大嫌いだ。
部屋のベッドで布団を頭からかぶる。冷房で冷えたはずの部屋なのに、布団の中は暑い。どれだけ泣いたのだろう。時間を確認したくても、することは出来ない。部屋にある唯一の、時間を確認できるものは、机の上に放り投げられたスマホ。
スマホの電源をつけるのが怖い。連絡を確認するのが怖い。
だってもし連絡が何も来てなかったら?彼も本当は別れたかったって思ってたら?
別れを決断したのは自分なのに、あなたからの連絡が欲しい。そんなちぐはぐな自分が嫌になる。
体感5時間くらい泣いたのだから、今はもう夜になったのだろうか。
親にも連絡を入れなければならない。だから、スマホの電源を入れなくては。勇気を出して。
泣きすぎて回らなくなった頭をなんとか回して、机の上のスマホを手にする。冷房で冷やされたスマホは、自分を少し冷静にさせた気がした。心臓は激しく音を立てていた。
スマホの電源が入り、まず目に入ったのは、やはり彼からのメッセージ。
たった一言、「もう一度話をしたい」
涙がまた溢れそうになり、涙腺がバグってるななど、呑気に考えるほどには冷静になれていたと信じたい。
そういうところだよ。あなたのそういうところが。
薄く笑い、ほかの通知に目をやる。
「言ってきたの?」母からのメッセージが一件。
すぐにトークルームを開き、母にメッセージを送る。「言ってきたよ」
いつものように、すぐに既読がつき、また返信が来る。「ちゃんと伝えた方がいいと思うけど」
そんなこと言ったって、辛いだけじゃん。私も辛いし、彼だって辛い、と思う。
「いいの、今から帰る」そう一言返して、母とのトークルームを閉じる。
彼とのトークルームを、既読をつけないようにそっと覗く。
「もう一度話そうって言ったって。」そんなの無理だよ。ぽそっとつぶやく。
予め準備しておいたトランクを玄関前に置く。赤く晴れた目を保冷剤で冷やしながら、忘れ物はないか部屋の隅々を見渡す。ベッドと布団、机以外にはもう何も無い部屋。まるで私の心のようだと自嘲する。
「これくらい、いいよね。」私はどこまでもズルい女だと思う。
バッグから1本のペンと財布を取り出し、財布からは先程のカフェのレシートを取り出した。
机の前に座り、何を書こうか考える。
自分の病気のこと?本当は別れたくないこと?それを書いてしまったら、今日の頑張りと涙は全部無駄になってしまう。
本当の気持ちを隠してこう綴ろう。
大好きなあなたへ、大嫌いだったよ。
スマホをもう一度取り出し、彼のトークルームを開く。
「明日合鍵返しに来てくれない?」
どうか返しに来てくれませんように。どうか、私の本当の気持ちに気づきませんように。
正反対の願いを込めて、送信ボタンを押す。
「じゃあばいばい。」
私はまたキャップを深くかぶり、トランクを持って自宅へ向かおうと、靴を履いた。
ガチャリと、鍵をかける音がやけに悲しく響いた気がした。
とある物語の、前日譚。