ゴンドラに乗って
男のクソでか感情を書きたかった。
【いつかの話】
そいつはいつも教室の隅に座っていた。長く伸びた前髪で細目を隠すその男は貧相で、いつも隠れるように体を小さくしている暗いやつだった。
セノオ、と教師から呼ばれると男はひょろりと体を伸ばして質問に答える。しかしその声はあまりにも小さく教師は困り当てた顔をしてそいつを座らせた。周りの生徒の嘲笑の中、少しこけた頬がひくりと持ち上がるのが目に焼き付いた。
初めての会話は忘れた。多分授業についての些細な話だろう。くだらない会話の合間にあいつの腹の音が鳴ったのは覚えてる。
「飯食ってないの?」
「あはは」
いかにも金に困ってます、みたいな顔して笑ってんじゃねえよ。そう思っても何故かその顔に苛立ちは感じなくて、本当に自然と言葉を繋げた。
「飯食うか。奢る」
悪いよとごねるあいつを近くの飯屋に引き摺った。小さい口でボソボソ食べる様子に苛立ち机を爪で叩く。よくまあ安価な定食屋らしい安っぽい味を真剣に食べるものだ。そう思う一方で、どこか頭の端で思う。目を離したすきにどこかで野垂れ死んじまうんじゃないか。誰にも知られずにこっそりと死んでいってしまうんじゃないか。そんなことないってわかっているけれど、この男ならやりかねないと思うと放っておけなかった。冴えない男に振り回されているなんてダサすぎる。はあとわざとらしくため息を吐いて注文していたスープを押し付けた。
「やるよ」
途端にぱっと輝く目に呆れた。こんなことで喜ぶ男に。そしてこんな男を構いたくなる俺自身に呆れて再度ため息を吐いた。金にもならない生産性のないことを俺は何をしてるんだろう。
そんなことがあってから、あいつを見かけると声をかけるようになった。腹は減ってないか? 飯は食ったか? 小煩い母親のように付き纏う俺に最初は戸惑っていたようだった。当然だ。俺なら金目当てかと警戒する。しかししばらくすると諦めたのか、慣れたのか次第に穏やかな笑みを見せるようになった。
「ツバキ」
ひと月が経つ頃ふと零れた俺の名前。セノオの口から出た時は一種の達成感を覚えた。
【23:00 P.M. 夜空が見える街にて】
黒い服は好きだ。流行も季節もさほど考えずに着れるから。そう言うと、セノオは季節は選ばなくとも人は選ぶと思うよと笑った。じゃあ俺は選ばれた人間だってことかと鼻で笑い返した気がする。しかし濃いブラックスーツを着て鏡を前に思う。黒なんて嫌いだ。
俺以外の参列者は一様に陽気な格好をしていた。黒い服なのは変わらないがかなりカジュアルだ。女は肩や腰に花をつけて華やかさを出し、男はスカーフやハットをアクセントカラーにしてセンス良く着こなしていた。
じめじめとした湿っぽい雰囲気はなく、悲しみながらも穏やか笑みが行き交う異様な葬式だった。よそ者である俺が馴染めるわけもなく、団体を少し遅れて追いかけた。
ただ歩くだけのことに飽きて暇にあたりを見渡す。石畳の街を草原が囲んでいる。今にも牛の声が聞こえそうだが、夜だからか辺りは静まり返っていた。目の前のやつらを除くと静かな夜だった。
あー煙草、吸いてえ。胸元に伸びそうになる手をポケットの中で握りしめる。だめだよとセノオが苦笑する様子が頭によぎった。うるせえ。止めたきゃ出て来いよ。
一行は街の中心部を通り、小高い丘へ登っていく。途中、いくつかの家がろうそくを差し出し参列者に持たせた。後ろをついて歩く俺にも渡された。
「初めてで驚いたでしょう。でも大丈夫よ」
何が大丈夫なんだ。反論する間もなく婆さんに何かを押し付けられた。キャンドルホルダーだった。中心に薄紫色のろうそくが置かれ、その周りをステンドグラス風の色ガラスが囲んでいる。前を歩く彼らの手にも同じものが収まっていた。
火を手に持つと余計に煙草が恋しくなる。欲求を堪える俺にろうそくの甘ったるい匂いは鼻につき不快だった。
ぼんやりとした灯りを伴って俺たちは丘の上にある焼却炉へたどり着いた。
久しぶりの運動で少し息が上がる。ここで膝に手を置くのはダサいから深く呼吸をしてごまかした。吐いた息の代わりに入り込んだ空気を薄汚れた肺に貯まる。セノオが自慢するだけあって澄んだ空気だ。
ごうごうと声をあげる焼却炉の前に船を模した木の箱が置かれていた。箱には波のような模様が幾重にも掘られている。ろうそくを渡してきた婆さんが刻んだものらしい。この街唯一の彫り師のだと誰かが言っていた。
セノオの家族を初めに次々と木船に花を詰めていった。一般的に添えられる菊や蘭ではない知らない花を手にしていた。
「あれは月下美人って言うのよ」
いつの間にかセノオの母親が隣にいた。目の下にクマがあり、目元が赤い。やっぱり泣いたのかと思うと安心した。あいつにも泣いてくれる人がいたのか。それじゃあ俺は? あの日から泣いていない俺はセノオのことを偲べているのだろうか。
がさついた気持ちを知らないやつらに背を押され、俺も木船に近づいた。
【13:00 P.M. 列車内にて】
がたんと列車が揺れた。
「飲むか」
「ありがとう」
空を見ていたセノオははにかんで差し出した珈琲を受け取った。自分の珈琲に口をつけリズムのずれた鼻歌を聞きながら向かいに座る。窓の外から見る空はいつもと変わらず青かった。
「街の外に出るの初めてだ。空綺麗だなあ」
「田舎出た時も乗ってきたんだろ」
「あの時は夜だったし、ほとんど寝ていたから外見てなかったんだよ」
流れる雲を見つめる表情はあまりに美しく知り合ってから初めて見たものだった。いつものなまくら顔はどこへやったのか、今日は朝から長い前髪の下できらきらと目を輝かせていた。
「そんなにか」
「そんなに、だよ。こんなにも昼の空を眺めたことはない」
「お前夜が好きだよな」
以前セノオの家で飲んだ時のことを思い出す。セノオは狭い間取りで駅から遠い最悪の物件に住んでたが、周りに高いビルがなく空が広かった。煙草が美味い夜だった。
「だめだよ」
胸元へ伸びた右手をセノオが制する。ここは車内だ。流石に俺でも吸うわけはないのだが、一連の流れが癖になっているようだ。どこかばつ悪く首元を掻く。
「吸わねえよ」
「そんな煙よりも外の空気の方が美味いのに」
「空気が美味いから吸うんだろ」
「夜に吸うのだけはやめてくれよ」
煙たげに睨む目を無視した。何でもないようにナッツの袋を開ける。
「そんなに夜好きなのって理由あんの?」
「んー。信仰? かな」
「信仰?」
一つ頷くとセノオは袋からカシューナッツをつまんだ。続いて俺もつまむ。塩気がきいていて美味い。ぽりぽりとつまみながらセノオに続きを促した。
「人は死んだら星になる」
「童話か」
「違うよ。俺の街には神様がいるんだ」
「ほう」
あいにくと宗教には興味がない。神に祈る時間で金を稼ぐ方がましだ。金はうまく使えば人を救う。目の前にいるひもじい思いをしていた男とか。
セノオも俺の性格を分かっているようで、くどい勧誘はしてこなかった。
「夜空に大きな鳥がいて、空の向こうから僕らを見守っているんだ」
「鳥ねえ…」
「夜空に広がる大きな河が美しいよ。街の唯一の名物みたいなものかなあ。すごく……綺麗だ」
「綺麗しか言ってねえ」
「だって本当にすごいんだよ。視界いっぱいに流れる星の大河。亡くなった人が船に乗り、その川を渡る。その船の終着点には南十字が伸びているんだ。まあ詳しいことは置いておいて、とにかくツバキには見てほしいな」
その時のセノオは、授業中のぼうっとした顔でも青空を見たときの生気に満ちたものでもなかった。いやに大人びた顔で知らない顔をしていて、思わずしげしげと眺めてしまった。
【00:00 A.M. 夜空を仰ぐ丘にて】
「おい」
焼却炉を温める準備中、見知らぬ男が隣に並んだ。街の人間にしては大人しい黒のスーツを着ている。視線だけくれてやると男は勝手に話し出した。
「お前、セノオの知り合いだろ。こんなド田舎までわざわざご苦労なこった」
「まあな」
「俺はササキ。あいつのこと昔から知ってんだけどよぉ。この街出てもどんくさかったか? 何をやっても大した成果だせなくてうざかっただろ?」
ササキは見たところこの街に似合わない男だった。ブラックスーツに浅く帽子を被った姿は、参列者から浮いていた。男の話し方は気障っぽく、鼻につく。セノオと出会う前の俺はこんな感じだったんだろうか。いやまだましだったと思う。セノオをせせら笑うササキからは拭い切れない田舎臭さが感じられた。きっとこいつはこの街を嫌っているんだろう。
「聞いてんのか」
「聞いてるよ」
嘘だ。聞いてない。お喋り好きの話は聞きにくい。ましてや男の話なんか煙草のあてにもならない。しかし俺は支離滅裂な言葉から漏れる子供時代のセノオの話の拾った。
「あいつは昔からとろい奴だった。授業中に指されてももじもじしちゃって答えられねえの。知ってるか? あいつ子供の頃から働いていたんだ。この先の新聞屋で、学校行く前と帰ってからずうっと。だから友達もいない。金がなかったんだよあいつの家。母親が病気でな。ほら、あそこに花持って立ってるの。顔やつれてるだろ。そんなんで働かなきゃならないだ。親父か? それがな」
男はぷくくと楽しそうに笑った。
「密売してるんだよ。わかるだろアレの」
潜められた声は風のない丘にはよく響いた。悪意に満ちたそれはざらりと耳を撫で不快だ。空っぽだった頭が一瞬のうちにササキに対する暴言で埋まる。セノオが何をしたんだ。何かお前に不利益になるようなことをしたのか。他人のお前に何が言えようか。
しかし湧き上がる言葉たちに反して、何故か心は凪いでいた。
「かわいそうだな」
「はあ?」
幾つも上がった中で出た言葉はそれだった。人のことを否定的にしか見れないやつはかわいそうだ。セノオと出会ってからそう思う。金のことしか目になかった俺にあいつはそれを教えた。
「その帽子、去年流行ったやつだろ。スーツと合ってない。スカーフもなんだ? 色がちぐはぐでまとまりがないな。田舎から出てきましたって丸出し」
セノオは言っていた。人には必ず良いところがある。それを見つけられたら幸運だと思うと。まるで聖人のような言葉を当時は鼻で笑って流していたが、なるほど。逆に考えるとこいつのような、そして俺のような人の欠点しか探せないやつはかわいそうなのか。
ササキは燃え上がる怒りをそのままに俺に飛びかかった。目はありありと怒りの感情を映している。
「お前は高えだけのクソスーツじゃねえか! 友人とか言ってっけどよお、あいつのこと良いように使ってたんだろ!」
叫ぶ男をただ見下ろしていると声を聞いたのか数人の男がササキを引き剥がした。
「すました顔しやがってどうせあいつと寝たんだろ! たかが数ヶ月一緒にいたぐらいで知った気になってんじゃねぇ!」
「お前は」
隙間時間をずっと働いていることも。そのせいで眠い目こすって授業受けてることも。食費を削って一日二食だったことも。酒に弱いことも。
「何年もそばにいて、お前には何も見えなかったんだな」
長い前髪の下で目を細めて笑う顔も。きっとササキは知らない。
二本目に火をつけたときにはササキは他の男とともに丘を降りていった。下では林檎酒を片手に笑い騒いでいる。
ササキにあんなこと言ったけど俺はセノオを知っているのか。出会ってから数ヶ月誰よりも近くにいた自信はある。それでもあいつは自分のことをあまり話さなかった。自分の自己満足のためにセノオの周りに居続けた俺はあいつの何を知っているのだろう。
なぁセノオ。俺はお前のなんだったんだ。
ほとんど吸っていない煙草の灰が落ちとき、木船を焼却炉に入れると声がかけられた。
【14:15 P.M. 大河が流れる美しい街】
街は白いレンガ造りの建物が連なって出来ていた。ベランダに干されている洋服のカラフルな色が映える。駅には多くの観光客がいて人の多さとからっと光る太陽の眩しさに目が眩んだ。普段空調が効いた部屋で過ごす人間には雑誌の謳い文句であった爽やかさなど少しも感じなかった。
とりあえず人の波に流される薄緑色のシャツの襟口をつかみ、出口へと引っ張る。早く宿に向かわないと。人波に酔ってしまいそうだ。
大きな河が横断するこの街では、移動手段のほとんどが河を泳ぐゴンドラだ。河の流れと同じ穏やかさを持つ住人にとっては急く人間が嫌がられるのだろう。
呑気な街に似つかわしくない俺はと言うと、列車の長旅疲れも相まって眠くて眠くて仕方がなかった。
「楽しいな! ツバキあれ!」
「鳥だな」
「かもめかな。ゆっくりと風に流されて気持ちよさそうだ」
「風ねえけどな」
「適当に返事するなよ。僕が一人ではしゃいでるみたいじゃないか」
「実際そうだろ」
ゆらりゆらりと揺れる振動と、優しい水音から織りなす癒し効果は絶大だ。大欠伸を一つ吐いて青い空に点々と浮かぶ白い鳥たちをぼけっと眺める。都会の騒々しさとは違う賑やかな音はすぐには慣れない。行き交う旅行者を引き留める土産物屋の甲高い声。全てが日常からかけ離れたものだった。一瞬のうちに大金を生み出しては消えていく都会と違う空気にうんざりする俺と反対に、セノオは小動物のようにきょろきょろと辺りを見渡しては大きく口をあけて感嘆の声を漏らしている。
「ははは、そんなに楽しそうだと俺も漕ぎ甲斐があるってもんよ」
眩しい笑顔で船主が笑う。観光地のお似合いの陽気な男だった。呑気な連れはへらへらと阿呆のように笑っている。いつもは顔を隠して聞こえるかどうかのか細い声で話している男が、今日は弛んだ面ばかり晒している。浮かれた旅行客を見逃す商売人ではなかったようだ。
人見知りを発揮するセノオに船主は嬉々として話しかけていた。セノオはちらちらこちらを見ては助けを求めている。知るか。口パクで応えるとセノオは絶望したように顔色を変えた。表情が豊かなことで。こんなにも分かりやすく態度に表すのはやはり気の弛みだろう。
楽しんでいるんだろうな。水面に映る影を見て思う。ここに来てよかった。
試験が終わった慰労会だとか、セノオが仕事先で賃金が上がっただとか、俺のもうけが良かっただとか。まあ理由はそんなところで、とにかくいつもと違うことがしたいよなという話になり、そういえばセノオが気になる祭りがあるとか言い始め、それならばと俺の伝手をあたって格安で乗車券と宿泊先を得た。ここまでの間わずか二時間。セノオの実家から送られてきた林檎酒を二瓶開けた。
翌日セノオは痛む頭を抱えながら後悔の念の唱えていたが、今はそんな事をすっかり忘れているらしい。
「ここには祭りがお目当てかい?」
「えと、はい。夜空に浮かぶ小さな気球たちが綺麗で……」
結局この男は旅行先の街にも夜空を見に来たのだ。旅行雑誌に載っていた天高く昇っていく紙でできたランタンをずっと眺めていたことは知っている。セノオ越しに青空を眺める。悲しいほどに昼の空が似合わないやつだ。
「また御贔屓に」
宿前に着くとにこやかな笑みを残して船主はまた河を流れていった。
宿に着いて荷物を降ろしてからはのんびりとしたもので、目を擦る俺の背を押し街中を歩き回ったり酒を飲んだりして過ごした。
「で、この街はどうよ」
「楽しいよ」
「それだけ?」
「にぎやかだね」
「それから?」
「ツバキはどう思ったの?」
「がやがやうるせえ街」
「言うと思った」
この街は煩いが酒と魚は美味い。それだけで俺の気分は向上し、土産物屋を冷やかしていると辺りはいつしか夜に飲み込まれていた。
ゴンドラに乗って真っ黒に染まった河を流れる。今度の船首は物静かで河のせせらぎの中セノオの声がよく耳に届いた。
「ほら見て、ツバキ。ここの空も綺麗だ」
祭りに向けて近くの家の明かりは消えており、河に星が映り込むほど暗い夜だった。次第に観光客を乗せたゴンドラが現れ、そわそわと祭りの気配が漂い始める。
「あんまりはしゃぐなよ。落ちるぞ」
「揶揄うなよ。俺だって大人だ」
途端に大きく揺れた船に大声を上げて驚く男が果たしてりっぱな大人なのだろうか。船首に注意を受けるセノオから目を離すと、一つの灯火が空にのぼった。
「あ」
気づいたセノオが声を上げる頃には数十のランタンが上がっていった。
「綺麗だね」
「馬鹿みたいな数だな」
「その言い方やめろよ」
数えるのが馬鹿馬鹿しくなるほどのランタンは、電灯よりも明るく夜空を照らしている。数百を超える灯り空に上がった頃あちこちのゴンドラから歓声が響く。ふわりと舞い上がるランタンの温かな光。それらはふわりふわりと風がない空を泳いでいるようだった。
確かにこれは写真では伝わらない迫力だ。俺たちは見る方を選んだが、観光客でも火を灯すことができるらしい。
肌で感じる祭りの気分に俺も高揚し食い入るように空を見上げた。黒い空に温かな柑子色が点々埋め尽くしていく。次第に空に消え、ランタンから星々に視線が写っていく。都会と違う星の数に圧倒さめ目が奪われる。
だから、すぐには反応できなかったんだ。手を伸ばした時にはセノオの影はなく、ぼちゃんと水音がするだけだった。
【00:35 A.M. 夜空を仰ぐ丘にて】
木船は遺族によって焼却炉へ押し込まれた。炎の口ががばりと飲み込んだあれは棺桶ではない。ただの、装飾された木の船だ。
結局、河に落ちたセノオは見つからなかった。近くにあったゴンドラに乗っていた子供が落ちそうなったところを庇った結果、代わりに自分が落ちたらしい。河は深く、底が見えるほど透き通ってもいない。一晩男たち総出で探した後、遺体が見つからないまま俺は二人分の荷物と共に持ち主のいない部屋へと戻った。
それから何をしたのか正直記憶がない。気がついたら黒のスーツを着てセノオの故郷に立っていた。
「大変だったでしょう。あの子の友達でいてくれてありがとう」
セノオの実家に電話をかけた時を思い出した。がらんと広い部屋で一人突っ立ているとチャイムが鳴った。
「セノオの母です」
やつれた顔で目線を落とした女の影からセノオの面影をどことなく感じた。片付けは母親主導に進んでいった。その間に会話はない。お互いが背を向け淡々と作業を進めていた。少ない雑貨のほとんどが俺の持ち込んだものだった。読み終えた雑誌。飲みながらやったボードゲーム。俺しか使わない煙草の灰皿。
次々と出てくる俺の荷物にいちいち感傷に浸ることなく、ただひたすらに機械的にゴミを選別し続けた。結果として、俺のものを抜かせば残ったものは大きな鞄一つに収まった。
「葬式は生まれ育った街で行います。是非いらしてください」
現れたつむじを見下ろす。中心部から白い髪が生えていた。鞄を肩に乗せたみすぼらしい背中を見送った。スーツなんて大学入学の時に着たやつしかないな。どこでスーツを買おうかとぼんやり考えながら煙草を片手にベランダに出る。
小さな鉢に入ったバジルが風に揺れていた。こいつも家主に置いてかれたかわいそうなやつだ。バジルの育て方を調べると記憶して空を見上げた。頭の隅で頭を下げるセノオの母を思い浮かべる。思ったより似てない親子だった。だけど、しかし、どこかで気にかかる。前髪で隠れた細い目。痩せぎすの身体。
「あ、初めて会った時のセノオに似てるんだ」
話しかけた時の鞄の紐を握りしめ目を見開いたセノオを思い出す。ふわりと紫煙が揺れてのぼっていった。
真っ黒な煙が夜空に吸い込まれていく。木船が燃えきるまで約3時間。参列者は各々談笑している。小さな町だというのに古い友人と再会したかのように会話は盛り上がっていて、時折品のない笑い声がここまで届いた。これだから田舎は嫌いだ。狭い社会で深く付き合うくせに気に入らないものがあると徹底的に排除しようとする。会話の中心人物をよく見るとササキに似ていた。密売云々もどうせこの男がふいた話なのだろう。ちらりとこちらを見ては大声で笑う男どもと、空いたグラスに林檎酒を注ぎながらつられて笑う女ども。どちらも胸糞悪い。ただでさえ昔から人付き合いが苦手だったのに、こんなせせこましく人に囲まれるなんて地獄だ。
「クソみてえな地獄に呼ぶなよ」
「ここは地獄ですか」
呟いた声に返答があると思わず後ずさる。ふふ、と笑ったのはセノオの母親だった。手に持った林檎酒を俺に渡すと、隣に立った。
二人の間に夏の柔い風が通る。セノオと並んだ時の無言が嫌にならないのはこの母親から受け継いだものなのかもしれない。しばらく焼却炉を眺めているとぽつりと言葉が落ちた。
「あの子はどんな子でしたか」
「……数か月しか一緒に居ない者よりもご存じなのでは?」
「そうね、普通の母親だったらそうなのかもしれないわ。でも私は床に臥せってばかりであの子をかまってあげることが出来なかった。それに同い年の子からも良く思われていなかったようで。恥ずかしい話、最近までそのことに気が付かなかったんです。母親失格だわ」
「俺が知っているのはこの街を出てからのセノオだけです。あなたがどんな母親だったかもセノオの話でしか俺には分からない」
息を一つ吐いた。焼却炉から中にある木船を燃やしている唸り声が聞こえる。
「セノオはいつも貧相な格好をして人目から隠れるように行動する暗いやつだった。教室でも隅に、けれど教師の声が聞こえる前の席を好んだ。あがり症なのか話しかけるとどもり、どもったことに慌ててさらに声が出なくなりとよく会話に失敗していた。それでも話しかけ続けると慣れたらしく、前髪に隠れた目を細めて笑う。夜空が好きでよくこの街に伝わる伝承を話してたな。俺が煙草に火をつけるたびに、だめだよって止めてきた。あいつが夜空に浮かぶ紙ランタンを見たいと言ったからと旅行に行って、それから」
それから、セノオは川に落ちた。隣にあったゴンドラから落ちそうになった子供の代わりに。ぼちゃん。セノオを飲み込んでいった河音が頭にこびりついて離れない。
俺を連れて行きたいと言っていたセノオを遠くの河に残し、俺は一人セノオの故郷へ来た。来てしまった。
こみ上げる名前のつかない感情を拳で握りしめて堪えた。こんな激しい感情を抱くのは初めてだった。思えばセノオと会ってから俺はいつもあいつに振り回されっぱなしだった。この期に及んでセノオは死んだ後も俺を振り回すつものなのか。
「セノオのこと好きでいてくれてありがとう」
「は、」
「前に帰ってきた時もあなたの名前ばっかり出してたの。ツバキが、ツバキがって。楽しそうに話すのなんて初めて見たからびっくりしちゃった。持たせた林檎酒もすぐ飲んじゃったから追加で送ってほしいって。あの子お酒得意じゃないのに一緒に付き合ってくれる子がいるんだなって嬉しかったわ。ありがとう。あの子と一緒に居てくれて」
「好きなんてそんな」
「わかるわ。半日かけてこんな辺鄙な街まで来てくれたことも。街の風習は珍しいはずなのにきちんと尊重してくれてることも。セノオの部屋を整理している時の丁寧さも。見ていれば、わかるのよ」
彼女の笑い方はセノオそっくりで、優しくて、温かかった。
そうか。俺はセノオのことが好きだったのか。すとんと何かが落ちると共に、堪えていたものが堰を切ったように溢れだした。胸が握りしめられたように苦しい。頭も痛い。目の前がちかちかする。
目をつぶればゴンドラに乗ったセノオが微笑んでいる。ツバキとあいつが呼ぶから、俺の名前も悪くないと思えた。片時も煙草を手放せなかったのにあいつのせいで夜だけは吸わなないように気を遣った。あいつの代わりに俺が落ちればと何度も思った。
だけど、俺が死んだらきっとあいつはこの世の終わりのように泣くだろう。泣かないでほしいと思った。例え俺のことでだって泣かないでほしい。優しいあいつには優しい世界でぼけっと阿呆面晒して生きてほしい。俺の好きだった笑顔を絶やさないでほしかった。
「花で埋まった木船は煙を頼りに空にのぼる。そして夜空にのぼったらそのまま天の河に揺られて天国へ行く。この街ではそう信じられているの。だから葬儀も夜に行うのよ」
腰を曲げて声を漏らして泣く俺の背を優しい手が撫でる。この手がセノオを育てたのか。あの馬鹿みたいな優しさはこの人譲りなんだな。
今はこの世のすべてがセノオに通じている気がする。そんな馬鹿みたいなことを考えるなんてあいつと出会ったせいだ。こんな苦しい思いをするのも、セノオを過ごした日々を温かい思い出と感じるのも。全てセノオのせいだ。金を一銭も残さないくせにこんなぐちゃぐちゃな感情だけ残して行きやがって。最悪な野郎だ。
やけくそになって空を見上げる。涙はこめかみを通ってあごへ伝った。見上げた空は息をのむほど綺麗だった。夜空を横断するように星の河が流れており、そこへ導かれているように黒煙が立ち上っている。
木の焼ける臭いが鼻をつく。セノオはあの木の船に乗っているのだろうか。それともまだ河の中に取り残されているのだろうか。いや、取り残されているのはお前だけじゃない。俺だって。俺だって一人だ。
ぼやけた目元を襟でこする。強くこすりすぎたせいかひりひりと痛い。曲げていた腰を伸ばしがてら煙草を取り出し火をつける。
もうどっちだっていい。空にいようが水の底にいようが、真実は変わらない。数か月共に過ごした俺らが別れた、それだけだ。勝手に死んでいった男を偲ぶ俺がすることは一つ。夜空を愛するセノオに抗って夜に煙草を吸うことだ。そして一日でも早くあいつと同じところに行くように肺に煙をためるだけ。
途切れることのない涙を無視して吐いた紫煙は真っ黒な煙と共に空へのぼっていった。
終わり