「サヨリのハート」
サヨリは3025年に生まれた。正確に言うとその年に彼女の目は開いた。サヨリはアンドロイドだ。人間ではない。天才科学者サム・カーンが作り上げた最初で最後の一体だ。彼はそのアンドロイドをサムの妻であったさよりをモデルにした。「妻であった」と言うのは彼女はもうこの世にいないからだ。サムはさよりをとても愛していた。それはもちろん彼女の美しさもあるが、彼を取り巻く周りから変人扱いされていた彼を理解し、そのままの彼を受け入れてくれていたからだ。サムは彼女にだけは心から話をし、また安心できたのであった。しかしさよりは不治の病にかかりサムを残して旅立ってしまった。サムは非常に悲しみ、そのショックはとうてい他人が知ることはできなかった。愛していた者を失うということは自分でもどうしたらよいか分からなくなるものである。ましてや彼は彼女がいたことによってまともな自分を保つことができていた。彼女と出会う前までは「きちがいサム」としてその行動、言動、感情の出し方どれをとっても理解しがたいものだった。さよりがいなくなってまた彼は元に戻った。しかしそれは、天才と異名をとる彼の本質に戻ることでもあった。彼は妻を取り戻すために自分のその全てを出してアンドロイドを作り始めたのである。彼自身ではそれは決して不可能ではないことに決まっていた。なぜなら彼は天才なのだから。
サムはそのアンドロイドに「さより」の全てを注ぎ込むつもりだった。つまり完璧な彼女を再現しようとしていた。彼女の体、彼女の歩き方、物を持つしぐさ、そして、サムに話しかけるときの話し方、息遣い、視線の泳ぎ方。しかし天才である彼は悩んだ。さよりの心はどうしようもない。心だけは再現できない。彼は何度もアンドロイドに埋め込む彼自身が設計した「こころ」の回路がかつて彼女が愛したように、サムを愛する感情を発生させる可能性があるかを計算した。だが、その可能性は予測されている全宇宙に存在する星の数のその何兆倍分の1以下であり、とうていサムを理解して彼が安心できる「さより」にはならないことを示していた。天才サムでも最初から出来上がった「こころ」は作ることはできなかった。そのアンドロイドの胸の中をもし開けてみることができたなら、きっと青いプラズマが見えるだろう。それはサムだけが考え出せた「こころ」の仕掛けだった。「こころ」は頭の中ではなく、ハートの位置に置かれていた。悩んだ彼は一つの方法を考え出した。それはかつて本物のさよりと出会ってお互いに恋に落ちたようにその「さより」の姿をしたサヨリといつも一緒に過ごし、その「こころ」を自分に向けることだった。それはあまりにも単純な考えであったがそれでも成功する可能性は先の可能性よりも二ケタ目の値が二つあがるほど高かった。
サヨリが目を開けた時、そのそばにはサムが立っていた。「彼女」は少しの間だけサムを見ていた。サムはその時、久しく感じていなかった感情が自分の体の中を突き抜けていくことを感じた。サヨリは自分も分からないと言うより、ただサムを見ている間小さな声であーと言って自己主張するだけしかできなかった。最初から記憶が埋め込まれていてすぐに自己みずから行動することはできないのだ。結局はアンドロイドも人間の赤ん坊と同じラインからスタートするしかない。つまり、大人の体ではあるが「こころ」は成長させる必要があった。
「サヨリ」
彼は目を開けたばかりのアンドロイドに話しかけた。
「あー」
さよりの姿を持ったアンドロイドはただ言った。
「サヨリ。今日がきみの誕生日だ」
分かるはずもないことはサムは充分承知していた。ただ、ほんの少しの期待は持っていた。アンドロイドはサムのことをじっと見つめていたが、その手を伸ばしてサムの胸のあたりをとんとんと軽く叩く仕草をした。
「きみは生まれたばかりなんだ。立てるかい?」
伸ばされた腕をつかんでサムはアンドロイドをその横になっているベッドのから起き上がらせようとした。すると「彼女」は足先を斜めにベッドから下ろしゆっくりと立ち上がった。サムは笑顔になりながら心に響く言葉をそのまま出した。
「きみは素晴らしい」
アンドロイドはサムのほうを見ながら彼と同じく微笑んだ。サムは続けてアンドロイドのほうに向いて言った。
「きみの名前は、サヨリ。サ・ヨ・リだよ」
アンドロイドは分かったのか分からないのかどちらとも言えない表情をして
「サヨリ?」
と小さくサムに向かって言うと、サムの笑顔はますます体中に広がって行った。サムはさよりの姿を持ったアンドロイドを街へと連れ出した。アンドロイドはサムの腕にしっかりと自分の腕を巻きつけ、あたりを頻繁に見渡しながらその足取りをサムよりも速めて歩いていた。
「サヨリ。そんなに急ぐと転んでしまうよ。それにぼくはきみみたいに早く歩くことはできないよ」
「うん?」
サヨリはそんなことを言われても分かるはずもなく、サムの顔をみてまた笑った。
「ここはよくきみと一緒に歩いた道なんだよ。ほらそこの店の前でいつもきみは立ち止まっていたんだ」
その店は建物自体がサムが生まれる前からある石造りの蔵のような構えの古本屋で、ガラス窓を通して見える薄暗い店の奥にはたくさんの絵本がその存在をアピールする扉絵のイラストを躍らせながら並べられていた。彼女はさよりと同じくガラス窓の奥をじっと眺めてますます嬉しそうな表情をサムへと向けて彼を喜ばせた。
幾日が過ぎていった。サヨリはいつもサムと一緒にいて、少しずつ言葉を覚え、自分の気持を喋るようになっていった。アンドロイドの学習能力は人間とは比べようもないほど高く、難しい考えもサムに伝えられるようになっていた。あるときサヨリはホログラムで映し出された男女が抱き合って踊る場面を見ていて、自分も同じようにまるで相手がいてその相手と優しく抱き合って踊る振りをしてみた。くるくる回り、それが面白くて思わず笑いながら部屋の中を行ったり来たりしていた。ところがそれは部屋の棚に伸ばした腕があたって、棚からどすんと大きなアルバムが落ちてきたことによって中断することになった。サヨリが何気なくそのアルバムの扉をめくると、そこにはサヨリの思いもしない顔が彼女に向かって微笑んでいた。その顔はまぎれもなく、サヨリだった。そしてサヨリの顔を持つその女性の横でサムが同じく笑顔で立っていた。
「今日も一緒にライブラリへいくよ」
暫くしてサムがやって来てサヨリに向かってそう言った。それを聞いたサヨリはサムがかつて見たことのない表情を作ってサムから視線をそらした。
「今日は行きたくない」
その一言を言うためのように。サムはそれを聞いてどきりとした。それから、
「なぜだい?」
と聞くのが精一杯だった。
「わたし、なんでもない」
「サヨリ。まちなさい」
サムは駆け足で玄関の扉を開けて出てゆくその彼女の後姿を目で追うしかなかった。次の日もその次の日もサヨリはサムと一緒に出掛けるのをためらった。サムはその日からサヨリとは一緒に過ごすことが少なくなった。可能性としてかけた方法でもアンドロイドの「こころ」を自分の望むとおりにすることはできないと悟ったからだ。しかし、サヨリのことは自分が作り上げたアンドロイドとして愛していた。だから彼女の望むようにさせるのが一番だとも思っていた。サヨリは分かり始めていた。自分が人間ではないこと。どうやって存在しているのか。そして、何故自分が存在しているのか。アンドロイドが自分をアンドロイドだと自覚するのは難しい。人間と同じに自分が自分として存在しているのにそちらは人間、こちらはアンドロイドと意識できるはずはないのだ。アンドロイドは人間が作ったものであるがために、人間からは自分と違うものと意識することができているが、アンドロイドは作られた側であるために理解ができない。サヨリの精神年齢は人間で言えば11歳程度だった。体は最初から大人でも、人間で言えばまだまだ子供だった。ましてやサムとはずっと一緒に暮らしているため、人間で感じる父親への感覚だった。しかし、サムが期待しているのは・・・そんなことを思うとサヨリはどうしたら良いのか困惑するばかりだった。
空に昇る太陽の光がだんだんと高くなってきたある日の夜、サヨリは夢を見た。アンドロイドも夜になると体の機能としての有機体の部分を休める必要があった。その夢の中で彼女は一人で座っていた。そこは見渡す限り一面が黄色や赤色や紫色の花が咲き誇る原っぱで不思議とどこかで見た景色だった。何かを探すわけでもなくただ遥か彼方の方角を黙って見ていた。やがてその向こうから誰かがサヨリに向かって歩いてくる人影が見え始めた。人影ははだんだんと彼女に近づいてきてやがてそれが誰だかわかるぐらいになった。それは「さより」だった。
「これは今サムが見ている夢なの」
さよりは静かに言った。サヨリはそれを聞いても驚かなかった。それどころか、本当の自分に出会って安心さえ感じるようだった。
「サムのわがままに付き合わせてしまってごめんなさい」
彼女が何故そんなことを言うのかサヨリには分からなかった。サヨリはサムがさよりをとても大切にしていたからこそ、自分はここにいるのだと思っていたからだ。だからサヨリは首を横に少しだけ動かした。
「でも、あなたにお願いしたいことがあるの。一度だけでいいの」
さよりの言っていることが今度は彼女には分かった。始めからわかっていたのかもしれないともサヨリは思った。
「あなたのハートを貸してもらいたいの」
さよりは少しだけ微笑んで
「たった一度だけ」
と付け加えた。サヨリは今度は首を縦に動かすと目を閉じた。後のことは覚えていない。
サヨリの名前を持つアンドロイドが目を開けると朝になっていて、ベッドの横の窓から明るい陽射しが差し込み、いつもと変わらない朝がやってきていた。静かにベッドから降りてドアのノブに手をかけ、一階に続く階段へとつま先を向けるとやはり静かに彼女は一階へと降りて行った。
「おはよう。サヨリ」
サムが降りて来たサヨリに向かって挨拶をした。最近の彼女は小さく返事をしてすぐに彼を避けるようにすり抜けて行ってしまうので、サムはそれ以上彼女に興味がある素振りをしないようにしていた。だけど、この日は違っていた。彼女がサムの方へと歩み来て、彼をそっと抱きよせた。
「サヨリ。まさか」
サムはその感触に驚いていた。それはまさに「さより」が生きていたときに毎朝彼女がサムにしていたことだった。
「サヨリ。。。いや、さよりなのか?」
彼女はサムの胸の顔をうずめたまま頷いた。それから彼を見上げた。
「サム。愛しているわ。私がいなくなって彼女を作ったのね」
「ああ、さより。ずっと、ずっと待っていたんだ」
涙が湧いてきて、そのまま流しながらサムは彼女を両腕でしっかりと抱いた。
「わたし、ずっと歩いていたのよ。そうしたら青い光が見えたの。だからその光を追って進んできたら今度は彼女が見えたの。すぐに分かったわ。彼女はあなたが作った私だということを」
「きみがこの手の中にいるなんて信じられない。きみはもういなくならないでくれ。お願いだ」
「サム。それはできないのよ。あなたもわかっているはずよ。でもこのままでいたい気持ちは同じよ。できることならそうしたい。あなたを残していってしまってごめんなさい。サム」
彼女はサムの背中に回していた腕に少しだけ力をいれた。サムもそれに答えるかのように彼女に回している腕に力を入れた。
「でも、どうして」
そこまで言って、サムは聞くのをやめた。『サヨリのハートがきみを導いたんだね』と言いかけたが実際として今ここにさよりがいて、それだけで十分で、彼が望んでいたことが叶ったことに理由はいらなかった。
「彼女はどこにいるんだい?」
「ここにいるわ。私と一緒に」
「彼女は寝ているのかい?それともこの会話を聞いているのかい?」
「まるで私より彼女のことが気になるのね」
さよりのその笑顔がサムにとっては何にも代えがたいものであったことが懐かしかった。
「聞いていると言えばそうね。彼女は私で私は彼女なの。でも人格がもう一つあることではないわ。もちろん、私は彼女が意識した「わたし」でもないの」
「きみはだれであっても僕が愛してるさよりだよ」
「嬉しいわ。ありがとう。サム」
「サム。お願いがあるの。聞いてもらえる?」
サムにはその願いがなんであるか予想がつくことであった。だけどもそれがさよりからの最後の願いであることも分かっていたので静かに頷いた。
「彼女を自由にしてあげてね」
そう言うとさよりは目を閉じてサムの口づけをした。それから
「サム。さようなら。私の分も幸せに生きてね」
と言ってサムに回していた腕の力が抜けて、崩れ落ちるところをサムが抱き続けた。彼は何も言わず、ただまた彼女を失った悲しみの涙を流すことしかできなかった。
それからサヨリは目を覚まさなかった。サムはいつ彼女が目をさましてもいいように毎日サヨリのそばで過ごした。相変わらず眠ったままのサヨリを見守りながらやがて幾日幾年が過ぎて行き、サムは死ぬ直前に自分自身のアンドロイドを作った。しかしそのアンドロイドには仕掛けがあった。すぐには目を覚まさないようにしたのだ。サムはその自分のアンドロイドをサヨリの隣に寝かせ、自分の死後サヨリが目を覚ましたら同じく目を覚ますようにした。結局サムはサヨリを自由にするために、自分のハートも解放することにしたのだ。二人が目を覚ます保証はない。でももし二人が目を覚ましお互いを知り、その時からの二人の気持ちにかつて存在した大切なものが芽生えたとしたら、それはそのハートの中で自由な判断に任さられたということになるのではないだろうか。サムがそこまで思っていたのかどうかは、誰も知らない。