逃げたハヅキ
つまり、ハヅキがここにいないのだ。
だが、ハヅキの笑い声が聞こえた。
それは近くではない。
爆発によってぶち破られたドアから遥か遠くで、その笑い声は船内を木霊しながら、微かにここに届いているに過ぎない。
それでも、ハヅキがどこに向かっているのかはわかる。
木霊の痕跡は、明らかにノアの機体後方から伸びてくるものであり――
「ケヴィン……」
切迫した表情と口調で、リザがそう囁いた。
そうだ。
ハヅキが向かっている場所。
それはケヴィンがいる場所だ。
正確には、リザの愛おしき恋人の《人間株》が保管されているDNAストレージ・サーバ・ルーム。
そこにハヅキは向かっている。
目的は明らかだ。
人類滅亡を完遂するために、人類の、いや、アメリカ人の希望を断ち切るためだ。
立ち上がったリザは、肩で大きく息をしながらも、ケヴィンのいるDNAストレージ・サーバ・ルームに向かった。
俺も自分の肉体を叱咤しながら何とか立ち上がり、リザを追った。
が、思うように前に進めない。
船内中に充満したガスは、次々と爆発を引き起こしている。
その度に足元は大きくグラつき、倒れそうになってしまう。
しかもその足元には、死体がたくさん転がっている。
爆発に巻き込まれてしまったのか?
それともハヅキが殺してしまったのか?
恐らく、両方だ。
爆発による炎上で焼き爛れてしまった死体もあれば、焼跡が無いのに、体に大きな穴が開いてしまっている死体もある。
ハヅキとまた会えば、俺とリザも同じ目に遭うのかもしれない。
怖いか?
そうだな。
俺は怖い。
でも、あいつを放っておけば、ノアの方舟は地上のゴミとなる。
それも壮大な粗大ゴミだ。
そのゴミの中に、俺とリザの死体も含まれるだろう。
そうなる前に、あいつを止めなければならない。
どうやって止めるかなんて、まだ思いついちゃいないが……
そして、ようやく俺とリザはDNAストレージ・サーバ・ルームにたどり着いた。
しかし目の前の光景に、俺たちは絶句するしかない。
DNAストレージ・サーバ・ルームは、既に炎の海だ。
中には入れない。
エンジンから発火した炎が、充満したガスに引火したことで、狂ったように燃え盛っている。
まるで暴走したオーブンレンジだ。
そんな中に人が入ったら、丸焼きじゃ済まない。
きっと灰になる。
でもだ。
そんな炎の中に、リザが入って行こうとした。
俺は思わず、
「止めろ!」
と叫んでリザを後ろから抱きかかえる。
しかし、女とは言え、筋力はリザの方が上だ。
リザはエルボーを俺の腹に一発かまし、俺はそれで呆気なくダウンしてしまう。
その隙に俺の腕を振り解き、リザはDNAストレージ・サーバ・ルームに駆け入る。
ところが、そんなリザの足も、すぐに止まってしまう。
あまりにもの高温で、肉体が耐え切れなくなってしまったのか?
いや、そうじゃない。
そうじゃ、なかった。
リザの行く手を、ハヅキが遮っているからだ。
リザが行こうとするその先に、ハヅキが立っている。
しかもハヅキの手には、一人分の《人間株》の容器が握られている。
ハヅキはその容器を、リザの前に突きつけてみせる。
炎が空気を熱し、立ちくらみが起きた時のように光を歪ませているが、その容器には、確かにこう書かれているのが、俺にも見えた。
――Kevin W Truman
「それを返せ!」
リザは炎の中で、ハヅキに向かって叫ぶ。
これまでの言動から、ハヅキが素直にリザの言うことを聞くようには思えない。
しかしだ。
予想に反して、ハヅキは素直にリザに従った。
ハヅキが、リザに向かってケヴィンの《人間株》の入った容器を投げ渡したのだ。
当然、リザはそれを受け取ろうとする。
持っていた超振動ブレードを床に落とし、両手を広げ、それを受け取ろうとする。
天から舞い降りてきた天使を、これから抱きしめようとするように。
そして、その願いは叶った。
ケヴィンの《人間株》の入った容器は、リザの胸の中で、しっかりと抱きしめられたのだ。
でも、幸せは一瞬にして幕を下ろした。
リザの体に異変が起こった。
異変は、見るからに明らかだ。
だってリザの体に、大きな穴が開いたからだ。




