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八月の夢見村  作者: 狼々
25/31

待望する劇場

 暫くの話をした後、昼食の時間はあっという間に訪れる。

 話は自然と弾み、彼女からも笑顔が溢れ出ていた。

 昨夜に訴えた心痛の陰りは片鱗すらもなく、一人の女性として心から笑っていた。

 垢抜けている爽やかな彼女の笑顔は、今まで見たどの笑顔よりも素敵だと思う。


 昨日と同じくして、彼女が昼食を食べ終えるまで待つ。

 それを待っている間だって、どうにも飽きない。

 ゆっくりと流れゆく時間が、どうにも愛おしく感じた。


 彼女はどうやら、いつもの格好で外出するらしい。

 着替えが終わった彼女の姿は、まだ目新しい桜色の寝間着から、もう幾分見慣れた白のワンピースに。

 可愛らしい服もいいが、清楚な白の服がやはり一番似合う。

 どちらにせよ、俺にとっては目の保養・眼福であることは変わらない。


 外に出た時間は、昼食が少し遅かったことも重なって、もう午後三時を回っていた。

 日差しは強さは最高潮。吹き付ける風さえもその温度を吸い取った。

 肌を優しく撫でる風の、自らの体温になっている。

 不思議と、蝉の鳴き声の煩さがあまり気にならなくなった。

 気に留まらないのではなく、そもそもの蝉の数が減っている故に、蝉の鳴き声が聞こえないことに遅れて気付く。

 それが、他ならない夏の終わりを告げている気がして、乾いた地を踏みしめる足が重く感じた。


 思いの外、過ぎるのが異常に速く、名残惜しい夏だった。

 記憶を辿るとかなりの風景が蘇るはずなのに、どこかそれ以上のものを求めている。

 もっと多くこの記憶の、続きが欲しい。

 そう思わずにはいられない、と言わんばかりだ。


「えっと、これは一体どこに向かっているのですか?」

「いや、俺にもさっぱりわからん。見当すらつかない」

「それ本当に大丈夫なんですか!?」

「それさえもわからん。迷うかもしれんし、迷わんかもしれん」

「今までで貴方を一番心配することになりそうです……」


 彼女からしたら、それはそれは不安極まりないだろう。

 自分の手を引いている相手が、己の気の赴くままに歩を進めているのだから。

 夢見村の地理を知っているならまだしも、来て数日の俺ともなると、不安は募る一方だ。


 一応ではあるが、ささやかな候補は一つだけ上げたのだ。

 ただ、はっきりと道がわかるわけでもないが、方角くらいなら予想がつく。

 しかしながら、方角すら絶対に正しいと言えない上に、その先に何があるのかも理解できていない。

 遅くなったが、彼女にその旨を伝える。


「いや、本当は山に向かっているつもりなんだが、こっちであっているのかどうかわからない」


 俺が電車で降りたときに見えた、一つの大きな山。

 そこに行こうと思い、こうして炎天下の中で彷徨っているわけだ。

 いや、厳密にはまだ彷徨っていることはないのだろうが、そんな未来の背中が見えかけている。


「あ~……なるほど、どこの山かは予想ができました。それで、今はどこの辺りにいるのかわかりますか? 何か目印になりそうなものは?」

「ん~、そうだな。周りには民家と畑が沢山ある」

「わぁすごい、全くわかりません!」


 こんなにノリの良い冗談めいた彼女の言葉は、初めて聞いた。

 それを聞いて、ついふっと笑いが出てしまう。

 それに加えて、様子も声も途轍もなく可愛らしい。

 綺麗な見た目とのギャップが、さらにぐっときてしまう。


「……と言われても、他に目印になりそうにもないんだよな」

「それでは、家から出た後、最初に右に曲がりました? 左に曲がりました? それとも、真っ直ぐに進みました?」

「確か、左に曲がったはずだが」

「あっ、まるで反対ですね。山に向かうには右に曲がらないと」


 俺はどうも、無意識ながらに遠ざかっていたようだ。

 結構な時間を歩いて、判明してほしくない事実が発覚する。

 これ以上進んでも、時間も労力も無駄なので、直ぐ様来た道を逆戻り。


 ついさっき見たばかりの光景が、戻っていくにつれて次々と広がる。

 景色だけでなく、音も通ったときと何ら変わりない。

 その感覚が、俺の中に巻き上がる罪悪感を増幅させた。


「その、ごめんな。ちゃんと道は聞くべきだった」

「いいんですよ。私は貴方といられるなら、それだけでも嬉しいんですから」


 涙が出てきそうなくらいに嬉しい。

 俺は今日限りで、この村を去らなければならない。

 仕事も関係してくるので、どうしても延期ができないことだ。

 明日に訪れる彼女との別れは、避けられない。


 けれども、それは彼女からも同じことが言える。

 俺と彼女の別れは、当然だが俺と彼女の二人のものだ。

 決して俺だけのものではない。


「あっ、そうです! いいところを知っているんですよ。貴方に見てほしい景色があるんですよ。一度、家に帰りませんか?」

「わかった。けれど、もう一回外出するとなったら、夕食の後になるだろうから夜になるぞ?」

「えぇ、それでいいんですよ。むしろ、夜じゃないと意味がないんですから」


 今日の夜だけに上げられる、特別劇場の幕。

 その上映時間の開始を、密かながらに待ち焦がれることだろう。

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