第九話 ハロー、マイフレンド
眠っていたことに気付いたのは、目を覚ました後だった。机に、伏せて寝ていた。
時計は、深夜。
部屋の照明、点けっぱなしだった。
トイレ行こ。
机に立てかけた杖を掴んで、立ち上がる。背中から、タオルケットが床に落ちた。誰かがかけてくれていたみたいだ。お母さんかな?
部屋を出て、廊下をはさんでむかいのドアがトイレだ。
用を足して、トイレを出ると、ウミがいた。ピンク色のパジャマを着ている。
「なに? アンタも行くの? 電気は消しといてね」
ヒナミはそういってから、大きなあくびをする。眠気のせいで、不機嫌ないい方になってしまった。ごめんね、ウミ。
ウミは首を横に振った。
「じゃあ、どうしたのよ?」
ヒナミはそういいながら、ドアを開け、部屋に入った。
「へ?」
間抜けな声が出た。一発で、目が覚めた。
そこは、ヒナミの部屋ではなかった。見知らぬ部屋だ。
振り返ると、ヒナミの家のものではない廊下が見えた。
キー、と甲高い音できしみながら、ドアは閉まった。
杖を腕にぶら下げて、ドアノブを回しながらドアに体重をかける。しかし、まるで開く気配はない。閉じ込められた。
さらに二、三度試すが、やはり、ドアは開きそうにない。
どうしよう。
ヒナミは部屋の中に視線をむけた。かび臭く、ほこりっぽい。窓という窓は全て段ボールとガムテープでふさがれていて、天井の電燈だけが部屋を照らす。
部屋の真ん中に、うずくまっている女の子がいた。よく見ると、それは、イチカちゃんだった。
「イチカちゃん!」
ヒナミは杖を外すと、床をはって行き、イチカちゃんの肩をゆすった。
「イチカちゃん! どうしたの?」
イチカちゃんはゆっくりと、顔をヒナミにむけた。傷と、痣だらけになっていて、やつれている。ヒナミの家にいた頃はくくっていた髪も、いまはボサボサだ。まるで別人のようだった。でも、間違いなくイチカちゃんだ。
「大丈夫?」
ヒナミは、優しく、声をかけた。
「……おなか痛い」
イチカちゃんはか弱い、小さな声でいった。
「どうしたの?」
「蹴られた」
イチカちゃんはゆっくりと上体をおこす。胸の中に、なにか紺色の布を抱えていた。
「蹴られたって、誰に? ここどこなの?」
ヒナミは思わず早口になった。
「ここは、呉のおじさんの家だよ。なんで、ここにいるの? それに、そんなかっこで」
一方で、イチカちゃんは気だるげにいった。
ヒナミは、自分の服装を見た。トイレに行ったときと同じ、パジャマ姿だ。
「わかんない。気が付いたら、ここにいた」
イチカちゃんは微笑んだ。一瞬だけだったけど、ヒナミは確かに見た。
「ねえ、イチカちゃん。なんで蹴られたの? その顔の痣や怪我も、あの男の人のせいなの?」
ヒナミが問いかけると、イチカちゃんは目をそらした。
「昼間、電話してきてくれたのね、とっても嬉しかったんだ。ありがとう。もう電話してこないでなんていってごめんね。ホントはね、毎日だってお話ししたいんだ」
イチカちゃんは、腕の中の紺色の布を強く抱きしめた。
「あの男の人に、電話しないようにいえっていわれたの?」
イチカちゃんは、小さくうなずいた。
「あの男の人に、怪我させられたの?」
ヒナミはイチカちゃんの目をまっすぐに見た。視線をそらさないようにした。
「……うん」
イチカちゃんは小さくうなずいてから、話しはじめる。
「パパとママはね、たくさんお金を貯めてたの。イチカの為にってね。おじさんはね、それが欲しかったんだって。もう、全部、取られちゃった。ねえ、ヒナミちゃん。おなかすいたよぉ」
「ご飯も、食べてないの?」
イチカちゃんはうなずいた。
「電話した罰だって、ごはん抜きで……もともと、そんなにたくさんは食べさせてもらえなかったの。ヒナミちゃんのママのごはん、食べたいな」
イチカちゃんの抱いていた布が、床に落ちた。それは、水着だった。ヒナミとミホがプレゼントした、あの水着だ。
ただし、それは鋭い刃物のようなもので、ズタズタに切り裂かれていた。
「ごめんね。せっかく、ヒナミちゃんとミホちゃんが買ってくれたのに、なのに、守れなかった」
イチカちゃんは、今にも泣きだしそうだった。
ヒナミは、水着の切れ端を一つ、拾い上げ、ポケットに入れた。
ヒナミは、大きく息を吸った。
一度口にした言葉は、取り消すことはできない。だから、出来もしないことを出来るだなんて、いってはいけない。でも。
「ここから逃げよう、イチカちゃん。私の家においでよ」
ヒナミはいった。
「逃げる?」
「うん。そう」
「どうやって? ドアはね、鍵がかかってるんだよ。外から、南京錠が。窓だって、わたしたちの力じゃ開けられそうにないし……」
ヒナミは、ドアのところまではって行くと、ドアノブを回す。
入ってきたのだから、出られるはずだ。
胸が熱い。首から下げている勾玉が、熱を発しているようだ。
大丈夫。上手くいく。不思議と、そう思えた。
「あけっ!」
『グルオォー』
ドアに体重をかける。同時に、動物の咆哮のような声が聞こえた。
ガチャリ。
あっさりと開いた。ほれみろ。
ヒナミは、イチカちゃんを見た。
イチカちゃんの顔は、まさに唖然としている。
ドアのむこうに、廊下が続いている。そこに、銀色の髪と、青い瞳の女の子――ウミが立っていた。
部屋から出てすぐのところに、南京錠が落ちている。しかし、金色のそれは真っ二つに切断されていた。断面は、はじめは真っ赤だったが、すぐに黒くなった。微かに煙が出ている。
「行こう。イチカちゃん」
ヒナミはいった。でも、イチカちゃんは首を横に振った。
「ヒナミちゃんだけで行って。私は、ここに残る」
「なんで!」
ヒナミは思わず叫んで、すぐにしまった、と思った。慌てて、廊下の方を見て、息を殺す。
大丈夫だ。誰も来る気配はない。
「逃げたら、逃げて掴まったら、もっと、殴られる。蹴られちゃう」
それからイチカちゃんは、おなかに手を添えた。
「おじさんはね、優しいときもあるの。根は悪い人じゃないの。だから、イチカは大丈夫。いつか、仲よくなれるから。痛いのだって……慣れてきたから。」
ヒナミは、自分の太ももに手をあてた。ちょうど、傷あとのある辺りだ。
「嘘だ」
ヒナミはいった。
「そんなの、嘘だ。痛いのに……慣れることなんてない。何年たっても、きっと、なん十年たっても、痛いものは痛いよ。私は、私は痛いのはやだよ」
ヒナミは、イチカちゃんを見た。
「ここで、イチカちゃんを置いてったら、私、痛いよ」
ヒナミは、イチカちゃんの目を見た。
「行こうよ、イチカちゃん」
「イチカも……痛いのは、やだよ」
イチカちゃんの目から、一滴、涙が落ちた。
「大丈夫。あの男が追いかけて来たって、私がイチカちゃんを守る。私で駄目なら、お母さんが、お父さんがイチカちゃんを守る。私が、そうさせる。だから、行くよ」
「うん」
イチカちゃんは立ち上がり、手を差し伸べる。ヒナミは、その手を掴んで立ち上がった。
大きな音をたてないように、そっと。でも急いで。廊下を歩く。いくつか部屋の前を通り過ぎると、下りの階段があった。ここ、二階だったんだ。
なんだろう。焦げ臭い。ちょっと煙い。
振り返ると、イチカちゃんが閉じ込められていた部屋のドアが、燃えていた。
「ヒナミちゃん、おんぶ」
イチカちゃんは早口でそういうと、その場にしゃがんだ。
「ありがと」
ヒナミはイチカちゃんの背中に掴まった。
ツンっと酸っぱい臭いが鼻をついた。イチカちゃん、お風呂も入れてもらえなかったんだ。帰ったら、一緒に入ろうね。
イチカちゃんはものすごい勢いで階段を駆け下りる。なのに、小さな背中は全然ゆれない。ミホより小柄なのに、安定感はイチカちゃんの方がはるかに上だ。
「すごい」
瞬く間に、階段の一番下に着いた。
イチカちゃんは、少し、呼吸が乱れている。
「大丈夫?」
ヒナミは声をかけた。
「また、パパに教えてもらったことに教えてもらったことに助けられちゃった」
イチカちゃんはニコリと笑った。
『火事です。火事です』
火災報知機の警報が鳴っている。
「出よ」
玄関は、階段のすぐ近くにあった。ヒナミとイチカちゃんは表に出た。
夜の街をヒナミ基準の早足で歩く。
ひと気はなく、お店のシャッターも閉まっている。
裸足だから、足の裏が痛い。
ヒナミは道を知らないし、イチカちゃんもよく知らないらしい。
ただ、あてもなくさまよっていると、駅に着いた。
コンコースのベンチに二人で並んで座る。
「これからどうしよう。ヒナミちゃん」
イチカちゃんは不安そうにいった。
「うん」
ヒナミは短くこたえた。
最終の高速船も、電車も行ってしまった後だ。そもそもお金を持っていない。
ウミがいてくれたら。ヒナミはキョロキョロと辺りを見渡す。なのに、肝心なときにいない。
「イチカね、誰か助けてくれそうな人を探してくるね」
「大丈夫?」
「うん。ちょっと待っててね」
イチカちゃんはそういって、立ち上がり、走って行った。
ヒナミは、服の中から勾玉を取り出し、なでる。
「ねえ、ウミ。これからどうすればいいの?」
しかし、なにもおきなかった。
ため息をつく。
そよ風が、ヒナミの髪をゆらす。
突然、強い眠気が襲ってきた。
さっきまでなんてことなかったのに。なんで。
だめだよ。もうちょっと、もうちょっとだけ、頑張らなきゃ……。
「イチカちゃんっ!」
そういいながら飛び起きた。
ヒナミは、自室のベットの上にいた。
イチカちゃんと会っっていたのは、あの男の家から逃げ出したのは、夢だったのだろうか。
ヒナミは大きくのびをすると、ベットに立てかけた杖を使い、リビングへ移動する。
「おはよう」
時計は朝の六時。
お父さんが、電話を片手に難しい顔をしている。
「ずいぶんはやいのね」
ヒナミは小さくうなずき、席についた。
テーブルの上には、目玉焼きと、サラダが置かれている。
「ヒナミ、一枚? 二枚?」
お母さんは食パンを取り出す。
「二枚、お願い」
ヒナミがいうと、お母さんは食パン二枚をトースターに入れた。
コップに牛乳を注ぐ。
イチカちゃんと出会ったのは、イチカちゃんが虐待を受けていたというのは、夢だったんだろうか。
夢じゃない、というには現実感が足りず、夢だった、といえないくらい音や臭いを鮮明に覚えている。
「ヒナミっ!」
「あっ、うわっ」
お母さんの声がして、ヒナミは我に返った。コップから、牛乳があふれそうになっていた。
「はい……はい……昼前には、必ず行きます……はい……はい。すみません。よろしくお願いします」
お父さんは何度かお辞儀をすると、電話を切った。ずいぶん長電話だったようだ。
「お父さん、なんの電話だったの?」
お父さんはヒナミの横の席に座ると、ゆっくりと深呼吸をした。
「広島県警からだ」
広島県警? ヒナミの頭には、イチカちゃんの顔が浮かんだ。
「なにかあったの?」
お母さんも、心配そうな表情だ。
「イチカちゃんがね、虐待を受けていたらしいんだ。それで、今警察に保護されてるんだって。それで、迎えに来てほしいっていってるらしいんだ」
お母さんは「まあまあ」と驚いた顔をしている。
「出来るだけはやい船で、呉に行ってくる」
お父さんは、そういった。いつもより、早口だった。
「お父さん」
ヒナミは落ち着いた口調でお父さんを呼んだ。しかし、そこからどんな言葉をつなげればいいのか、わからなくなった。
「ん? どした?」
お父さんは、優しい口調でいった。
「えっと……ええっと」
ヒナミは言葉が出ず、口をパクパクと動かす。
えっと、えっと。
無意識に、ヒナミはポケットを探っていた。あれ? なにか入っている。
取り出してみると、それは紺色の布の切れ端だった。ツルリとした手触り。水着かなにかかな?
「それ、なんだい?」
お父さんは不思議そうに、ヒナミの持つそれを見る。
そっか。そうなんだ。
やっと、言葉が見つかった。
「お父さん、私も、呉に連れていって」