第八話 イチカとハナ
イチカちゃんが呉へ行ってから、月日は流れ、夏休みは残り一週間ちょっととなった。
光陰矢の如し。つい昨日までイチカちゃんがいたような気がする。今頃、なにやってるんだろう。
窓から潮の匂いがする風が舞い込み、扇風機がそれをかき混ぜる。
ここはミホの家。
さっきまで二人で宿題をしていたのだけど、今はヒナミだけが鉛筆を握っている。
「よし、できた」
ミホは、手の中にあったものをテーブルの上に置いた。
ヒマワリの飾りが付いたヘアゴム。切れたゴムが、新しいものに交換されている。修理してくれたのは、ミホだ。
「ありがと」
ヒナミはヘアゴムを手に取ると、手首にとめた。
「こんぐらいお安い御用さ。でも、どうやってかえすの?」
ミホはいった。
「わかんない。どうしたらいいと思う?」
ヒナミがいうと、ミホはため息をついた。
「ヒナミにわからないこと、あたしにもわかんないよ」
ヒナミは、ぼんやりと天井を見上げた。
ミホのマンションを出て、家とは反対の方向、砂浜へむかう。
少し、歩こう。
坂を下って、踏切を渡ると、杖を伝って海水を含んだ砂の感触が伝わってくる。
足跡と杖の後を残しながら砂浜を進む。今は引き潮の時間だ。波打ち際で遊ぶ人たちの声を聞きながら、海岸と並行にまっすぐ進む。
やがて、砂浜の端っこまで来ると、階段を登り、踏切を渡る。すると、小学校の前に出る。
そこから、緩やかな登り坂だ。
セミが大合唱している。額を汗が流れる。
坂を登り切ったところの交差点で、知っている人に出会った。夏休みのはじめ、足を捻挫して道でうずくまっていた、あのお婆さんだ。
「あら、ヒナミさん。お久しぶりね」
お婆さんは両手にスーパーマーケットのビニール袋を持っている。
「お久しぶりです。一つ、持ちましょうか?」
ヒナミはいった。ビニール袋は、中身がぎっしり詰まっていて重そうに見える。杖を持ったままでも、一つくらい運べるだろう。
「ありがとう。でも、大丈夫よ。年はとったけど、まだまだ体は丈夫だから」
お婆さんは笑いながら袋を持つ腕を上げ下げした。
「イチカさんは一緒じゃないの?」
ヒナミはお婆さんから目をそらした。
「実は、イチカちゃんは親戚の人に引き取られて行ったんです」
「そう……なにか、わけありだったのね。遠くに行ったの?」
「呉です」
ヒナミは顔を動かし、海の方を見た。
「ねえ、もしよかったら、私の家でお茶でもどうかしら。イチカさんのこと、詳しく聞かせてほしいの」
ヒナミは首を横に縦に振った。
数日前のことだ。
ヒナミはリビングでソファーに座り、ため息をついた。
「ねーちゃん、十七回目」
弟のヨウタは部屋のすみで携帯ゲーム機をいじくりながらいった。
「そんなに宿題進まないの?」
ヨウタは画面から目を放さない。
「わかんないとこあったら、教えるよ」
まったく。同じ学年といえども、学業成績はヨウタの方が上だといえども、お前は弟なんだぞ。生意気な。
「そんなことない。やろうと思えばいつでも」
ヒナミはツンッとした感じでいいかえした。
「でも、やる気おきないんでしょ?」
ヨウタの一言がグサリと突き刺さる。はい、その通りでございます。
「郡中さんのこと、気になんの?」
さらに、ヨウタはいった。
「……」
沈黙。ヨウタの手の中のゲーム機の音だけが響く。
やがて、ヨウタの声が聞こえた。
「お父さんに聞いたら、連絡先わかると思うよ」
「ありがと」
ヒナミはソファーのひじ掛けを支えに立ち上がった。ヨウタのゲーム機から、ステージクリアの音楽が流れた。
お父さんは、書斎の扉をいつも開けっ放しにしている。
「あのね、お父さん」
ヒナミが入ると、お父さんはニコリと笑った。
「イチカちゃんの電話番号だろ。まっててね」
ヒナミは小さくうなずく。
「聞いてたんだ」
「子供の声を聞くのが父親だ」
お父さんはそういってから、照れたように笑った。
お父さんに教えてもらった電話番号にかけてみる。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません……』
あれ? ダイヤル押し間違えたかな?
もう一度。
『おかけになった……』
ゆっくりと、受話器をおろす。
「お父さん、繋がらないよ」
横にいたお父さんは「おかしいな」といいながら、電話をかける。しかし、すぐに受話器をおいた。
「なんでだろう。つながらない」
首をかしげるお父さんとヒナミ。
お父さんが聞いていたイチカちゃんの新しい家の住所は、実在しないということがわかったのは、その日のうちだった。
お婆さんの家にやって来た。
ヒナミは椅子に座り、お婆さんが入れてくれたミルクティーを飲む。冷たくって、おいしい。
「ヒナミさん、イチカさんの名字は『郡中』でしたよね」
お婆さんの言葉に、ヒナミはうなずいた。
「それで、呉に行ったのよね」
また、ヒナミはうなずく。
「ちょっと待っててね」
お婆さんはそういって、部屋の中をあさりはじめる。茶だんすの引き出しを開け素美済みまで確認し、押入れを開け中身を引っ張り出す。
「ええっと……あったあった」
お婆さんが取り出したのは、お菓子の箱だった。ずいぶん古いものらしい。茶色く変色して、ホコリがつもっている。
テーブルの上に箱を置くと、ぞうきんでホコリを拭ってから、ふたを開ける。
中に入っていたのは、大量の年賀状だった。
お婆さんは、年賀状を一枚ずつ取り出しては確認していく。
「ああ、あったわ。ほら」
お婆さんはそこの方から、一枚取り出した。
あけましておめでとうございます、という当たり障りのない挨拶文の横に『郡中家一同』の文字。さらに、その横には電話番号があった。
「たぶんまだ、この番号のはずよ」
お婆さんは年賀状を片手に、電話のダイヤルを押す。
ヒナミは、テーブルに体重を預けながら立ち上がると、お婆さんの横に移動した。
「あ、もしもし。久しぶりね。ハナです。そんな幽霊でも見たような声出さなくてもいいじゃない。ほんの三十年ぶりなんだから」
電話は、無事つながったようだ。っていうか、お婆さんの名前、ハナっていうんだ。
「ちょっと訊きたいことがあるんだけどね、そっちで小学四年生の女の子預かってないかしら? 名前はイチカさん」
お婆さんは、おっとりとした口調でしゃべり、何度か相づちをうつ。
「……そう、そうなの。その子、前まで松山にいたでしょ。そのときに、偶然知り合ってね。……ええ、そう。その子のお友達が、話したがってるの。ちょっとくらい、いいでしょ。……本当よ。びっくりしてるの。みーんな知り合いなんて、子の世も狭いものね」
さらに数回、お婆さんは相づちをうった。それから、微笑みをうかべて、ヒナミに受話器を差し出した。
「もしもし」
ヒナミは、おそるおそる受話器を耳にあてる。『ヒナミ……ちゃん?』
受話器のむこうの声は、紛れもなくイチカちゃんのものだった。
「イチカちゃん?」
『やっぱり、やっぱりヒナミちゃんだー。うれしいな。ヒナミちゃんの声がまた聞けるなんて』
イチカちゃんの声は弾んでいる。本当に、心の底からうれしそうだ。
「うん、私もうれしいよ。元気そうだね」
『……えへへっ。私は、元気なのが取り柄、です。こっちはね、とーっても楽しいんだ。みんな優しいし、新しいお友達もできたし、造船所ってはじめてみたんだ。イチカね、この街が、とーっても気に入ってるの』
イチカちゃんは長い言葉を一気にいい切った。
『それでね、それでね』
イチカちゃんがなにかをいいかけたときだ、電話のむこうから、もう一人、声が聞こえた。なにを行っているのかは、うまく聞き取れない。
『お友達が呼んでる。ごめんねヒナミちゃん私、行かなきゃ』
イチカちゃんの声は、心底残念そうだった。
「そっか。わかった。元気でね」
『うん。ヒナミちゃん、私ね、今いろいろと忙しいんだ。だから、だからね、しばらくは電話かけて来ても、出られないかもしれないの』
「わかった。また、落ち着いたら電話くれる?」
ちょっとさみしい気がするけど、しかたないよね。
『うん。ヒナミちゃんの声が聞きたくなったときは、電話するね』
そのとき、ヒナミは思い出した。
「あ、そうだ、イチカちゃんの髪留め、拾ったから」
『あ、髪留め……』
そこで、電話が切れた。イチカちゃんは、最後になにをいおうとしたんだろうか。ヒナミはゆっくりと、受話器を置いた。
「どう? 話せた?」
お婆さんが、静かに問いかけ、ヒナミはうなずいた。
「お婆さん、何者なんですか?」
ヒナミは、お婆さんの顔を見上げる。
「まあ、お茶でも飲んで」
お婆さんはテーブルの上の年賀状を片付けはじめる。ヒナミはゆっくりと椅子へむかう。
「お爺さんがね、呉の出身でね、郡中家の本家の出なのよ」
ヒナミが座るのを待ってから、お婆さんは話しはじめた。
「次男だったから、私と結婚すると、家を出てここに引っ越して来たの。お爺さんはね、本家をあんまりこころよく思ってなかったみたいね」
お婆さんは、年賀状が入った箱を端っこに寄せると、椅子に座る。
「それでも、年賀状のやりとりはしたし、年に何回かは本家へ顔を出しに行ったわ。あの子が亡くなるまでは」
ヒナミは無意識のうちに、棚に飾られたお婆さんの娘の写真を見ていた。
「あの子が死んだ後、私もお爺さんも、なんにもやる気が出なくなってしまってね、結局その年は一度も本家に行かなかったし、喪中だったから、年賀状もなかった。それがきっかけで、次第に本家とは離れていったの」
ヒナミは、意識してお婆さんに視線を戻す。
「八月ももうすぐ終わりね。あの子もまた、むこうに帰ってしまうわ」
むこう、というのは死後の世界だということはわかった。
「ここに、いるんですか?」
ヒナミは尋ねる。
「そう、信じたいものね」
お婆さんは一度、息を吐いた。
「郡中って名字、あんまりないでしょ。それで呉に行ったっていわれたら、もしかしてって思ったの。アタリだったみたいね」
それから、ヒナミはイチカちゃんが今暮らしている場所の住所と、電話番号を書いたメモをもらった。
丁重にお礼をいって、お婆さんの家を出た。
振り返ると『郡中』と表札の出た門柱の横で、お婆さんは手を振っていた。
家に帰ってから、夕食を食べて、夏休みの宿題をした。夏休み期間中の新聞記事を一つ選んで、その感想を書くというものだ。お母さんに頼んで、夏休みに入ってからの新聞を全部とっておいてもらった。その一つ一つを見ていく。
政治の難しくてよくわからない話。
陸上選手が、世界記録を出した話。
どこかの自治体が、町おこしのためにイベントをしている話。
うーん。なんだか、感想が書きやすいものがないな。
『フェリー事故、運行会社社長を逮捕』
これは、イチカちゃんの事故の続報だ。ヒナミはすみずみまで目を通す。
ヒナミは、イチカちゃんのことを知っているから、この記事の感想を書くのは簡単だ。イチカちゃんとの思い出を書けばいい。
でも、それはいやだった。なんだか、楽をするためにイチカちゃんのことを、利用しているみたいだ。
別の記事を探そう。
フェリー事故の横にあったのは、子供が虐待を受け、亡くなったという記事だった。これもパスだ。