第七話 さよならイチカちゃん 後編
その日の夜。
この数日のうちに、お母さんは空き部屋を片付けてイチカちゃんの部屋にした。でも、イチカちゃんは今夜は、ヒナミの部屋に来ていた。ヒナミも、来てくれたことが嬉しかった。
ヒナミはベットに横になり、イチカちゃんはベットの横に布団を敷いた。ちょうど、イチカちゃんがはじめてやって来た日の夜と同じ格好だ。
「三つ峠山ってお山があるの。開運山、御巣鷹山、木無山っていう三つのお山を合わせた山なんだけど、イチカは三つとも登ったんだ」
「お父さんと一緒に?」
「そう。パパがね、休みの日にね、連れてってくれるの。登山口までは電車ですぐだったんだ。パパはね、いろんな山に登ってて、ロッククライミングもしてたから、手のひらがね、マメだらけでゴツゴツしてたんだ」
ヒナミは自分の手のひらをなでた。
『ヒナミさんの手、マメだらけ』
『いっつも杖を握ってるから』
『でも、あったかい』
『生きてるから。それでいいでしょ』
以前、誰かとそんな会話をした気がする。もう、ずっとずっと前のようだ。
「ヒナミちゃん?」
イチカちゃんの声で、ヒナミは我に返った。
「大丈夫? 眠いの? ごめんね。イチカがおしゃべりしてたら、眠れないよね」
ベットの上で首を横に振った。
「大丈夫だよ」
ヒナミは、目をこすった。イチカちゃんと過ごす最後の夜、眠ってしまうのがもったいなかった。もっと、イチカちゃんの話を聞きたい。
「ねえ、イチカちゃん。どこで、お父さんに知り合ったの?」
なんでもいい。なにかイチカちゃんと話しがしたくて、そういった。
「一月くらい前、フェリーで事故があったの。ヒナミちゃん、知ってる?」
ああ、そういえばそんなこともあったな。ヒナミの頭には、テレビのニュースの画面が浮かんだ。
「あれね、私なんだ」
「うん」
おどろかなかった、といえばウソになる。でも、心のどこかでわかっていた。
「イチカなの。パパと、ママと、私。三人で海に落っこちて、私だけ見つかった。ヒナミちゃんのパパに助けてもらったの。パパとママはまだ行方不明」
ヒナミの脳内に、ニュースキャスターの声が流れた。
『子供を含む男女三人が海に転落し、そのうち二人の行方が現在もわかっていない……』
「でも、イチカちゃん、泳げないんじゃ……」
「パパはね、とっても水をよく飲むの。だからね、いつも、一リットルの大きなペットボトルを持ってるの。あのときも、持ってた」
「それを、浮輪代わりに?」
「うん。パパが渡してくれたの。必死だった。無理やりペットボトルを持たされて、私も、それしか考えられなくて、とにかくペットボトルにしがみついて、大きな波が来たら、もう、パパはいなかった」
夏の夜。開け放した窓から、風が吹き込み、カーテンを揺らす。ああ、涼しくって気持ちいいな。月が見える。今夜は満月だ。
「ねえ、ヒナミちゃん。『タイタニック』って映画のラストシーン、知ってる?」
イチカちゃんはおもむろに、そんなことをいった。有名な映画だけど、ヒナミは見たことはない。
「ごめん。知らない」
ヒナミの言葉をうけて、イチカちゃんは静かに首を横に振ったようだ。
「ごめんね。ヘンなこと訊いたよね。それで、どこまで話したっけ。……そうだ、それからね、ヒナミちゃんのパパのお船に助けてもらったの。フェリーから落ちたのが、夜だったの。それでね、助けてもらったのは朝早くだった」
イチカちゃんは、一度、ゆっくりと息を吐く。
「ヒナミちゃんのパパはね、イチカのことギュってしてくれたの。苦しいくらいね、ギュって。とっても暖かかった。それでね『生きててよかった』って。『生きるのを頑張ったね』っていってくれたんだ」
ヒナミは寝返りをうつ。
「イチカちゃん、好きなんだ。お父さんのこと」
「へへ、バレちゃった」
「あーげない」
「ケチ」
お互いに笑いあった。笑って、笑って、笑いがおさまると、またイチカちゃんは話しはじめる。
「それから、ちょっとだけ入院して、パパとママのお葬式をしたの」
「お葬式? まだ行方不明じゃないの!」
ヒナミは思わず大きな声を出してしまった。
「うん。だけどね、親戚の人たちがさっさとやっちゃったの。本当に、はやかった」
一方で、イチカちゃんは落ち着いて話している。
「お葬式でね、みんながヒソヒソ話すの。誰がイチカを引き取るんだって」
そっか。ドラマなんかだと、ときどき見かける光景だけど、イチカちゃんは本当にそれを経験しちゃったんだ。
「そこに、お父さんが現れたんだ」
「うん。うちにおいでっていって、ビックリしてるイチカのこと、そのまま連れてくんだもん」
イチカちゃんは「あのね」と言葉をつなぐ。
「ヒナミちゃんのパパがいってた。三ヶ月たっても見つからないときは、死んじゃったことになるんだって。でも、逆にいったらね、三ヶ月はあきらめちゃだめだって」
「六月だっけ? 事故」
「うん。六月のはじめ。だから、二学期になるころまでだよ」
「そっか」
ヒナミははげましてあげたかった。なんとかなる、と。なにもかも上手くいく、と。でも、その言葉に責任が持てないことはわかっていた。だから、なにもいえなかった。
「呉の街はね、パパの生まれた街なの」
「うん」
「パパはよくいってた。もしも、許されるなら、呉の街でずっと暮らしたかったって。あの港の景色を、イチカにも見せてあげたかったって」
「うん」
「これからね、呉に行って、親戚の人たちに受け入れてもらって、新しい学校に通って、いっぱいお友達ができて、そんなある日、パパとママがひょっこり帰ってくるの。そんなの、都合よすぎるのかな?」
ヒナミは、なにも答えなかった。答えられなかった。
「きっとね、本や漫画の中じゃなくても、幸せな物語はあるって。そう思ったら、毎日楽しいんだ。信じても、いいよね」
それから間もなく、イチカちゃんの寝息が聞こえはじめた。
「ウミ、いる?」
ヒナミは、イチカちゃんをおこさないように、小声で呼びかける。
すると、窓から風が吹き込み、カーテンを揺らす。月明かりが、部屋を照らし出す。
ベットの横にウミは立っていた。その銀色の髪は風になびき、月明かりに光る。まるで、海面の波のようだ。
「ねえ、ウミ。イチカちゃんのお父さんとお母さん、まだどこかで生きてるの?」
ヒナミは静かに尋ねた。
ウミは、首を横に振った。淡泊な動きだった。
ヒナミは視線をウミからイチカちゃんに移した。とっても幸せそうな寝顔だ。
再び、ウミに視線を戻すと、深く息を吸った。
「チサトちゃんを看取ったの、アンタだよね」
ウミはうなずいた。
「助けることは、できなかったの?」
ウミは、うなずいた。はっきりと。
「そっか。そうなんだ。ありがとう」
ウミでもどうしようもなかったということは、どうしようもなかったのだ。
悲しくなんかない。そう思いたかった。仕方のないことだったのだから。
次の日の午前中。ミホを呼んで、ヒナミの家でお別れ会をした。
お菓子を食べて、ゲームをして、いっぱいおしゃべりした。
「ねえねえ」
「あのね」
「それでね」
「でもでも」
「だからね」
「きっとね」
「とにかくね」
「大好きなんだ」
イチカちゃんはずっとしゃべっていた。前の学校の友達のこと、好きだった男の子のこと、遠足のこと、山登りのこと。
いつ以来だろうってくらいの、バカ騒ぎをした。
そして昼下がり、あの男の人がやって来た。
そして、夕方、自動車に乗って港へ移動する。本当は、歩いて行ける距離なんだけど、ヒナミがいるから自動車になった。五人乗にお父さん、男の人、ヒナミ、イチカちゃん、ミホで乗った。
お父さんは、子供三人に、ソフトクリームを買ってくれた。待合室のベンチに座り、それを食べる。
「またいつか、会えるかな?」
イチカちゃんはつぶやくようにいった。
「会えるよ。海のあっちとこっちだもん。すぐ近くだよ」
ミホはソフトクリームのコーンを口に押し込むと、いった。
「そんなこといったら、日本とアメリカでも海のあっちとこっちだよ」
ヒナミは冷静な口調でいった。でも、とっても、この時間が楽しかった。
「うん、近く近く」
ミホは適当な調子で返した。
『只今から、十六時丁度発、スーパージェット広島港行き、乗船手続きを開始いたします』
アナウンスが流れた。
「イチカ、行くよ」
男の人が呼んでいる。
「じゃあね、ヒナミちゃん、ミホちゃん」
イチカちゃんは残っていたソフトクリームを食べきると、立ち上がる。続いて、ミホも立つ。ヒナミは、ミホにソフトクリームを預けると、杖を握って立ち上がった。
「大丈夫?」
ヒナミは気がついた。イチカちゃんの手が微かに震えている。
「なにが?」
平気そうな声で返したイチカちゃんは、険しい表情だった。
「イチカ、はやくおいで」
男の人の声。
「うん。すぐ行く」
男の人と乗船ゲートをくぐり、桟橋へ。イチカちゃんの姿はどんどん遠くなる。
着岸した船に、次々と人が乗り込んでいく。
そして、イチカちゃんが乗り込もうとしたときだ、突然、その髪がフワリと広がった。
へアゴムが、外れたようだ。
キョロキョロと足下を見回すイチカちゃん。
しかし、男の人は、イチカちゃんに船に乗るよう、うながす。
それでも、イチカちゃんはキョロキョロと、落ちた髪留めを探している。
男の人は、イチカちゃんの手を掴んで、船に乗り込んだ。
「イチ……」
ヒナミは名前を呼ぼうとした。でも、その先の言葉が思いつかなかった。
「あっ」
ミホの持っていたヒナミのソフトクリームが、とけて地面に落ちた。
乗船口は閉まり、船はディーゼルエンジンの黒煙をあげながら、桟橋を離れる。
「これで、よかったのかな」
ヒナミは、離れゆく船影を見ながらつぶやいた。
「他に、どんな選択肢があったのさ」
ミホはそう返事をした。
ヒナミの手に、なにかが触れた。見ると、ウミだった。
ウミは、手を差し出す。なにかを握っているようだ。
ヒナミは、片方の手を、杖から放なす。杖はバンドで腕に固定しているから、床に落ちることはない。
ウミは、その手にあった物をヒナミに握らせた。
それはヘアゴムだった。ヒマワリ飾りが付いたヘアゴム。イチカちゃが使っていたものだ。ゴムの部分が切れている。
「なにかを間違えたとは思ってないけど、でも、これでよかったのかな」
瀬戸内の海は、夕日を反射しながら穏やかな波を生んでいた。