第四話 イチカちゃんと天体観測
イチカちゃんが肩を貸して、お婆さんは道路のはしっこに移動した。
「ちょっとごめんね」
イチカちゃんはお婆さんの靴と靴下を脱がせる。お婆さんの足首は、真っ赤になって腫れていた。
「捻挫かな? おばあちゃん、家は近くなの?」
イチカちゃんはお婆さんに靴下と靴を履かせる。
「ええ。すぐ近くよ」
その返事を聞いた途端、イチカちゃんは笑った。
「じゃあ、とりあえず帰ろっか」
イチカちゃんは帽子のリボンを解くと、お婆さんの足に、靴の上からまいてゆく。
「やめて、汚れてしまうわ」
お婆さんはそういったけど、イチカちゃんは手を止めない。
「いいの、いいの。足首を固定しちゃったら、歩けるはずだから。ちょっと窮屈かもしれないけど、我慢してね」
イチカちゃんは、リボンをくくった。お婆さんの足は、しっかりと固定されているように見える。鮮やかな手際だった。
そこから少し歩いたところ、お婆さんの家は、ヒナミの家の近くだった。家に着くと、
イチカちゃんはてきぱきと応急処置をした。
お婆さんを和室の畳の上に寝かせると、座布団を積み上げて、そこにお婆さんの足を乗せ、包帯を巻いてから、保冷剤で冷やす。
ヒナミはその様子を座って見ていた。
「おばあちゃあん、一人暮らし?」
イチカちゃんはお婆さんの横に座る。
「いいえ。お爺さんもいるから大丈夫よ。もうすぐ帰ってくるはずなんだけど……」
「じゃあ、おじいちゃんが帰ってくるまでイチカ達ここにいるね。いいよね、ヒナミちゃん」
ヒナミはうなずく。急いで帰る理由なんてないし、お婆さんも放っておくわけにはいかない。
「ヒナミさんに、イチカさんね。今日は、本当にありがとう。必ず、お礼をするわ」
イチカちゃんは首を横に振った。
「いいんだよ。これくらい」
お婆さんはほほえんで、イチカちゃんを見た。
「どうしたの?」
「イチカちゃんを見ているとね、娘を思い出すの。イチカちゃんにそっくりな」
「おばあちゃん、娘がいるの?」
イチカちゃんの声に、お婆さんはうなずいた。
ヒナミは視線を動かす。棚に写真立てがあって、写真が飾ってある。写っているのは、女の子だ。ヒマワリの飾りが付いたヘアゴムで髪を止めている。確かに、いわれてみればイチカちゃんに似ている気もする。
「今は、一緒に暮らしてないの?」
イチカちゃんは尋ねた。
「病気で死んでしまったの」
お婆さんがそういった途端、ヒナミは心臓を掴まれるような、ドキッとした感覚に襲われた。
お婆さんの話なのに、ヒナミは知らない人の話なのに、なんで、こんな気持ちに、こんな悲しい気持ちになるんだろう。
「……ごめんなさい」
イチカちゃんは、うつむいて、つぶやくようにいった。
「いいのよ。顔を上げて。イチカさん。もう三十年も前の話よ」
「……でも」
「もうすぐ、八月でしょ。毎年この時期になると、そわそわと落ち着かなくなるの。お爺さんにはあきれられるんだけど、ほら、お盆に死んだ人たちが帰ってくるっていわれているでしょ」
イチカちゃんはうなずく。
「あの子も、きっと、毎年帰ってきてくれているはずよ。夏が、大好きだったから」
お婆さんは部屋の隅のタンスを指さす。
「そこの引き出し、あけてみてくれる? 一番上の、右側」
イチカちゃんは小さくうなずくと、立ち上がり引き出しをあける。
「そこにね、髪留めが入ってるでしょ。よかったら使ってくれないかしら」
中から取り出したのは、ヘアゴムだった。大きなヒマワリの飾りが付いている。
「いいの?」
イチカちゃんは顔を上げる。
お婆さんはうなずいた。
「ねえ、おばあちゃん。イチカっていうのはね、一輪の花だから、一輪だけの花だから、イチカっていうんだって。ママがいってた」
イチカちゃんは、頭の両サイドで髪をくくっている。その片方をほどくと、ヒマワリの付いたゴムでくくりなおした。
「そう。いい名前ね。大切にしてね」
お婆さんがいうと、イチカちゃんは「へへっ」と笑った。
お爺さんが帰ってくると、ヒナミとイチカちゃんはお婆さんの家を出た。
「フンフン フンフ フフッフフーン」
ヒナミの数歩前を歩くイチカちゃんはご機嫌だ。鼻歌を歌っている。
「ありがとね」
ヒナミはいった。
「ううん。たぶん、ヒナミちゃんに会わなかったら、イチカはね、あの道を通らなかったと思うんだ。イチカは、なにもしてないよ」
そんなことはない。今回、一番の活躍は間違いなくイチカちゃんだ。
「ねえ、イチカちゃん」
「なに?」
「応急処置、誰に教えてもらったの?」
なんの迷いもない、鮮やかな手際だった。
「パパだよ。いつか、山でけがをするかもしれない。けがをした人を見つけるかもしれない。だから、覚えとけってさ」
「……そうなんだ」
そのとき、やや強い風がヒナミの髪を揺らし、イチカちゃんの帽子をさらった。
「あっ」
帽子は、ふわりと宙を滑空してから、海面に降り立ち、波紋を作る。
「拾えそうにないね」
イチカちゃんは残念そうにいった。
「あの帽子ね、パパとママに誕生日にもらったものなんだ。赤いリボンはね、イチカが迷子になったとき、見つけてもらえるようにって」
イチカちゃんはヘアゴム飾りをなでる。
「まっ、仕方ないね」
そういったイチカちゃんの姿は、夕日に照らされていた。
家に帰って、夕食を食べて、また出発する。
海辺の道を道なりに進む。日は暮れていて、遠くに、フェリーの灯りが見える。
「ねえ、ねえ、ヒナミちゃん」
横を歩くのは、イチカちゃんだ。
「なあに?」
ヒナミは歩きながら答える。
「ヒナミちゃん、泳げる?」
「うん。泳げる」
ヒナミは走ることはできない。でも、泳ぐことはできる。腕が動くから。体育の時間に記録をはかったときはクラスで三番目だった。なかなかの記録だ。
「今度、教えてほしいな。私は、泳げないから」
イチカちゃんが持っている懐中電灯の光が止まった。イチカちゃんは、立ち止まっていた。
「どうしたの?」
ヒナミも足を止める。イチカちゃんは、けわしい表情で海を見つめていた。
「ヒナミちゃん、夜の海って恐くない?」
それは、ヒナミの感じたことがない感覚た。
「恐い?」
イチカちゃんは、うなずく。
「うん。真っ黒で、空との境目もわかんなくて。落ちたら、二度と戻ってこられない気がする」
「帰る?」
イチカちゃんを連れ出したのはヒナミだ。悪いことしちゃったかな。昨夜のこともあるし。
「ううん。行く」
イチカちゃんは、頭を横に振った。ヒマワリの飾りが、揺れていた。
緩やかな曲線を描く坂を下り、小学校の前を通り過ぎて、路地に入り、公民館の前を通り過ぎ、踏切を渡る。そこが、砂浜。
「おーい。」
むこうで、手を振っている人が見えた。ミホだ。
「いこっか」
ヒナミがいうと、イチカちゃんは大きくうなずく。
「来たね」
「来たよ」
近くまでいくと、ミホとヒナミはお互いに笑いあう。
「そちらさんが?」
ミホの視線は、チサトちゃんへむかう。
「そう、イチカちゃん」
ヒナミはいった。
「私、郡中イチカ。四年生。よろしくね」
「うん、私は横河原ミホ。ヒナミとおんなじクラスなんだ。よろしくね」
イチカちゃんは、ミホの横にある望遠鏡に顔をむける。大きな天体望遠鏡で、三脚に据え付けてある。
「これ、ミホちゃんの? お星さまが好きなの?」
「うん。友達にもらったんだ。星は……好きかどうかわかんないから勉強中、かな。イチカちゃん、のぞいてみ」
ミホにうながされて、イチカちゃんは望遠鏡をのぞき込む。
「すごーい。土星の輪っかがみえる」
はしゃぐイチカちゃん。得意げなミホ。ヒナミは空を見上げる。
海原の上に広がる夜空に散らばる、銀色の星々。最後にゆっくりと星を見たのは、いつだっただろうか。
そうか、思い出した。ミホと喧嘩したときだ。もう三カ月以上前なんだ。
一瞬。夜空に銀色の線が光る。
「流れ星」
ヒナミはつぶやくようにいった。
「え、どこどこ」
イチカちゃんは慌てて空を見上げる。その横で、ミホも空を見上げていた。
また、流れ星が見えた。
「見えたっ!」
ミホが大きな声をあげた。
一つ、二つ、三つ。流れ星が、次々とながれていく。
「ヒナミ、何かお願い事したら?」
ミホがいった。
「やめとく。三回もいえそうにないし」
そもそも、願い事が思いつかない。
「パパとママが帰ってきますように」
そんな声が聞こえた。イチカちゃんだった。胸の前で手を組んで、祈っていた。
「イチカって、なんでこの街に来たの?」
ミホは尋ねた。
「パパもママも遠くに行ってるから、親戚の人のところで暮らすことになったの。でも、みんな、私の顔を見ると嫌な顔をするの。私はみんなから嫌われてるから」
嫌われてるから。その一言には、イチカちゃんのあきらめが感じられた。
「なんで、嫌われてるの?」
思わず、ヒナミは尋ねた。
イチカちゃんは砂の上に座り、夜空を見上げる。
「私のママはね、外国の人なんだ」
「イチカちゃんってハーフなんだ」
ミホの言葉にイチカちゃんはうなずく。
「パパとママが結婚しようとしたときね、パパのおじいちゃん。私のひいおじいちゃんが大反対したんだ。外国人だからっていう、それだけで」
波の音が、聞こえる。二度、三度。
「それで、パパとママは駆け落ちしたの。ひいおじいちゃんは、もう死んじゃってるんだけど、パパはまだ許されてなくて……。聞いちゃった。親戚のおじさんが、家に穢れた血は入れないっていってるの。私ね、みんなと同じ、赤い血なんだよ」
「そんなの酷いよ。イチカちゃん関係ないじゃない」
ミホは叫んだ。ヒナミも、大きくうなずく。
「でも、でもね、ヒナミちゃんに会えたことは、とっても嬉しいんだよ」
ヒナミは「ありがとう」とつぶやいた。